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団長は宣言通り翌日から神殿へ視察にやってきた。
初めは無作為にやってきて、二時間ほどで帰っていくこともあれば丸一日過ごす日もあった。一週間ほど過ぎると俺の動きを把握したようで、それからいつも夕刻にやってくるようになった。そして俺がいつまでも残業していると、
「そろそろ切りあげろ」
と促してくる。
「私のありのままの勤務状況を報告するのではないのですか」
「しかしあなたは働きすぎだ」
指摘通り、俺の仕事は多い。
貴族の冠婚葬祭は神殿で行われるため、そのすべてを俺が取り仕切る。それから毎日の祈祷、毎月ある神事の準備。修道院や王族子弟への説法と講義。王都内の各礼拝堂での説法。この説法の準備がなかなか大変で、毎回同じ話をするわけにはいかず、組み込む例話も集う人々の階層にあわせる必要がある。その他、孤児院や療養施設への慰問、王宮の式典への参加。各地の貧困冷害対策やら教会運営のための企画も考えるし、経理の仕事も、主教になった今でも俺が一部担っている。
「ねー、ですよねー。もっと言ってやってくださいよー。部下が帰りづらいですよー」
帰り支度をしていたポールが団長に追従する。
「主教様ってば、休日もとらないんですよ。年中無休で朝から晩まで働いてるんです」
根っからの社畜なもんで、仕事をしていないと落ち着かないんだ。休んでもすることがないし。この世界にもゲームがあったら休むけどな。
団長が驚いた顔をする。
「週に一度くらい、休日をとるべきだろう」
「でも、休日って、なにをしたらいいのかわからないんですよね」
「疲れをとるのだから、なにもせず、ぼーっとしていたらいい」
「時間がもったいないです」
ポールが大げさにため息をつく。
「こんな感じで、食べている時間がもったいないって、放っとくと昼食も食べないんですよ。食べましょうと促しても、もう少ししたら、とか言って結局食べなかったりして、聞いてくれないんです。いつ倒れても不思議じゃないんですよお」
「神殿で倒れたことはないでしょう。大丈夫ですよ」
「朝や夜は食べられているのか」
「もちろん」
「とか言ってるけど、怪しいですよね。主教様は屋敷に一人でお住まいで、使用人がいないんです。誰にも気づかれず、一人でひっそり倒れていそうで怖くて」
「使用人がいない? 身のまわりの世話はどうしているんだ」
「神殿の雑務の者が、日中に屋敷に入り、食事の用意と洗濯をしてくれています。私が帰宅する頃にはその者も宿舎に戻りますから、顔をあわせることはないですね。それ以外のことは自分でしています」
「えっと、お話し中すみませんがお先に失礼しますー。明日は休みなので、久しぶりにこんな遅くまで仕事しちゃいましたよ。団長ももうすぐお帰りになられますよね。ついでに主教様も送り届けてもらえると安心です。それではさよならー」
自分から振った話題を途中でぶった切り、ポールは帰っていった。自由な男だ。だが俺が旅で留守のあいだ、宮廷の裏工作を担ってくれたのもこの男。できるやつなのだ。
「主教も。帰るぞ」
「……そうですね」
まだ今日中に終わらせたい書類が残っていた。しかし今日は特に仕事が立て込んでいたので疲れていたし、終わらせないと団長も帰らない気がしたので、諦めて仕事を切り上げた。
執務室を出て、神殿の廊下を団長と並んで歩く。
「住まいは、神殿の中か」
「敷地内です。宿舎じゃなくて、主教用の屋敷があるんです。この建物から出て、西に宿舎があって、その近くですね」
我が家は神殿の敷地内にある一軒家である。社宅のようなものだが、見た目は豪華だ。
「団長は、お屋敷から通いですか」
「基本的にそうだが、宿舎にも泊まっている」
神殿を出ると、俺は団長へ軽く会釈した。
