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第一部

036 うたたね

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「ヒサキ兄さんは、彼女をずっと見守っているの。今の世界を作り出すために、狂ってしまった死神が起きないように。ずっとここに居るの」

 暗闇に浮かぶ赤い唇が、動いた。何処か舌ったらずなその声を聞きながら、私は目を開いた。

 まぶしい。

 変な夢を見ていたみたいだ。身体中に、変な汗がじわりと湧きだしているようで、私は震えた。

「透子? 起きた? こんなところで寝ると、風邪引くよ」

「……誰?」

「え? 俺、春だけど」

 春くんはその大きな茶色い目を見開いて、私の間近で驚いた顔をした。そうだよね。そうなると思う。記憶失ったみたいになってしまった私は、慌てて弁解した。

「あ。ごめん。春くん、違うの。そう言う訳じゃなくって。夢の中に出て来た人の話」

 私はというと昼下がりのリビングで春くんと映画を観ながらクッションにもたれたまま、うたた寝してしまっていたみたいだ。

 夢の中の女の子の声。けど、その前の出来事は?

 ……思い出せない。その印象的な声音さえも、瞬く間に記憶から消えていく。

 指をすり抜ける、砂浜の砂みたいに。


「え? 透子、大丈夫?」

「あの……この世界を、作り出したって人って。何か知ってる? 春くん」

「この世界を?」

 目をぱちぱちさせながら、私の話を聞いて不思議そうな顔をする春くん。彼に心当たりはなさそうだ。

「ごめん。変な夢見ちゃった」

「良いよ。夢か。この前の猫又も夢を使ったからな……俺たちが離れない限りは、手出ししても無駄だってことは、最初の戦いでわかって貰えたはずだし。もしかしたら、透子の見た夢も、誰かに干渉されているのかもしれない」

「……最後に聞こえたのは、女の子の声だった」

 春くんは表情を消して、低い声を出した。

「女? もしかして……あいつ?」

「あいつ?」

「うーん。もう終わった話なんだけど、透子にはなるべく聞かせたくないけど。理人の婚約者だった女が、この前の猫又の騒ぎを起こしたのはわかっているよね。俺たちは里の掟通り、落とし前はつけた。もう二度と、透子に手出しはしないって約束させてるはずなんだけどな……」

 春くんは物騒な顔をしたまま、考え込んだ。耳も、形良くピンと立っている。

「ヒサキ兄さんって……?」

「え? 久祈さん? それ、この前透子を助けてくれた理人の兄さんの名前のはずだよ」

「え? それだと……」

 私はこくん、と息を飲んだ。あの女の子。あの声は、理人さんの妹なんじゃないだろうか?

「……あー、なるほど、小夜乃(さやの)が透子に会いに来たんだね」

 春くんははあっと、仕方なさそうにして大きなため息をつく。

「春くん?」

「多分、それ。久祈さんと理人の妹小夜乃だよ……多分だけど、夢使いの久祈さんにお願いして会いに来たんじゃないかな。あそこの他の兄弟は、小夜乃にめちゃくちゃ甘いって評判だから」

「小夜乃さん……?」

「俺。小夜乃には、一回だけ会ったことあるよ。理人の元婚約者に怪我させて、謹慎させられているところを抜け出して、あの森の中の巣にまで会いに来たんだ。理人はどんなに小夜乃が泣いてても、絶対に会わないと言い張ったから。雄吾と俺が、応対したって言う訳。その時は、久祈さんじゃない。別の兄弟に連れられて、来ていたけどね」

 一歩間違ったら、暴行罪で犯罪者なのに甘すぎだよと春くんは、肩を竦めた。どうやら、犯罪歴などはつかず、示談金などで大人の解決をしたようだ。

「そうなんだ。けど、何で……私の夢に?」

「……言い難いんだけど。理人に懸想して元婚約者を怪我させたくらいだし、今も気になっているんじゃないかな……年齢的にも逃げられなくなって結婚させられたって聞いたけど。まだ兄の理人に対して未練あるのかもしれない……俺には、女兄弟は居ないから。身内をそれだけ好きになる気持ちが、良くわかんないけど」

「春くんの兄弟って、男だけ?」

「うん。でもこの世界だと、珍しい話じゃないよ。女が貴重過ぎるからね」

「一番、末っ子だよね?」

「……同父の兄弟はいないけど。異父兄は四人いる……」

「絶対、そうだと思った」

「何それ。俺そんなに末っ子っぽい?」

「うん。すごく」

「何それ」

 春くんは、拗ねて頬を膨らませた。そういうところが、末っ子っぽいって言ったら怒るだろうな。

「何だよ……じゃあ透子は?」

「私一人っ子だから」

「そっか。じゃあ、兄弟は居ないんだね」

「うん。だから兄弟沢山いるの、羨ましい」

「俺は兄さんばっかりで、お腹いっぱいだけどね。理人や雄吾見てたら、妹なんか欲しくないって思っちゃうな……女の子が個々に色々な性格や個性を持っているのは、理屈ではわかっているんだけど。身近なのが、選んだみたいに最悪なのばっかりだよ」

「ふふ。私も春くんと身近だけど」

「透子は、俺からすると最高だよ。今でも自分と結婚しているのが、信じられないくらい」

「わ。ありがとう。私も春くんと、結婚できて嬉しいな」

 私たちはついさっき見た物騒な夢も忘れて、にこにこと二人で笑い合った。
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