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03 今すぐ帰りたい①
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一年前にエタンセル伯爵家より今は亡きアーロンへ嫁入りして、私は名実共にキーブルグ侯爵家の一員。
旦那様に幼い頃から仕えていたという、若く優秀な執事クウェンティンの指導によって、キーブルグ侯爵家での書類仕事は板に付いていた。
貴婦人であればあまり見ない領地管理や財務管理などの仕事ぶりを夫の居ない未亡人である私に付随する価値として見出してくれる人が居るのならば、すぐにでも再婚相手は決まってくれるはず。
これまで一年間分の報酬として、それなりの持参金だけは頂き、キーブルグ侯爵家を出て義弟であるヒルデガードへ、アーロンから遺産として残された私が権利を持つ家督を全て譲るつもりだ。
先のキーブルグ侯爵に勘当されてから何年間もの放浪の末、数ヶ月前に帰還した義弟ヒルデガードは、亡くなった兄アーロンの妻だった私と結婚して、妻と共に全てを手にするつもりだったらしいけど……ヒルデガードの粗暴な性格などを含む諸事情から、私は受け入れることは難しかった。
けれど、結婚生活が一日たりともないのに私に残された亡き夫の遺産は、本来それを手にするはずの弟の元へ行くべきだとも考えていた。
だから、喪明けした私は裕福な貴族男性をなんとか自力で誘惑して、早々に庇護を頼むつもりで居た。
けど……ほんの数分も経たぬうちに、なんて弱虫で腰抜けだと罵られても良いから、この夜会会場から足早に立ち去りたい。
ただ、こうして歩いているだけだと言うのに、物欲しげな男性から複数の視線は、あちらこちらから投げかけられ、私の身体中へと纏わり付くようだった。
ぞくりとしたものが冷たいものが背筋を走って、まるで飢えた狼に狙われ囲まれた獲物になったような気分だった。
初夜だって、まだで……なんなら、恋愛だってしたことがない私に、見た目だけで男性を釣れるような色気などあるはずがないのに。
……こんな穴だらけで行き当たりばったりの作戦が、上手くいくはずもなかったわ。
うん。帰りましょう。ええ。もう一度……幸せな再婚作戦を練り直すために、ここは一旦出直しましょう。
亡き夫のように優れた軍師は、撤退をする時期を、決して見逃さないと聞くわ。逃走も立派な作戦なのだと。
帰ろうと思い直し、ドレスの裾を掴み振り返ると、そこには思いもよらぬ男性が居て目を見開き驚いてしまった。
私からほど近くに居たのは、私より少し年上で、婚約者が一昨年亡くなるという悲劇に見舞われたらしいモラン伯爵だ。
モラン伯爵は系統でいうならば、多くの女性に好まれるような正統派と言える美しい男性で、たおやかな貴族的で洗練された容姿を持っている。茶色の髪も丁寧に撫で付けられ、緑色の瞳も輝いていた。
「これはこれは、とてもお美しい……キーブルグ侯爵夫人。以前から、ダンスにお誘いしたいと思っていました。もし良ろしければ、僕と踊って頂けないでしょうか」
モラン伯爵はやけに熱っぽい眼差しで、私を見ていた。それとなく彼の目線を辿ると、大きく開かれている剥き出しの胸元の方へ。
駄目だわ。一秒でも一緒に居たくない。
「いえ。申し訳ありません……実は、もう帰ろうかと思っておりまして……」
しどろもどろの断り文句を口にしても、彼は縋るように胸に手を当てた。
「それでは、たった一曲だけでも構いません。このように美しい女性と踊る栄誉を僕にお与えください」
流れるような優雅な所作で右手を取られて、私は触れられてもいない手袋の中の肌から順に、全身が粟立つような気がした。
これは、たった一曲だけ踊るだけだとしても、むっ……無理かもしれない。
旦那様に幼い頃から仕えていたという、若く優秀な執事クウェンティンの指導によって、キーブルグ侯爵家での書類仕事は板に付いていた。
貴婦人であればあまり見ない領地管理や財務管理などの仕事ぶりを夫の居ない未亡人である私に付随する価値として見出してくれる人が居るのならば、すぐにでも再婚相手は決まってくれるはず。
これまで一年間分の報酬として、それなりの持参金だけは頂き、キーブルグ侯爵家を出て義弟であるヒルデガードへ、アーロンから遺産として残された私が権利を持つ家督を全て譲るつもりだ。
先のキーブルグ侯爵に勘当されてから何年間もの放浪の末、数ヶ月前に帰還した義弟ヒルデガードは、亡くなった兄アーロンの妻だった私と結婚して、妻と共に全てを手にするつもりだったらしいけど……ヒルデガードの粗暴な性格などを含む諸事情から、私は受け入れることは難しかった。
けれど、結婚生活が一日たりともないのに私に残された亡き夫の遺産は、本来それを手にするはずの弟の元へ行くべきだとも考えていた。
だから、喪明けした私は裕福な貴族男性をなんとか自力で誘惑して、早々に庇護を頼むつもりで居た。
けど……ほんの数分も経たぬうちに、なんて弱虫で腰抜けだと罵られても良いから、この夜会会場から足早に立ち去りたい。
ただ、こうして歩いているだけだと言うのに、物欲しげな男性から複数の視線は、あちらこちらから投げかけられ、私の身体中へと纏わり付くようだった。
ぞくりとしたものが冷たいものが背筋を走って、まるで飢えた狼に狙われ囲まれた獲物になったような気分だった。
初夜だって、まだで……なんなら、恋愛だってしたことがない私に、見た目だけで男性を釣れるような色気などあるはずがないのに。
……こんな穴だらけで行き当たりばったりの作戦が、上手くいくはずもなかったわ。
うん。帰りましょう。ええ。もう一度……幸せな再婚作戦を練り直すために、ここは一旦出直しましょう。
亡き夫のように優れた軍師は、撤退をする時期を、決して見逃さないと聞くわ。逃走も立派な作戦なのだと。
帰ろうと思い直し、ドレスの裾を掴み振り返ると、そこには思いもよらぬ男性が居て目を見開き驚いてしまった。
私からほど近くに居たのは、私より少し年上で、婚約者が一昨年亡くなるという悲劇に見舞われたらしいモラン伯爵だ。
モラン伯爵は系統でいうならば、多くの女性に好まれるような正統派と言える美しい男性で、たおやかな貴族的で洗練された容姿を持っている。茶色の髪も丁寧に撫で付けられ、緑色の瞳も輝いていた。
「これはこれは、とてもお美しい……キーブルグ侯爵夫人。以前から、ダンスにお誘いしたいと思っていました。もし良ろしければ、僕と踊って頂けないでしょうか」
モラン伯爵はやけに熱っぽい眼差しで、私を見ていた。それとなく彼の目線を辿ると、大きく開かれている剥き出しの胸元の方へ。
駄目だわ。一秒でも一緒に居たくない。
「いえ。申し訳ありません……実は、もう帰ろうかと思っておりまして……」
しどろもどろの断り文句を口にしても、彼は縋るように胸に手を当てた。
「それでは、たった一曲だけでも構いません。このように美しい女性と踊る栄誉を僕にお与えください」
流れるような優雅な所作で右手を取られて、私は触れられてもいない手袋の中の肌から順に、全身が粟立つような気がした。
これは、たった一曲だけ踊るだけだとしても、むっ……無理かもしれない。
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