神様の愛と罪

宮沢泉

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第三話 おかえり

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 紫が親戚たちにどう説明したのか、陽治郎は知らない。「ここからは大人の話だからね」。不敵に笑った紫は、話し合いの席に蓮華を一切参入させなかった。疎外感はなかった。紫は絶対に、蓮華をないがしろにはしないと確信していたからだ。

 話し合いを終えた親戚たちは、蓮華を視界に入れると気まずい雰囲気をかもす。口では「何か問題があれば頼りなさい」と言っておきながら、引きとらないで済んで清々したと顔に描いてある。

 面倒な手続きのすべても紫が執り行ってくれて、陽治郎は蓮華の体に入っただけで、何ひとつ役に立つ行動をしていない。その分、体の使い方を学ぶのに専念できた。

 蓮華は特別表情に変化がある性質ではない。活発に動くことよりも、部屋の隅で読書をする方が好きらしい。蓮華と紫はあの葬式の日に会ったのが初めてだったようだから、他人の陽治郎がいくらか不自然でも気づかないだろう。

 問題は性差だ。陽治郎は成人を迎えた男だが、蓮華はうら若き乙女である。年下の女の子の体に勝手に触れるのは気が引けた。排泄や入浴、着替えなどを実行する覚悟が陽治郎にはなかった。

 さすがの蓮華も見知らぬ男に触れられるのはいやだったのか、体に関する権限は蓮華が持ってくれた。意識が遮断され、はっと気づいたときには、風呂からすでに上がっていて髪も乾いていた。知らないうちに時間が過ぎて陽治郎は驚いたものだ。しかし、目覚めた蓮華にいやな思いをさせたくなかった陽治郎は、無意識的に体を動かせる蓮華に安心した。

 体の支配権の主が蓮華だと気づくのは遅くなかった。魂だけの陽治郎は体を間借りしているにすぎない。
普段の蓮華は心の奥底に沈んでいて、決していなくなったわけではない。現実に起きていることもしっかりと認識していて、それを直視したくないと目をそらしている。

 今の蓮華に必要なのが時間なら、陽治郎がこの世にいる間だけ、蓮華の力になってやりたい。陽治郎が蓮華の中に入った意味がきっとあるはずなのだ。その意味を、陽治郎は薄々理解していた。

 蓮華を引きとった、昔の友――神様。紫と名乗った彼の家に引っ越したのは、ややこしい手続きを終えたあとで、葬式から二週間が経っていた。

 東京から北に一時間半の移動中、紫と蓮華の間に会話らしい会話はなかった。

「地元の高校への編入は明後日からだけど、問題ないかな?」

「はい」

 連絡事項に、小さい声で返答する。

 もっと言いたいこと、話したいことならたくさんあった。

 しかし、今の自分は陽治郎であって、陽治郎ではないと言い聞かせる。

 そもそも、神である紫には、魂の陽治郎の存在も見通されているのではないか。何も指摘してこない紫の真意が分からず、結局問いただせないままだ。

 電車を乗り継ぎ、東京とは比べ物にならないが、それなりに栄えた駅からタクシーで三十分弱。窓から景色を眺めると、遠目に緑豊かな山々が連なって見える。陽治郎には見慣れた景色に近づいていく。

 ――もう皐月(さつき)になったのか。

 蓮華の父親である寺坂青葉(てらさかあおば)の葬式は四月に入ってすぐだった。入学したばかりの高校の制服は、あっという間に線香臭くなってしまった。引っ越しや編入試験の用意で、とうとう希望していた東京の高校にはろくに通えなかった。

 高校受験の合格日、父親と手を取って喜んでいた記憶を知った陽治郎としては、せめてあと一日だけでも念願の高校に通わせてやりたかった。通いたかった本人は、いまだに心の箱に固く閉じこもったまま。陽治郎は蓮華がいつでも出てこられるように、日常生活を円滑に進めるしかできない。

 タクシーは住宅地を抜け、一定間隔で家屋が建つ田園風景が続く中を走る。田んぼは田植えを終え、水が張っている。天気のいい今日は青空の色が水面に反射していた。きらきらと太陽を弾く田んぼの景色は、陽治郎にとっても目新しいものではない。都会の近代的な変化に怖じ気づいていたときと比べると、親近感と安心感が胸に広がる。

 田園に周りを囲まれた目前に、木々が密集した小山がある。車はどんどんその小山へと近づいていく。紫は運転手に林道の前まで、と告げた。青々しい林の入り口にタクシーは止まり、紫は蓮華に先に降りるよう促した。

 目の前に広がる五月の緑は、目に優しく輝く。陽治郎にはどこか懐かしく映った。東京とは異なる、肺に広がる爽快な空気は馴染み深い。呼吸しづらい排気ガスの混じった空気とは、今後も相いれないだろう。

 タクシーが去っていき、紫は小山の中を先導する。人が楽々と進める歩道を、紫は慣れた足取りで進んでいく。新緑の木漏れ日がチカチカと蓮華の顔に影と光を作った。

 大部分は業者に頼んだため、蓮華の手荷物は背中のリュックサックだけだ。背中が重く感じるのは、先を行く紫とのこれからの生活に、不安ばかりがつのっていくからだろうか。

 葬式のときの紫は黒の喪服に身を包んでいたが、今日の紫は白いシャツに黒のスリムパンツ、ライトブラウンのカーディガンを羽織っている。随分と現代に適した服装は神らしくなかったが、細身の紫には似合っていた。

