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忘れる恋
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ラベンダー色のとろとろとした液体が透明な瓶の中を増して行くのを不思議な気持ちでみていた。注ぎ込むような蛇口はどこにもみつからない。ただじりじりと水位を増していく。
「あなたの恋はきれいな紫色。楽しいこともかなしいことも半分ずつ」
忘れたい記憶を、もうおぼろげになりつつある記憶を思い返してみるけど、最初はとても楽しかったけど最近はかなしいことばかりだったように思えて目を伏せた。
なんでもない場面にいた彼の目がなぜか私を責めているように見えたから。
全部を捨てたのは自分のくせに。
「もうどうでも良いことよ」
力なく答える。瓶の中の液体が増えるたび、ひりひりと焼けつくような胸の痛みは減っていくのを感じられたから。
今までの苦しみが嘘のようにとても楽になる。
そして空っぽになれる。
「そう。なにもかもすべて忘れてしまえる。あなたの望むとおりに」
目深にローブを被った魔法使いは薄暗い部屋の中でかろうじて見える口元に笑みを浮かべた。
ここを知っていたのは偶然だった。行商人の客の一人が私を怖がらせようとした怪談話のついでにこんな話もあると教えてくれた。
恋を忘れたいのなら良い場所があると。
ただ、恋する乙女にしか辿りつけないから、自分には真偽はわからないがと大きな声で笑った。
失恋したその瞬間に、私はそれを忘れることだけを祈っていた。叶わない恋には何の意味も持たないから。
ただ無駄なかなしみ。ただ無駄ないたみ。そんなものに振り回されたくなかった。
何度も繰り返すように訪れるもしかしたらという期待感もすべて忘れてしまいたかった。
人はなんていう愚かさだろう。
願うはずもない願いも夢見てしまう。何度だって。
前と同じように、自分だけで一人だけでもそれだけでも満足できるようになりたかった。
何もなかったように。前と同じように。
そして、この場所を訪れた。森の中の小さな家。
壁際にある棚には大きな瓶が無数に並べられていた。色は様々で、今まさに増えているラベンダー色の私の恋と同じような色もあれば、もっと深い藍色に近い色もあったし、またその逆もあったり、そして中にはエメラルドグリーンやゴールドに近いイエローもあったりで、まるで色順に整えられていない絵の具の箱を見ているようだった。
「すごく濃いピンク色ね」
私は一際その中でも目立つ、輝くようなピンク色の瓶に近づいて指をさした。南国の花のように華やかで美しいピンク色。ほんのすこしだけ青みがかっているのが一層美しかった。
「それはとても特別な恋ね」
「特別?」
私は胡乱気に魔法使いの顔を見た。恋に特別も何もないように思える。だって、誰でも自分の恋は特別な恋のはずでしょう?
「忘れることを望んだのは彼女じゃなくてその恋の相手である彼の方。眠った彼女を連れて自分との恋を忘れさせてくれと願った」
私は自分の眉と眉の間に皺が寄ったのを感じた。
「……なんて勝手な男なの」
自ら捨てにきたのでもなければ勝手に忘れさせるなんてなんて勝手な男だろう。身勝手に彼女の想いを捨てさせるなんてなんて……。
「愛する彼女に死に行く自分の姿を見せたくなかったのね」
「そんな……」
魔女はゆらゆらとした紫色の恋が注ぎ込まれていく瓶を見ながら言った。
「彼女本人がそれを望まなかったのかどうかは彼女に聞いてみないとわからないね」
「私だったら望まないわ」
「あら、どうして」
心底不思議そうに問うた。しわがれ声のように低くしているけど実はそんなに年老いていないのかもしれない。瓶の中身の容量が増えていくのが徐々に減り始めたのが目の横に映った。
「今忘れようとしているじゃない?」
「だって、こんなに良いことばかりじゃない。こんなに幸せそうじゃない。私とは違うわ」
「彼が死ぬのがわかれば一気に色を変えただろうね。幸せから一気に突き落とされるのはどんなにか不幸なことか」
「私は不幸じゃないって言ってるみたいに聞こえるわ」
魔女は言葉を選ぶように言った。
「一気に失うのと徐々に覚悟を決めて失うのは違うものだよ。お嬢さん」
魔女は水差しを持つと重ねたコップを器用に片手で二つ置くと水を注ぎ入れた。
「ゆっくりと流れていくもの」
右側のコップを持ったままゆるりと倒した。机の表面を滑り落ち床へと流れていく。
「一気に壊れていくもの」
左側のコップはガシャンと床に落ち放射線状に広がった。
「心はこの器と同じさ。壊れてさえなければ次のものが注ぎ込まれる余地はあるでしょう?」
「私だったら、私だったら……」
私は歯を食いしばりながら思った。その優しい王子さまとあんなやつを比べて何が楽しいいんだろう?
