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第一部
026 夢の中
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町に行くために電車に乗った。いつも通りに。
座席の色はライムグリーン。少し黄ばんで薄汚れているのは、私が子どもの時から。この上に何人座ったかとか考えただけで潔癖症の人は死にたくなると思うけど、私は幸いにもそうじゃない。
扉のすぐ近くの端のポールの近くに、寄って座る。最寄り駅は地下鉄だから、窓の外はいつも真っ暗なままだ。鞄の中からいつものように単行本を取り出す。
表紙を捲ると、電車の中でページを捲る紙の音がかすかに聞こえる。
……何か変じゃない? 私は違和感に、ようやく気がついた。
ガタンガタンという電車の音の他には、音がしない。
この車輌に乗って居るのは私ともう一人。同じ方向を向いて座る向こうに居る人。死角に入っているせいか、ただぼんやりと影のように見える。
確か駅で待っていた時はラッシュ時とは言えないけど、何人かの列が電車を待っていたはず。
早朝や終電間近なら理解出来るけど、もしかしたら、乗る電車を間違えたのかもしれないし。線を間違ったのかもしれない。
とにかく次の駅で降りよう。
あれ? でもどうして、私は急に町に行くことになったの……。
思い出せない。電車に乗ったからには、何か目的があったはずだ。違和感は、震えとともに体中に広がった。
この電車には本来貼られているはずの、何の広告もない。真っ白な壁。
「……どういうこと?」
ぱさっと、手にしていた本が落ちる。私は立ち上がった。
ゆっくりと、横を見る。
動悸がする。ドクリドクリとまるで走り始めた短距離走の選手みたいに鼓動が、速度を上げていく。
目を疑った。その人は真っ暗な目の前の窓を見つめたまま動かない。大きな……大きな水晶玉のような目。顔の三分の一を占めているだろうか。ほとんどは柔らかな毛に包まれて、リアルな大きな猫の頭。それがスマートなグレイのスーツに包まれている人の身体に乗る首から上に乗っている。
喉が鳴った。目は見開いたまま動かない。足が動かない。違う。
本能で、わかっているからだ。私はここから、逃げられない。走り出した電車からは、どうやっても逃げられない。
不思議な力を持つ理人さんも雄吾さんも、もちろん春くんだって助けに来れない。
なぜならここは、夢の中だから。
私は多分眠ってる。でもこの本能に訴えかける恐怖が、嘘じゃないのなら……ここで殺される。
「やあ、透子。はじめまして。会いたかったよ」
動かずに足を組んだまま彼は、自分の姿が映ったガラス窓に話しかけた。
「あなたは……誰?」
私は彼の横顔を、じっと見つめた。
「君は自分がどれだけ恵まれているか、わかりもしない。どうしようもなく傲慢な子だ。私の主が何よりも欲しい物を、何の努力もせずに手にしている」
「……何を思ってもそちらの勝手だけど、理由も知らずに殺される覚えはないわ」
怖い。この訳の分からない夢に対する何か意地のようなものがなければ、泣き出して今にも蹲ってしまいそうだ。
「君は何も知らないんだね。透子」
「……早く、元に戻して」
「自分が死ぬ理由を、知りたくはないかい?」
滑らかに動く口元は、良く出来たSF映画の特殊メイクのよう。あの口から出る声も信じたくないけど、テノール歌手のような響きの良い美しさ。
「私は死ぬの?」
声が震えてドクリと鼓動が跳ねた。この世界に来てから、ずっと守られてきた。何も、身の危険の心配など要らなかった。私の体は……あのままなら、温かなぬくもりに包まれているはずだ。
あのまま、何も知らずに?