 林道の坂道を抜け、開けた場所には一軒の日本家屋が建っている。中心にある家屋へと紫は進んでいく。
戸を横に開き、紫は家の奥へ「ただいま」と声かけた。家屋の奥から反応が返ってくるかと思えば、人の気配はまったくない。

 物音がわずかに聞こえ、のっそのそと図体が大きい一匹の三毛猫だけが迎えにやってきた。

「ただいま、留守をありがとう」

 紫は手慣れた仕草で三毛猫の頭をなでてから、背後を振り返った。いまだに戸の外に立ったままの蓮華を手で軽く招く。蓮華は控えめに「お邪魔します」と敷居をまたいだ。

 ふと風向きが変わる。後ろから背を押す風が吹き、呼ばれた気がして思わず振り返った。ひそやかにきゃらきゃらと楽しげな子どもたちの声がどこからか響く。

「おかえりなさい!」
「先生、おかえり!」
「おかえりなさい先生!」

 子どもたちの声がして、いっせいに陽治郎を迎えいれる。

 慌てて家の中に視線を戻すと、紫が穏やかな顔で微笑んでいた。

「これからは『ただいま』って言ってくれると嬉しいな」

 口元に手をやって、自然と他人の家に入るときの台詞を吐いていたと気づく。紫の指摘はそれだけで、子どもの幻聴については何も言われない。

 ――今のは……?

 結局「ただいま」の一言は紡げなかった。

 咎める声はいくら待ってもかかってこない。紫は優しげに目もとを和らげるだけだ。のろのろと靴を脱ぎ終えて、家の中を案内された。

 玄関からまっすぐと続いた廊下の先は洗面所で、風呂場はその奥だ。便所は洗面所の隣。階段の前を通った先に居間があり、戸を挟んだ隣は台所。広々とした居間には縁側があり、その向こうには手入れの施された庭園が広がっている。自然に包まれているような落ちついた匂いが、陽治郎の心を和ませる。

「蓮華さんの部屋は二階だよ」

 廊下の突き当たりを右に曲がると、二階へ続く階段がある。

 休む間もなく、案内は二階に続く。紫のあとを追って階段に足をかけたとき、台所へと続く廊下をたたたっと誰かが走っていく音がした。先ほどの猫が走っていったのかと思えば、着物の袖が台所に入っていくのが見えた。

 蓮華以外に誰か住んでいるのだろうか、とほかの住人を意識しつつ階段を上った。

 二階の踊り場の窓からは木々の波が見渡せた。風に揺れる木の波を見つめ、緊張が段々とほどけていく。

 紫が「今」を生きていると、陽治郎はいまだに認識できないでいた。陽治郎にとって紫はかつての友である。蓮華の養い親になったのも、陽治郎が関わっているのではないかと疑っている。

 だが、紫は蓮華に一度も陽治郎について聞いてこない。まるで、陽治郎が蓮華の中にいるのを知らないかのように振る舞う。

 もしかすると、その通りなのかもしれない。紫は蓮華を助けるために養い親になっただけで、陽治郎が蓮華の代わりに中に入っている事情も知らない、と考えるのが自然だ。

 決定的な事実を指摘されない限り、陽治郎から紫に話さないことにした。

 いつか「蓮華ではない」と言われるのではないか、と恐れつつ、それよりも置いて逝ったあとの話をされる余裕が、今の陽治郎にはないからだ。

 物思いに耽(ふけ)りすぎた。慌ててかぶりを振る。踵(きびす)を返し二階部分を見渡すと、階段から一番遠い奥の部屋の扉だけが開いていた。

 紫は部屋の窓を開けているところだった。六畳間の一室には、東京の実家から送った家具や荷物が置かれていた。処分したものがほとんどだったため、段ボールに入った荷物は五箱もなかった。

「ここが蓮華さんの部屋だよ。落ちついたら下に降りておいで。少し早いけれど、夕飯にしよう」

 にこりと笑ってから、紫は部屋を出ていった。多くを語らない紫に救われていた。

 住所の変更や相続関係、高校の編入までも、紫が手配してくれた。感謝を伝えても、紫はいつもと変わらない笑みを向けてくるだけ。むしろ、東京から引っ越しをさせたと謝られ、蓮華は上手な返しができなかった。「子どもは遠慮をしてはいけないよ」と、紫はたびたび蓮華を気遣った。

 陽治郎としては蓮華にはゆっくりと休養させたい。雑然としている都会から離れられたのは幸運であった。

 窓から入ってくる風は木々の香りがした。透き通った甘く切ない香り。窓のある方角は東側なのか、太陽は陰ってきていた。いずれ夜の訪れが家を囲う林を包み、空気もまた昼間とは異なる気配を運んでくるのだろう。

 今日からここが自分の家だと明言されたわけではない。しかし、蓮華は東京にあった父親と暮らした実家には戻れないと分かっているらしい。心の奥底で、小さな声でずっと泣いている。「悲しい、寂しい」と涙の渦に呑まれている。

 陽治郎はなぐさめる言葉をいくつも知っていた。昔子どもたちに「先生」と慕われるくらいには、ある程度の知識を持っていた。

 だからこそ、蓮華に言ってやれる言葉はなかった。今の蓮華に酷ではあったが、抱える孤独は自分で乗り越えていかなければならないのだ。

 代わりに、陽治郎はそっと隣に寄りそう。せめてものなぐさめになればいいと願いながら。

 端に寄せられていた、畳まれたままの布団に寝転がり、目を閉じる。布団は干されたばかりなのか、太陽の香りがした。蓮華の心に引きずられるように、陽治郎の意識もまた眠りについた。


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