「では、今日もお疲れ様でした」
団長は馬で来ており、厩は神殿の北にある。俺の家は西。ここで別れるつもりだったのだが、団長は俺が向かおうとしていた細い並木道のほうへ進んだ。
「家まで送ろう」
「いや、でも。ポールに云われたことは気にしないでください。一人で帰れますから」
「ついでだ。もしこれで途中で倒れていたなんてことになったら、寝覚めが悪い。このまままっすぐでいいのか」
「あ、はい……でも、団長の帰りも遅くなります」
神殿の敷地は広大で、同じ敷地内といっても施設間の移動は距離があり時間もかかる。自転車があるといいなと思う。
「そう思うなら、残業を早めに切り上げてくれ」
「はあ……」
べつに、団長が俺の帰りを待つ必要はないのだが。
面倒見がいいというかなんというか。
団長の家はどの辺にあるのかとか、団員たちは元気かとか、他愛ない会話をしながら小道を歩き、落葉樹の林を抜けると、神官の居住区となる。独身用の宿舎を通り過ぎると一軒家が数件並び、その一番奥にある立派な屋敷が我が家だ。
辺りは暗く、外灯もすでに消えている。
「ここです。ありがとうございました。お茶でもとお誘いしたいところですが遅くなりますので。お気をつけてお帰りくださいね」
営業用スマイルではなく、素でにっこり笑って見上げると、団長もわずかに目元を緩めて頷いた。
不愛想な顔でも格好いいのだが、その少し緩めた表情というのも…なんというか、胸にくるものがあるというか。乙女をキュン死させる力があると思う。さすが元攻略対象者だ。
「ああ。また明日」
団長が来た道を戻る。濃紺の騎士服が闇に溶けるまで見送り、家に入ろうと玄関の手をかける。そのとき、物陰から男が飛びだしてきた。
「主、主教様……っ!」
「うわっ」
暴漢だ。抱きつかれ、その勢いで地面に倒れた。
「おおお慕いしております……っ!」
不意を突かれて咄嗟に身体が動かなかった。しかしすぐに動く。剣は不得意だが護身術は身につけている。暴漢の腕を捻り、拘束を逃れる。次の瞬間、暴漢が宙にすっ飛んだ。すっ飛ばしたのは俺ではない。そんな技は持っていないのでびっくりしたが、去ったはずの団長がそこにいた。声を聞きつけて戻ってきたのだろう。男はすぐに団長の手により拘束された。
「主教、この男に見覚えは?」
「知りません。神殿騎士を呼んできます」
神殿騎士団の宿舎はすぐそこで、俺の叫び声が聞こえたのか、入り口から数人が出てきていた。その者たちを連れて家の前に戻ると、巡回中の騎士が来ていて、団長から暴漢を預かっていた。
「主教様、お怪我は⁉」
「大丈夫です」
ごく簡単に状況を話したあと、神殿騎士団たちが暴漢を連れていった。玄関前で団長と二人きりになる。
いやはやびっくりした。
「こういうことは、よくあるのか」
低い声をかけられ、ハッとして見あげると、団長が眉を顰め、俺を見下ろしていた。
「神殿の居住区では初めてですね。危ないところをありがとうございました」
「居住区でないところでは、あるということか」
「……ええ、まあ。このところ少し、増えていて」
つい漏らすと、軽く目を見開かれた。
「警備が緩いように思うが」
「そうですね。でもこれ以上警備は増やせません。お金がないので」
「しかしな……」
この容姿のために不快な思いをしたことは嫌というほどあるが、それは十代の話。二十代半ば以降からは激減していた。
主教になってからは権力者として狙われることを想定し、神殿から出るときは護衛をつけたし、神殿の敷地内は警備の者が見まわっているのでこれまでは問題なかった。
しかし旅を終えてから、妙な信奉者が増えた気がする。国中をまわって顔を晒し、過剰な評判を得たせいだろう。神殿の一部は一般人も入れるのだが、先ほどの暴漢のように俺の姿を見つけると突進してくる輩が出てくるようになった。もちろん護衛がいるので俺に害はなかったが。
