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第八話 新しい日常
しおりを挟む陽治郎が紫の家に慣れてきたころ、蓮華の通う高校への手続きが済んだと聞かされた。新しく通う風巻(かざまき)高校は、市内に住む高校生のほとんどが通っている学校なのだそうだ。
「嵐くんも、そこの二年生なんだよ。蓮華さんのひとつ先輩だね」
今日も嵐が作った朝食をおいしそうにつまみ食いしながら、紫が教えてくれた。嵐は口を挟まず、黒と白の髪を持つ少女たちに茶碗を手渡している。
「場所はここから十分歩いたところからバスだけど、初日は嵐くんに教えてもらって」
「え……」
思わず声を上げて、おずおずと嵐に視線を向ける。嵐は黙々と白米を茶碗に盛っていた。「ん」と茶碗を渡され、一瞬思考が停止したあと慌てて受けとる。
嵐からはそれ以外の言葉はなく、否定もないため、紫の提案は呑まれたようだ。陽治郎はほっと胸をなでおろした。
蓮華の体に入っていると、彼女のもとからの性格や心の動きの影響を受けやすい。陽治郎だけならあまり緊張しない行動ひとつでも、蓮華にとっては障壁が高い内容でもある。
異性と会話するのも蓮華は苦手だ。大人の紫とは形式的な言葉は交わせるものの、率先して話しかけはしない。返事のほとんどは「はい」か「いいえ」で済ませてしまう。陽治郎としてはもっと話をしたいと思っていても、とたんに体はうまく動いてくれなくなる。体の優先順位は蓮華の意思に左右されるのだ。
この家の家事を担っている嵐に対しても、蓮華は消極的だ。居候の意識から手伝いをするよう行動しても、端的な指示だけで終わる。嵐自身も寡黙であるため、会話の取っ掛かりはほとんどなかった。
食事をする場でも、しゃべっているのはたいていが紫と使いの少女たちで、蓮華は静かにおいしい料理を口に運ん
でいる。
知らない場所に、ひとりでも知っている人がいるのは心強いが、嵐との登校を思い浮かべて憂鬱さもあった。それ以上に、微妙な時期の編入の方が気は重い。
蓮華かそれとも女子特有の難しさを読みとって、これからもっと気持ちが暗くなっていくのかと思うと、陽治郎はすでに気が滅入りそうだった。
朝食を終え、あと片づけを済ませると、嵐は無言でじっと蓮華を見つめてきた。怖じ気づく蓮華の体を陽治郎が叱咤して、「な、なにか……?」と問う。
「もう出られるか?」
「あ、えと、部屋に鞄があるので、それを取ってくれば」
「じゃあ、五分後に玄関で」
掛け時計に目をやってから、嵐はエプロンを脱いだ。その下に着ている制服の校章は、当然ながら蓮華が着ているものと同じだ。
急いで二階の自室にある鞄を肩にかけ、鏡で身だしなみを確認する。一階に降りると、嵐は玄関で右白と左黒に絡まれていた。
「嵐、どこ行くの~?」
「どこ、行くの」
「学校行くんだよ。おい、こら、足の上に乗んな。ぐっ、飛びつくなよ」
背中に右白をくっつけ、足には左黒が絡みついている。その光景を楽しそうに紫が眺めていた。
「あ、蓮華様! 蓮華様も行っちゃうの?」
「学校、行くの」
嵐によじ登っていた双子は素早く床に着地すると、蓮華の腰に抱きついた。年下の子どもに接するように頭をなでてやると、二人は目元を細めて満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、行ってきます。昼飯は冷蔵庫にあるんで。ぜっったいに紫さんは電子レンジ使わないでくださいね。台所は立ち入り禁止ですから。右白か左黒をこき使ってくださいよ」
「もう、何度も言わなくても分かってるよ。嵐くんは心配性だな」
「電子レンジ、もう何代目だと思ってんすか?」
凄みながら何度も注意する嵐に、紫は飄々(ひょうひょう)と受け流す。嵐は頭が痛いと言わんばかりに額に手を当てる。
「蓮華さん」
信用ならないのか、右白たちにも念を押す嵐の脇で、紫は蓮華に声をかけてきた。
「新しいことばかりで大変だと思うけど、どうかそんな日々を楽しんできてね」
すっと胸に入ってくる言葉は、陽治郎だけでなく蓮華にも届いた。口を開こうとして、すぐに言葉が出てこなかったのは、蓮華の迷いが唇を動かしづらくしたからだ。
ようやく出せた声は「はい」という頷きのみで、それだけで紫は満足そうな顔をした。
「いってらっしゃい、気をつけて」
玄関で紫と少女たちに見送られ、蓮華は嵐の二、三歩後ろをついて行く。
緑鮮やかな林道を抜け、田畑に囲まれた通りに出たあとも、予想通りながら蓮華と嵐の間に会話はなかった。蓮華はただ下を向いて、嵐の影を追う。最低限、帰りの道が分かる範囲で周囲を観察したが、道端に咲く草花の方がはるかに目に入った。
比較的大きい通りに出て、道路に沿って歩いていく。変わらない一定の速さで進んでいた嵐の足が止まった。蓮華もその場に止まり、影ばかりを追っていた顔を上げる。
バスの停留所は寂れたトタン屋根の下に、古びた木製のベンチのある粗末さだった。丸いバス停の看板には「風巻高校 行き」と書かれている。その下のプレートには一時間に二本バスがあればいい時刻表がついていた。
バスが来るまであと十分ほどあるようだ。嵐はどさっとベンチに座り、日陰に入る。蓮華も彼と少しだけ離れたバス停の隣に立った。
