神様の愛と罪

宮沢泉

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第四話 神様に愛された人間

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 紫という男は昔、紫とは名乗っていなかった。陽治郎は名を教えられていたが、子どもたちに倣って、彼のことは「神様」と呼んでいた。彼はその名の通り、「人間」ではなかったから。

 初めて出会ったときの彼は、偏屈で無遠慮な面倒くさい存在だった。引きとって育てていたどの子どもよりも、精神的に幼い印象をもった。

 組紐を中心とした小物細工に興味津々にもかかわらず、手先は一向にうまくならなかった。想像通りにならないと、よく癇癪を起こしたものだ。

 子どもたちに「大人のくせに」とからかわれていたのも、一度や二度ではなかった気がする。見た目は大人の男の姿を形作っていたから。怒って追いかける神様と、それを笑いながら逃げ回る子どもたちの姿は、今でも陽治郎の目に焼きついている。

 神様と尊ばれる存在なのになと、陽治郎は苦笑する。神様は唇を尖らせ、そっぽを向いて「もっと敬え、馬鹿者」と拗ねていた。

 陽治郎と会う前、それこそ陽治郎が生まれる何百年も前から、神様は神として存在していたらしい。その何百年というのも、自我を含めての年数であり、最初に在った(、、、)ときを入れるならばもっとずっと前から存在していた、と言うのだから驚きだ。

 人の子が、他人の子を育てる光景が物珍しかったのかもしれない。陽治郎のことを奇特なやつだ、と神様は語っていた。その奇特な人間のところに、神様は入り浸っていた。

 自分を神だと名乗り、「こうして姿を現してきてやったのだ。敬え、崇めろ」と上から目線の奇妙な男を、追い返すのは簡単だった。そうしなかったのは、悪いやつとは思えなかったからだったか。

 「先生は懐が広すぎる」と年長の子どもには呆れられたものだが、どれほど神様が大柄な態度をとっても、彼の目は透き通ったままだった。悪人と嘘つきは目を見れば分かる。陽治郎のちょっとした特技だ。

 陽治郎たちが住処にしていた古びた神社に神様はふらりとやって来て、食事をともにしたり、寝物語を子どもとそろってゆすってきたりした。睡眠を取らない神様と、子どもたちが寝たあとに、こっそり月見酒をした日もあった。

 またふらりといなくなって、「神様、次はいつ来るかな~」と子どもから寂しげな声が上がるころ、野菜や魚をこれでもかと持って訪問するのだった。

 神様を交えた暮らしは平穏そのもの。山を三つ越えた向こうでは戦乱や飢饉や干ばつで荒れていると噂は耳にしたものの、神社の周囲は平和そのものだった。まるで、神様が【悪しきもの】から守ってくれているかのように。

 子どもがそれなりに大きくなると出稼ぎのために神社を出ていき、便りや金子を送ってくれる。その貯えで、食うに困った孤児を新たに家族へ迎えいれた。

 子どもたちはすくすくと成長して、穴があちこちに開いていた壊れかけの神社も、段々と修復されていった。崩れかけていた狛犬も石細工屋に弟子入りした者と一緒に直した。

 神社がそれなりに見栄えがよくなったころ、今まで遠ざけていた【悪しきもの】が神社の主を襲った。前触れのない、突然のことだった。

 陽治郎が病魔に侵されたのだ。

 初めは、立ち眩みと頭痛だった。それらを適当にごまかしていると、喉をせり上がって激しい咳。何度目かの咳で血を吐いた。喀血(かっけつ)はさすがに問題だとして、陽治郎は神様に尋ねた。

「私はあとどれくらい生きられるだろうか」と。

 神社から一番近い村にいる、薬師まがいの婆より、神様の見立てが正しいと知っていた。神様はいつもよりも真剣な顔をして、「もって三月(みつき)だ」と言った。

 三月もあれば十分だった。残していく子どもたちを養ってくれる後継を選び、自分が死んだあとの生活を任せた。彼は陽治郎が一番初めに引きとった子だ。涙を必死に堪える彼に先生役を頼んだ。

 はやり病ではないと分かってから、子どもたちを集めて、最低限の教えを授ける。今は急な別れで泣いてしまっても、この教えだけは忘れてくれるなと願った。

 死に際、陽治郎には体を起こせるほどの体力もなかった。今まで育ててきたすべての子どもたちに見守られ、最期の最期まで笑顔を絶やさなかった。

 ただひとつだけ、陽治郎には心残りがある。

 枕元に座る、涙をこぼせない最愛の友。懐に入れた人は初めてでも、人が死んでいく姿は万と見てきたであろうに。神様は陽治郎を友として、死を悲しんでくれた。

「神様」

 子どもたちのすすり泣く声を聞きながら、陽治郎は呼びかける。陽治郎の声はかすれていて、神様はわざわざ口元まで耳を寄せてくれた。

 ――神様、どうかお願いです。

 上辺ではそう言ったはずだ。

「子どもたちを、どうか見守ってください」

 神様は目もとをぐしゃりと崩して、喉を押しつぶしたような声で「ああ」と返事をした。

「ああ、ああ。その願い、たしかに聞き遂げた」

 陽治郎はその言葉に、心底安心したのを覚えている。神様は約束してくれた。子どもたちを見守ってくれると。これで子どもたちは今まで通り平和に生きていけるはずだ。

 だが、それよりも。

 陽治郎は、ひとり置いて逝ってしまう、唯一の友のことを思っていた。置いて逝くことしかできない、ひとりぼっちの神様のことを。

 ――どうか、どうか。

 目の前の神様ではなく、時間の流れや、万物の自然や、人の思いの集合体や、とにかく形の見えないすべての、尊ぶべき存在に願った。

 ――置いて逝くことしかできない私を、どうか許してくれ。

 ――せめて。せめて、あなたがこれからの世でひとりぼっちになりませんように。

 永遠を生きる神様が、残った子どもたちを見守っている間は、ひとりでも寂しくないように。

 陽治郎の願いは、単純なものだった。たったひとつの願い事は聞き遂げられ、陽治郎は病気と闘いながらも、安らかに死を迎えた。



 遠い、遠い昔の、たくさんの子どもと、ひとりの神様に愛された人間の話だ。

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