害はなくても、さすがにうんざりする。鳥肌立ってしまった気がして無意識に腕をさすった。
「大丈夫か」
心配そうに声をかけられる。
俺は女性ではない。こんなのどうってことないと、平然としていたい。
大人になってから初めて襲われたのであれば、きっとそれほど動じなかっただろう。だが俺は子供の頃に襲われかけたことがある。身体の大きな大人の男に襲われる怖さ、そのときの男が浮かべた薄笑いの気味悪さが記憶に残っている。
いまはもう、襲われたってどうってことない。ただ、子供の頃に感じた、自分が汚されたような気分を思いだしてしまい、少し気が滅入るだけだ。
正直、このあと一人になるのは嫌なんだが、俺が滅入った様子を見せたら団長は帰れない。大丈夫と答えるべきだろう。今夜再び襲われることはない。もう遅いのだし彼を帰すべきだとわかっている。
「ええ。大丈夫です」
反応がわずかに遅れたが、ニコリと笑って答えた。それを見た団長は顔をしかめた。
彼の手が俺の肩に触れる。大きくて硬い手。その温かさに安堵を覚える。
「あまり大丈夫そうに見えないんだが。もしよければ、落ち着くまで傍にいるが。時間なら問題ない」
見抜かれている。さすが団長。
そう言ってくれるなら、お言葉に甘えようではないか。
「……ありがとうございます。ご迷惑をかけて申しわけありませんが、お茶でも飲んでいってくださると嬉しいです」
玄関を開けて招き入れた。
応接間へ案内すべきだろうが、俺の気持ちを落ち着けることが目的なので、あえて居間へ通す。ここは俺が入居するまでは貴族の屋敷らしい内装で、厨房や食堂など機能別に部屋が分かれていたのだが、帰宅後にあちこち移動するのが面倒なので、居間に小型の食卓とベッド、ソファを配置し、ワンルーム化して使っている。
団長も俺の後について居間へ入ると、貴人らしからぬ室内の様相が意外だったようで辺りを見まわしていた。
「機能的な部屋だな」
「フフ。ずぼらな性格が出ているでしょう」
「ずぼらじゃなく、効率重視なんだろう」
「良いように言ってくださってありがとうございます」
お茶に誘ったが、夕食時である。食卓には俺の夕食の鍋が置かれていた。蓋を開けてみると、中には鶏肉と野菜を煮込んだものが入っている。パンとチーズも添えられている。明日の朝食分も含まれているため、多めにある。
「おなか空いていませんか? 一緒に食べていただけると嬉しいのですが」
「それはあなたの分なのだろう」
「一人だと多すぎるんです。せっかくなのでつきあってください」
棚からワインとグラスをとりだすと、それにつられたか団長も食卓に着いた。
ワインをグラスに注ぎ、煮込み料理を皿にとりわけて、いただく。旅のあいだも団長と食事をとることがよくあったが、こうして自宅で二人きりというのは雰囲気が違い、新鮮だった。
「明日は、神殿の警備の配置状況を確認したい。さすがに心配だ」
「ありがとうございます。団長に確認していただけるのなら安心です。神殿騎士団長に話しておきます」
団長は神殿の警備の薄さが心配なようで、真剣に考えている様子だった。管轄外なのにありがたい。
他愛ない会話を交え、食事を食べ終える頃には俺も落ち着きを取り戻した。ワインを飲みながら、ところで、と団長が言う。
「この部屋には、よく人を招待するのか」
「いえ。人を招待するつもりがないからこんな部屋にしているんです。団長が初めてですね」
「……。そうか」
団長は小さく呟き、ぎこちなく目を逸らした。
「なんです」
「いや……」
「友達のいない寂しいやつだと思いましたか」
「そうじゃない。招待されたのが俺だけだと知って、嬉しかっただけだ」
よく見ると、団長の耳がちょっと赤い。
なんだそれ。可愛いな。