まだ五月ながら、地味に太陽からの熱は体温を上げる。額にうっすらと汗がたまっていく。じりじりとした暑さは、黒髪の蓮華の頭を焦がすのに十分だった。日焼け止めを塗っておいて正解だった。今度は日傘を用意しよう、と陽治郎は蓮華の体を案じた。
「おい」
声をかけられとは思っていなかった。緩慢に後ろを振り向けば、嵐は蓮華のことを見つめている。
「日陰、入れ。そこ暑いだろ」
口調はぶっきらぼうながらも、声は落ちついていて蓮華を心配する響きがあった。蓮華はやっと息を吸うことを思いだしたように一息吸って、屋根のある方へ足を向けた。嵐の座る反対側のベンチにちょこんと腰かける。日陰に入っただけで、体感温度はだいぶ楽になった。
嵐はやはりいい人だ。陽治郎は心の中でそう思う。
目つきは悪いし、口は乱暴だが、右白や左黒に呼びかける声はいつも穏やかだ。紫に対しても会話に気安さがありながら、彼を尊敬しているのが伝わってくる。そうでなければ、紫の家で小間使いのような役を担うはずがない。
陽治郎はてっきり、嵐は紫の家に住んでいるとばかり思っていた。だが、彼は毎朝早くに実家から通っている。休日は朝から家事をこなし、夕飯を作って、「それじゃ、今日はこれで」と言って自身の家に帰っていく。学校のある日も、直帰するのは紫の家だ。
高校生らしからぬ習慣は、蓮華が世話になってからの一週間も変わらなかった。
陽治郎は不思議に感じていた。なぜ嵐はそうまでして紫に尽くしているのだろう。
彼らの間には特別な関係がある。師弟関係でもなく、友人関係でもない。名のつかない曖昧な関係でもない空気に、陽治郎は首をかしげるばかりだ。
「あ、あの」
声は裏返っていないだろうか。珍しく、自分から行動を起こそうとしていた。ドキドキとする胸を押さえて嵐に尋ねる。
「どうして……岩泉、先輩は、その、紫さんのお家の手伝いを?」
目が四方八方に泳ぐ。嵐の方を見て話すことはできなかった。ぎゅっと制服を握りしめる。
少しだけ間があって、嵐は言葉を選ぶように「あー」と声を出した。
「紫さんには昔な、世話になったんだよ」
だから、嵐は紫のために家の雑事を手伝っている。ただ簡潔にそう言った。簡潔すぎたものの、その台詞だけで彼らの関係性はまとまっている。
さすがに言葉が少ないと感じたのか、嵐はまた声を長く伸ばす。
「岩泉じゃなくて、いい。嵐って呼べ」
それまで定まっていなかった目線を、こっそり嵐に向けた。
嵐はやや照れくさそうに口元を手で隠す。話下手なのが伝わってきて、陽治郎は仲間ができた気がして少しだけ嬉しくなった。
タイミングよく、ぶおんっとバスが音を立てて停留所へ到着した。嵐が立ちあがったのを見て、蓮華も遅れて腰を上げる。
陽治郎はバスを初めて見た。蓮華の知識を広げるも、東京のバスとは勝手が異なるようだ。東京では前のドアからの乗車だが、この地域では後ろから乗るらしい。
蓮華はまだ定期券を購入していないため、乗車してからもあたふたしていると、嵐が白地に数字が印字された紙を代わりに取ってくれた。「最後に精算、な」とだけ声をかけられ、こくこくと縦に首を振る。
蓮華にも分からないことを、陽治郎は手助けできない。もしかすると、陽治郎が考えているよりもよほど、今の生活に慣れるのは大変かもしれないと思い始めていた。
嵐の近くの座席に着くと、バス内には自分たちと同じ制服が数人、すでに乗っていた。手前に座っていた女子生徒と目が合ってしまう。ぱっと目をそらされ、蓮華もまた顔を下に向けた。
そのあとも、なぜかやたらと視線を感じる。こそこそと話声も聞こえてくる。陽治郎は疑問を浮かべていると、蓮華の体は周囲の視線とささやきにびくつく。体の反応に戸惑いつつ、陽治郎は心の中で蓮華をなだめた。
そうしている間にバスは風巻高校前にたどり着いた。嵐が促すままにバスを降りる。彼は最後まで面倒を見てくれる気でいるのか、蓮華に「まずは職員室か?」と尋ねてきた。再び頷きで肯定を示す。それだけで嵐は先導してくれる。
嵐の頼もしい背中を追いながら、ほかの生徒に混ざって見失わないよう、できるだけそばを歩いた。
すると、バス内で感じたような視線をまたしても感じる。生徒の数も増えていき、格段に不躾な視線は多くなる。蓮華の不安が、陽治郎にも伝染してきた。
職員室の前まで来ると、登校中の生徒が減ったことでいやな目はなくなった。いったいなんだったのか、と思いながら、深く息を吐く。
「じゃ、俺はここで」
嵐にあっさりと別れを切りだされ、蓮華は思わず正面から彼を見あげた。初めての登校、生徒の目、新生活に、不安がこみあげて、すがるように見つめてしまった。
「……帰りはひとりでも帰れるか?」
その不安を読みとったように、嵐は蓮華の目をまっすぐ見つめ返してくれた。気遣う台詞に、蓮華は無理だと言ってしまいたかった。だが、これ以上も嵐を煩(わずら)わせてはいけないという思いがブレーキをかける。
「だい、じょうぶです。ひとりでも帰れます」
合っていた目線を外し、陽治郎は自分の思いにふたをするようにはっきりと告げる。嵐に向かって深く頭を下げ、職員室の扉に向かい合った。
嵐は二年生。一年生の蓮華と教室まで一緒には来られない。ひとりでも、生活していかなくてはならないのだから。そう気持ちを強くして、固く握ったこぶしで扉を叩いた。
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