「その人が死にゆく運命なら、死なせないようにするわ。病気だって、なんだってやれるだけのことはあるはず。だって勝手に忘れさせられるなんてイヤよ!」
忘れることを選ぶのなら自分で選ぶはず。
呆気に取られたように魔女はふふとほほ笑むと右腕を軽く動かしてラベンダー色の瓶の増加を留めた。
「……何?」
「そうね。あなたの言うとおり。何の努力をする機会を与えられないままのお姫様なんて幸せなのか不幸なのかわからないわね。もしかしたら今なら間に合うのかもしれないわ」
「何が?」
眉が寄るのが自分でもわかる。
「いってらっしゃい。かわいい子。その恋を助けることが出来たら私もひとつだけ手助けをしてあげる」
そして意識が遠くなっていった。
「あなたの恋はきれいな紫色。楽しいこともかなしいことも半分ずつ」
忘れたい記憶を、もうおぼろげになりつつある記憶を思い返してみるけど、最初はとても楽しかったけど最近はかなしいことばかりだったように思えて目を伏せた。
なんでもない場面にいた彼の目がなぜか私を責めているように見えたから。
全部を捨てたのは自分のくせに。
「もうどうでも良いことよ」
力なく答える。瓶の中の液体が増えるたび、ひりひりと焼けつくような胸の痛みは減っていくのを感じられたから。
今までの苦しみが嘘のようにとても楽になる。
そして空っぽになれる。
「そう。なにもかもすべて忘れてしまえる。あなたの望むとおりに」
目深にローブを被った魔法使いは薄暗い部屋の中でかろうじて見える口元に笑みを浮かべた。
ここを知っていたのは偶然だった。行商人の客の一人が私を怖がらせようとした怪談話のついでにこんな話もあると教えてくれた。
恋を忘れたいのなら良い場所があると。
ただ、恋する乙女にしか辿りつけないから、自分には真偽はわからないがと大きな声で笑った。
失恋したその瞬間に、私はそれを忘れることだけを祈っていた。叶わない恋には何の意味も持たないから。
ただ無駄なかなしみ。ただ無駄ないたみ。そんなものに振り回されたくなかった。
何度も繰り返すように訪れるもしかしたらという期待感もすべて忘れてしまいたかった。
人はなんていう愚かさだろう。
願うはずもない願いも夢見てしまう。何度だって。
前と同じように、自分だけで一人だけでもそれだけでも満足できるようになりたかった。
何もなかったように。前と同じように。
そして、この場所を訪れた。森の中の小さな家。
壁際にある棚には大きな瓶が無数に並べられていた。色は様々で、今まさに増えているラベンダー色の私の恋と同じような色もあれば、もっと深い藍色に近い色もあったし、またその逆もあったり、そして中にはエメラルドグリーンやゴールドに近いイエローもあったりで、まるで色順に整えられていない絵の具の箱を見ているようだった。
「すごく濃いピンク色ね」
私は一際その中でも目立つ、輝くようなピンク色の瓶に近づいて指をさした。南国の花のように華やかで美しいピンク色。ほんのすこしだけ青みがかっているのが一層美しかった。
「それはとても特別な恋ね」
「特別?」
私は胡乱気に魔法使いの顔を見た。恋に特別も何もないように思える。だって、誰でも自分の恋は特別な恋のはずでしょう?
「忘れることを望んだのは彼女じゃなくてその恋の相手である彼の方。眠った彼女を連れて自分との恋を忘れさせてくれと願った」
私は自分の眉と眉の間に皺が寄ったのを感じた。
「……なんて勝手な男なの」
自ら捨てにきたのでもなければ勝手に忘れさせるなんてなんて勝手な男だろう。身勝手に彼女の想いを捨てさせるなんてなんて……。
「愛する彼女に死に行く自分の姿を見せたくなかったのね」
「そんな……」
魔女はゆらゆらとした紫色の恋が注ぎ込まれていく瓶を見ながら言った。
「彼女本人がそれを望まなかったのかどうかは彼女に聞いてみないとわからないね」
「私だったら望まないわ」
「あら、どうして」
心底不思議そうに問うた。しわがれ声のように低くしているけど実はそんなに年老いていないのかもしれない。瓶の中身の容量が増えていくのが徐々に減り始めたのが目の横に映った。
「今忘れようとしているじゃない?」
「だって、こんなに良いことばかりじゃない。こんなに幸せそうじゃない。私とは違うわ」
「彼が死ぬのがわかれば一気に色を変えただろうね。幸せから一気に突き落とされるのはどんなにか不幸なことか」
「私は不幸じゃないって言ってるみたいに聞こえるわ」
魔女は言葉を選ぶように言った。
「一気に失うのと徐々に覚悟を決めて失うのは違うものだよ。お嬢さん」
魔女は水差しを持つと重ねたコップを器用に片手で二つ置くと水を注ぎ入れた。
「ゆっくりと流れていくもの」
右側のコップを持ったままゆるりと倒した。机の表面を滑り落ち床へと流れていく。
「一気に壊れていくもの」
左側のコップはガシャンと床に落ち放射線状に広がった。
「心はこの器と同じさ。壊れてさえなければ次のものが注ぎ込まれる余地はあるでしょう?」
「私だったら、私だったら……」
私は歯を食いしばりながら思った。その優しい王子さまとあんなやつを比べて何が楽しいいんだろう?
「その人が死にゆく運命なら、死なせないようにするわ。病気だって、なんだってやれるだけのことはあるはず。だって勝手に忘れさせられるなんてイヤよ!」
忘れることを選ぶのなら自分で選ぶはず。
呆気に取られたように魔女はふふとほほ笑むと右腕を軽く動かしてラベンダー色の瓶の増加を留めた。
「……何?」
「そうね。あなたの言うとおり。何の努力をする機会を与えられないままのお姫様なんて幸せなのか不幸なのかわからないわね。もしかしたら今なら間に合うのかもしれないわ」
「何が?」
眉が寄るのが自分でもわかる。
「いってらっしゃい。かわいい子。その恋を助けることが出来たら私もひとつだけ手助けをしてあげる」
そして意識が遠くなっていった。
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