不意打ちだったから、思わず顔が赤らんでしまったではないか。
団長は俺に目を戻し、見つめてきた。なにかに気づいたように、無言で。
「今度はなんです」
「いや、主教の顔が赤いから」
「それは…。団長が、嬉しいなんておっしゃるから」
俺がそう言うと、彼はますます俺を見つめた。
「魔力供給のとき以外で……、俺の言葉で、あなたがそんな反応を見せてくれたのは初めてだな」
団長が立ちあがり、椅子を引いた。椅子ごと俺の近くに移動してすわり直すと、俺の顔を見つめたまま手を伸ばしてきて、束ねた髪先にそっと触れた。
「……少しは希望が持てるだろうか」
やけに熱っぽく、真剣な表情。
「え…と…、……急にどうしたんですか、団長」
俺は戸惑って身を引いた。彼の手から髪がすり抜ける。
「べつに、急なことでもないんだがな。さて、あなたも落ち着いたようだし、そろそろお暇しよう」
団長が目を伏せ、立ちあがる。なんだったんだ今のはと思いつつ、俺も一緒に玄関へ向かった。
彼は玄関前で立ちどまると、俺を見下ろした。
「また明日」
また、熱っぽく見つめられる。まるで愛しいものを見つめるように。
なんか……なんか……。どうしたんだ団長。
そんなふうに見つめられたら、ドキドキしちゃうじゃないか。
「気をつけて」
「ああ。おやすみ」
俺の見送りが嬉しいとでも言うように、彼は最後に甘く微笑んで帰っていった。
「……」
俺は半ば呆然と見送り、玄関が閉じたあともその場に立ちすくんでいた。
なんだ今の甘い微笑みは。
頬が熱い。耳が熱い。
いや、本当に。いったいなんだったんだ。
――そういえば旅の最終日、事後の朝の彼も、あんな眼差しをしていたな。
そんなことを思いだしたら、ますます顔が熱くなった。
初めは無作為にやってきて、二時間ほどで帰っていくこともあれば丸一日過ごす日もあった。一週間ほど過ぎると俺の動きを把握したようで、それからいつも夕刻にやってくるようになった。そして俺がいつまでも残業していると、
「そろそろ切りあげろ」
と促してくる。
「私のありのままの勤務状況を報告するのではないのですか」
「しかしあなたは働きすぎだ」
指摘通り、俺の仕事は多い。
貴族の冠婚葬祭は神殿で行われるため、そのすべてを俺が取り仕切る。それから毎日の祈祷、毎月ある神事の準備。修道院や王族子弟への説法と講義。王都内の各礼拝堂での説法。この説法の準備がなかなか大変で、毎回同じ話をするわけにはいかず、組み込む例話も集う人々の階層にあわせる必要がある。その他、孤児院や療養施設への慰問、王宮の式典への参加。各地の貧困冷害対策やら教会運営のための企画も考えるし、経理の仕事も、主教になった今でも俺が一部担っている。
「ねー、ですよねー。もっと言ってやってくださいよー。部下が帰りづらいですよー」
帰り支度をしていたポールが団長に追従する。
「主教様ってば、休日もとらないんですよ。年中無休で朝から晩まで働いてるんです」
根っからの社畜なもんで、仕事をしていないと落ち着かないんだ。休んでもすることがないし。この世界にもゲームがあったら休むけどな。
団長が驚いた顔をする。
「週に一度くらい、休日をとるべきだろう」
「でも、休日って、なにをしたらいいのかわからないんですよね」
「疲れをとるのだから、なにもせず、ぼーっとしていたらいい」
「時間がもったいないです」
ポールが大げさにため息をつく。
「こんな感じで、食べている時間がもったいないって、放っとくと昼食も食べないんですよ。食べましょうと促しても、もう少ししたら、とか言って結局食べなかったりして、聞いてくれないんです。いつ倒れても不思議じゃないんですよお」
「神殿で倒れたことはないでしょう。大丈夫ですよ」
「朝や夜は食べられているのか」
「もちろん」