「怯えている様子も可愛いね。まるで、壁際に追い詰められた鼠みたいだ」
くすりと笑った。大きな目を少しだけ細めて、首を傾げる。
「どうして……この世界に来たのは、私のせいじゃないわ」
ぐるりと首を動かして、こちらを振り向く。私の肌は全身鳥肌が立っているけど、更にその上を舐めるような気持ち悪い怖気がした。大きな目の真ん中にある黒い楕円形が、私を映す。
「……本当に、そう思うのかい?」
「そうじゃなかったら、何だって言うの……」
絶望的な気分で、心は一杯だ。心の中が並々と注がれた黒くてどろどろとしたものに、染まっていってしまう。
優雅な動きで、彼は立ち上がる。二本の足の動きは猫のそれを思い起こさせる。獲物を狙い、身構える姿勢のように。
私は言葉を失って、ただ首を振った。ガタンガタンと、揺れる電車。この電車は、どこに向かうんだろう。そんな疑問が、頭の端でちらりと掠めた。相変わらず窓の外は、真っ暗なままだ。
「怖がらないで。苦しめないよ。一瞬ですむ」
それが、何の救いになるっていうの。大きな猫の頭が、緩く左右に揺れる。にいっと口の端が、持ち上がる。ああ。笑っているんだ。
「恨まないでくれ。僕は君を殺す理由が、出来ただけだよ」
座席の色はライムグリーン。少し黄ばんで薄汚れているのは、私が子どもの時から。この上に何人座ったかとか考えただけで潔癖症の人は死にたくなると思うけど、私は幸いにもそうじゃない。
扉のすぐ近くの端のポールの近くに、寄って座る。最寄り駅は地下鉄だから、窓の外はいつも真っ暗なままだ。鞄の中からいつものように単行本を取り出す。
表紙を捲ると、電車の中でページを捲る紙の音がかすかに聞こえる。
……何か変じゃない? 私は違和感に、ようやく気がついた。
ガタンガタンという電車の音の他には、音がしない。
この車輌に乗って居るのは私ともう一人。同じ方向を向いて座る向こうに居る人。死角に入っているせいか、ただぼんやりと影のように見える。
確か駅で待っていた時はラッシュ時とは言えないけど、何人かの列が電車を待っていたはず。
早朝や終電間近なら理解出来るけど、もしかしたら、乗る電車を間違えたのかもしれないし。線を間違ったのかもしれない。
とにかく次の駅で降りよう。
あれ? でもどうして、私は急に町に行くことになったの……。
思い出せない。電車に乗ったからには、何か目的があったはずだ。違和感は、震えとともに体中に広がった。
この電車には本来貼られているはずの、何の広告もない。真っ白な壁。
「……どういうこと?」
ぱさっと、手にしていた本が落ちる。私は立ち上がった。
ゆっくりと、横を見る。
動悸がする。ドクリドクリとまるで走り始めた短距離走の選手みたいに鼓動が、速度を上げていく。
目を疑った。その人は真っ暗な目の前の窓を見つめたまま動かない。大きな……大きな水晶玉のような目。顔の三分の一を占めているだろうか。ほとんどは柔らかな毛に包まれて、リアルな大きな猫の頭。それがスマートなグレイのスーツに包まれている人の身体に乗る首から上に乗っている。
喉が鳴った。目は見開いたまま動かない。足が動かない。違う。
本能で、わかっているからだ。私はここから、逃げられない。走り出した電車からは、どうやっても逃げられない。
不思議な力を持つ理人さんも雄吾さんも、もちろん春くんだって助けに来れない。
なぜならここは、夢の中だから。
私は多分眠ってる。でもこの本能に訴えかける恐怖が、嘘じゃないのなら……ここで殺される。
「やあ、透子。はじめまして。会いたかったよ」
動かずに足を組んだまま彼は、自分の姿が映ったガラス窓に話しかけた。
「あなたは……誰?」
私は彼の横顔を、じっと見つめた。
「君は自分がどれだけ恵まれているか、わかりもしない。どうしようもなく傲慢な子だ。私の主が何よりも欲しい物を、何の努力もせずに手にしている」
「……何を思ってもそちらの勝手だけど、理由も知らずに殺される覚えはないわ」
怖い。この訳の分からない夢に対する何か意地のようなものがなければ、泣き出して今にも蹲ってしまいそうだ。
「君は何も知らないんだね。透子」
「……早く、元に戻して」
「自分が死ぬ理由を、知りたくはないかい?」
滑らかに動く口元は、良く出来たSF映画の特殊メイクのよう。あの口から出る声も信じたくないけど、テノール歌手のような響きの良い美しさ。
「私は死ぬの?」
声が震えてドクリと鼓動が跳ねた。この世界に来てから、ずっと守られてきた。何も、身の危険の心配など要らなかった。私の体は……あのままなら、温かなぬくもりに包まれているはずだ。
あのまま、何も知らずに?
「怯えている様子も可愛いね。まるで、壁際に追い詰められた鼠みたいだ」
くすりと笑った。大きな目を少しだけ細めて、首を傾げる。
「どうして……この世界に来たのは、私のせいじゃないわ」
ぐるりと首を動かして、こちらを振り向く。私の肌は全身鳥肌が立っているけど、更にその上を舐めるような気持ち悪い怖気がした。大きな目の真ん中にある黒い楕円形が、私を映す。
「……本当に、そう思うのかい?」
「そうじゃなかったら、何だって言うの……」
絶望的な気分で、心は一杯だ。心の中が並々と注がれた黒くてどろどろとしたものに、染まっていってしまう。
優雅な動きで、彼は立ち上がる。二本の足の動きは猫のそれを思い起こさせる。獲物を狙い、身構える姿勢のように。
私は言葉を失って、ただ首を振った。ガタンガタンと、揺れる電車。この電車は、どこに向かうんだろう。そんな疑問が、頭の端でちらりと掠めた。相変わらず窓の外は、真っ暗なままだ。
「怖がらないで。苦しめないよ。一瞬ですむ」
それが、何の救いになるっていうの。大きな猫の頭が、緩く左右に揺れる。にいっと口の端が、持ち上がる。ああ。笑っているんだ。
「恨まないでくれ。僕は君を殺す理由が、出来ただけだよ」
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