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第十四話 願う
しおりを挟む玄関口の度を越したいやがらせを受けた当日、美代の力強い勧めから、今までの一連を担任の教師に相談した。
土日をはさんで返ってきた答えは「様子を見よう」という日和見なものだった。
「どういうことですか⁉」
「うーん、まあ、両方の見解を鑑みて、って感じかな。意見の相違ってこともあるし。とりあえず、前向きに検討するから、今は静観ってことで。また何かあったら教えて」
「そんな……」
代わりに抗議してくれた美代は、途方に暮れた目で蓮華を見た。
どっちつかずの教師の姿勢に、陽治郎は教育者とはこんなものかと失望する。顔から表情が失われていくのを感じた。
追いだされるように職員室から出た蓮華と美代は、ドアの前で放心状態で立つしかなかった。
「あの噂、本当だったんだ」
口の中でつぶやかれた小さな声は、静かな職員室前の廊下では蓮華の耳にも届いた。蓮華の先を促す目に気づいた美代は、迷いながら口を開く。
「蓮華ちゃんにひどいこと言ってきたグループの中心の子、覚えてる? あの梨花って子の親が、地元では有名な代議士らしいの。だから、みんな強く言えないんだって」
美代はぎゅっとスカートを握りこむ。その手は無力さを嘆くように震えていた。
「せっかく風巻(うち)に来てくれたのに、早々にこんなのってないよね。ほんと、ごめんね」
彼女は何も悪くない。陽治郎はそう強く言いたいが、うまく口が回らなかった。どうか、少しでも伝わるように。そう願って、美代の手を取り、両手で包みこんだ。
「美代ちゃんがいてくれて、よかった。嬉しい」
思えば、美代は最初から蓮華を助けようとしてくれていた。特別、正義感が強いわけではない。気が強い子でもない。ただ心優しい、まっすぐな性根の彼女を、蓮華も陽治郎も好意的に感じていた。
つっかえながらも素直に気持ちを伝えると、美代は不甲斐なさから泣きそうになっていた目頭をぬぐい、笑顔に変えた。陽治郎もつられて口角を上げようとした。
「ふぅん、何それ? なんかうちらが悪者みたいじゃんね?」
勢いよく、肩に腕を回される。目の前には青い顔をした美代がいた。
「男に色目使ったあんたが悪いのにねぇ?」
蓮華の周りをいつの間に近づいていたのか、五、六人の柄の悪い男女が囲む。蓮華の顔を覗くのは、いじめの主犯である梨花だった。
「ちょーっとお話しようよ。誰かに邪魔されないとこでさぁ!」
にたぁと下品に笑う彼女は、乱暴に向きを変えて蓮華の首を絞めながら移動し始めた。背後で、美代も同じように拘束されている気配を感じ、下手に動くのは得策ではない。絞まり続ける首の苦しさにもがくも、腕の力は一向に弱まってくれない。
職員室や応接室のある北棟は、ほかの教室棟と比べて閑静で、生徒の数が少ない。誰にも咎められないまま主犯グループに引きずられ、上履きのまま校舎の外に出る。
北棟と東棟の間の渡り廊下を横切り、東棟の校舎裏にまで連れてこられた。抵抗できないまま、蓮華はぽつんと建っているプレハブ小屋の前に放りだされる。スチール製の小屋に叩きつけられ、思わずうめき声をもらした。「蓮華ちゃん!」と美代の悲鳴を上げる声が耳に届く。
「開けて」
梨花が指示すると、取り巻きの男がプレハブ小屋の扉を横開きにする。
「いたっ!」
「おらよっと」
制服を着崩した、真面目とはほど遠い男に見下ろされる。男に粗雑に髪を鷲掴みにされ、地面に引きずられて容赦なくプレハブ小屋の中に放りこまれた。
「蓮華ちゃん‼」
美代の切羽詰まった悲鳴に反応はできない。
「お友達はさ~、ちょっと静かにしてようね~」
「っんぐ」
別の男によって手で口をふさがれた美代に、陽治郎は急いで体を起こして助けようとした。しかし、打ちつけた背中は痛みを伴い、力の入らない体は思うように動いてくれない。陽治郎は女子の非力さを悔やんだ。
「嵐先輩に媚売るような女はさぁ、痛い目見ないと分かんないよね? 少しそこで反省しなさいよ」
ぎゃははと汚い嘲笑を浮かべる女子たちに、震えながらもにらみあげた。梨花は尖がった爪先を立てるように蓮華の顎を持ちあげると、唾を吐きかける距離で罵倒してくる。
「誰かに言ったところで親なしのおまえを信じるわけないじゃん? 担任にちくったって無駄なんだよ!」
「親なし」という言葉に、陽治郎の頭は真っ白になった。次に頭の中は真っ赤になって、わなわなと口は震えた。蓮華を、青葉を馬鹿にされた。怒る理由はそれだけでよかった。
「なんだよ、その目は! むかつくんだよ!」
梨花は顎を持っていない方の手で、蓮華の頬を横になぎ倒すように叩いた。倒れこむ蓮華の頭を足で踏みつけ、ぐりぐりと地面に押しこんでくる。
頭上で思いつくままの口汚い罵(ののし)りと、荒々しく踏みつけられる頭の痛み。勢いよく頭を蹴られ、蓮華の体はプレハブ小屋の奥へと滑りこんだ。
「こんな倉庫なんかに誰も来ねえよ。干からびるまでそこで反省してろ」
ガジャンっと音がして、チカチカしていた視界が真っ暗になる。ひっと悲鳴に近い息を呑んだ。窓のないプレハブ小屋は扉が閉められたことで、一切の光源をなくした。蓮華の頭の中は「暗い」という絶望に覆われる。
――蓮華さん?