「とか言ってるけど、怪しいですよね。主教様は屋敷に一人でお住まいで、使用人がいないんです。誰にも気づかれず、一人でひっそり倒れていそうで怖くて」
「使用人がいない? 身のまわりの世話はどうしているんだ」
「神殿の雑務の者が、日中に屋敷に入り、食事の用意と洗濯をしてくれています。私が帰宅する頃にはその者も宿舎に戻りますから、顔をあわせることはないですね。それ以外のことは自分でしています」
「えっと、お話し中すみませんがお先に失礼しますー。明日は休みなので、久しぶりにこんな遅くまで仕事しちゃいましたよ。団長ももうすぐお帰りになられますよね。ついでに主教様も送り届けてもらえると安心です。それではさよならー」
自分から振った話題を途中でぶった切り、ポールは帰っていった。自由な男だ。だが俺が旅で留守のあいだ、宮廷の裏工作を担ってくれたのもこの男。できるやつなのだ。
「主教も。帰るぞ」
「……そうですね」
まだ今日中に終わらせたい書類が残っていた。しかし今日は特に仕事が立て込んでいたので疲れていたし、終わらせないと団長も帰らない気がしたので、諦めて仕事を切り上げた。
執務室を出て、神殿の廊下を団長と並んで歩く。
「住まいは、神殿の中か」
「敷地内です。宿舎じゃなくて、主教用の屋敷があるんです。この建物から出て、西に宿舎があって、その近くですね」
我が家は神殿の敷地内にある一軒家である。社宅のようなものだが、見た目は豪華だ。
「団長は、お屋敷から通いですか」
「基本的にそうだが、宿舎にも泊まっている」
神殿を出ると、俺は団長へ軽く会釈した。
「では、今日もお疲れ様でした」
団長は馬で来ており、厩は神殿の北にある。俺の家は西。ここで別れるつもりだったのだが、団長は俺が向かおうとしていた細い並木道のほうへ進んだ。
「家まで送ろう」
「いや、でも。ポールに云われたことは気にしないでください。一人で帰れますから」
「ついでだ。もしこれで途中で倒れていたなんてことになったら、寝覚めが悪い。このまままっすぐでいいのか」
「あ、はい……でも、団長の帰りも遅くなります」
神殿の敷地は広大で、同じ敷地内といっても施設間の移動は距離があり時間もかかる。自転車があるといいなと思う。
「そう思うなら、残業を早めに切り上げてくれ」
「はあ……」
べつに、団長が俺の帰りを待つ必要はないのだが。
面倒見がいいというかなんというか。
団長の家はどの辺にあるのかとか、団員たちは元気かとか、他愛ない会話をしながら小道を歩き、落葉樹の林を抜けると、神官の居住区となる。独身用の宿舎を通り過ぎると一軒家が数件並び、その一番奥にある立派な屋敷が我が家だ。
辺りは暗く、外灯もすでに消えている。
「ここです。ありがとうございました。お茶でもとお誘いしたいところですが遅くなりますので。お気をつけてお帰りくださいね」
営業用スマイルではなく、素でにっこり笑って見上げると、団長もわずかに目元を緩めて頷いた。
不愛想な顔でも格好いいのだが、その少し緩めた表情というのも…なんというか、胸にくるものがあるというか。乙女をキュン死させる力があると思う。さすが元攻略対象者だ。
「ああ。また明日」
団長が来た道を戻る。濃紺の騎士服が闇に溶けるまで見送り、家に入ろうと玄関の手をかける。そのとき、物陰から男が飛びだしてきた。
「主、主教様……っ!」
「うわっ」
暴漢だ。抱きつかれ、その勢いで地面に倒れた。
「おおお慕いしております……っ!」
不意を突かれて咄嗟に身体が動かなかった。しかしすぐに動く。剣は不得意だが護身術は身につけている。暴漢の腕を捻り、拘束を逃れる。次の瞬間、暴漢が宙にすっ飛んだ。すっ飛ばしたのは俺ではない。そんな技は持っていないのでびっくりしたが、去ったはずの団長がそこにいた。声を聞きつけて戻ってきたのだろう。男はすぐに団長の手により拘束された。