陽治郎はすぐさま蓮華の異変に気がついた。体は小刻みから大きな振り幅に変わって震えだす。心の底に根づいた恐怖が全身に危険信号を発信する。怖い。怖い、怖い、怖い‼ と体と心が叫んでいる。
蓮華の叫びが陽治郎の魂を包みこんでしまう。陽治郎は蓮華の心に声をかけ続けるが、それを上回る「怖い」という感情が邪魔をする。
陽治郎はその恐怖の元凶にもがくようにしてたどり着く。そこには小さなころに母親から与えられた心の傷があった。
明日香の言う通りにしなかったため、「悪い子はここにいなさい」とクローゼットに閉じこめられた蓮華。どれほど泣きわめいても、ごめんなさいと謝罪しても、明日香は真っ暗な世界から出してはくれなかった。仕事から帰ってきた青葉に開けてもらうまでの数時間、蓮華はずっと暗闇の中にひとりぼっちだった。
明日香は育児の一環だと言う。やりすぎだと非難する青葉と喧嘩する明日香に、蓮華は自分のせいで家族の関係を台無しにしたとどんどんうちにこもるようになった。
暗闇は悪いものを運んでくる。暗い中でひとりは恐ろしいと、全身で拒絶する。
「お父さんっ」
蓮華は思わず父親に助けを求めた。
だが、当然青葉は助けてはくれない。
怖くて怖くてたまらなくても、青葉は駆けつけられない。蓮華の目に涙が溜まっていく。
右手首がかあっと熱くなる。そこだけ体温が上昇したかのように熱を持ちだした。
――蓮華さん、聞こえる? 聞こえてる?
陽治郎は気遣う声を発した。ぴくりと反応が返ってくる。蓮華は陽治郎の声に応えられないものの、存在をたしかに感じているようだった。
――君はひとりではないよ。思いだして! 君を助けてくれる存在を!
そのような存在はいない。絶望感に足をすくわれ、前を向けない。踏みだせない。陽治郎の声は遠ざかっていく。
――蓮華さん、大丈夫だ。私たちがそばにいる!
本当に? と迷子の顔で問う。本当に信じていいのか、蓮華はまだ分からない。
だが、祈るように、願うように、ささやくように。そばにいると、そこにいると、すがるように。蓮華は、自分と陽治郎の唯一の神様の名前を呼んだ。
「――紫、さん」
声にするだけで、体が、心が軽くなっていく。すうっと爽快な気が漂った。
「紫さん、助けてください」
ふわり、と花の香りが鼻をくすぐった。一瞬にして温かな明かりが周りに灯る。後ろから震える体を抱きしめる気配がして、その安らかな温もりに蓮華の不安は消え去っていた。
「助けを呼べたね。よくできました」
風が通っていくような声が耳元に響く。穏やかな春の温かさを持つ声は、そっと前を指し示した。
「もう大丈夫。ほら、前を見てごらん」
後ろから抱きしめていた紫の白い手が、暗闇の奥を指さした。その先はすぐさま白く光りだし、あっという間に視界を真っ白に奪った。
「蓮華っ‼」
――ああ、もう怖くない。
蓮華の頬に、一筋だけ涙が流れた。
プレハブ小屋の扉が開いて、外から嵐が飛びこんできた。うずくまる蓮華に気づくと、すぐさま駆け寄って抱きあげる。
「大丈夫か? 痛いところは⁉」
いつもの冷静さはなく、心配を表に出して焦る嵐に、蓮華は嬉しくて胸が詰まった。安堵が広がって、深く息を吐くと、背中の温もりは消えていた。
蓮華が背後を振り返ると、そこに紫の姿はなく、小屋の中にも彼の気配はまったくなかった。
「蓮華ちゃん‼」
滂沱(ぼうだ)の涙を流しながら駆けてくる美代の姿に、蓮華は嵐に支えられながら腕を伸ばす。勢いよく抱きつかれ、同じ力で彼女を抱きしめた。
「よかった! よかったよぉ!」
「美代ちゃん、巻きこんでごめんね。――ありがとう」
「そんなの気にしなくていいんだよぉ!」
抱きしめ合いながら、ほっとした瞬間、安心の涙があふれた。音もなく涙を流す蓮華に、嵐が優しく頭をなでてくれた。
幕の張った涙の向こうで、梨花を含むいじめグループが教師たちに囲まれている姿が見えた。大人相手に大声でわめいている彼らをにらみつける教師陣に、蓮華は「助けられた」のだと実感を持って理解できた。
手首はいまだに熱を持ったまま。蓮華はそっと組紐をなでた。
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