「主教、この男に見覚えは?」
「知りません。神殿騎士を呼んできます」
神殿騎士団の宿舎はすぐそこで、俺の叫び声が聞こえたのか、入り口から数人が出てきていた。その者たちを連れて家の前に戻ると、巡回中の騎士が来ていて、団長から暴漢を預かっていた。
「主教様、お怪我は⁉」
「大丈夫です」
ごく簡単に状況を話したあと、神殿騎士団たちが暴漢を連れていった。玄関前で団長と二人きりになる。
いやはやびっくりした。
「こういうことは、よくあるのか」
低い声をかけられ、ハッとして見あげると、団長が眉を顰め、俺を見下ろしていた。
「神殿の居住区では初めてですね。危ないところをありがとうございました」
「居住区でないところでは、あるということか」
「……ええ、まあ。このところ少し、増えていて」
つい漏らすと、軽く目を見開かれた。
「警備が緩いように思うが」
「そうですね。でもこれ以上警備は増やせません。お金がないので」
「しかしな……」
この容姿のために不快な思いをしたことは嫌というほどあるが、それは十代の話。二十代半ば以降からは激減していた。
主教になってからは権力者として狙われることを想定し、神殿から出るときは護衛をつけたし、神殿の敷地内は警備の者が見まわっているのでこれまでは問題なかった。
しかし旅を終えてから、妙な信奉者が増えた気がする。国中をまわって顔を晒し、過剰な評判を得たせいだろう。神殿の一部は一般人も入れるのだが、先ほどの暴漢のように俺の姿を見つけると突進してくる輩が出てくるようになった。もちろん護衛がいるので俺に害はなかったが。
害はなくても、さすがにうんざりする。鳥肌立ってしまった気がして無意識に腕をさすった。
「大丈夫か」
心配そうに声をかけられる。
俺は女性ではない。こんなのどうってことないと、平然としていたい。
大人になってから初めて襲われたのであれば、きっとそれほど動じなかっただろう。だが俺は子供の頃に襲われかけたことがある。身体の大きな大人の男に襲われる怖さ、そのときの男が浮かべた薄笑いの気味悪さが記憶に残っている。
いまはもう、襲われたってどうってことない。ただ、子供の頃に感じた、自分が汚されたような気分を思いだしてしまい、少し気が滅入るだけだ。
正直、このあと一人になるのは嫌なんだが、俺が滅入った様子を見せたら団長は帰れない。大丈夫と答えるべきだろう。今夜再び襲われることはない。もう遅いのだし彼を帰すべきだとわかっている。
「ええ。大丈夫です」
反応がわずかに遅れたが、ニコリと笑って答えた。それを見た団長は顔をしかめた。
彼の手が俺の肩に触れる。大きくて硬い手。その温かさに安堵を覚える。
「あまり大丈夫そうに見えないんだが。もしよければ、落ち着くまで傍にいるが。時間なら問題ない」
見抜かれている。さすが団長。
そう言ってくれるなら、お言葉に甘えようではないか。
「……ありがとうございます。ご迷惑をかけて申しわけありませんが、お茶でも飲んでいってくださると嬉しいです」
玄関を開けて招き入れた。
応接間へ案内すべきだろうが、俺の気持ちを落ち着けることが目的なので、あえて居間へ通す。ここは俺が入居するまでは貴族の屋敷らしい内装で、厨房や食堂など機能別に部屋が分かれていたのだが、帰宅後にあちこち移動するのが面倒なので、居間に小型の食卓とベッド、ソファを配置し、ワンルーム化して使っている。
団長も俺の後について居間へ入ると、貴人らしからぬ室内の様相が意外だったようで辺りを見まわしていた。
「機能的な部屋だな」
「フフ。ずぼらな性格が出ているでしょう」
「ずぼらじゃなく、効率重視なんだろう」
「良いように言ってくださってありがとうございます」
お茶に誘ったが、夕食時である。食卓には俺の夕食の鍋が置かれていた。蓋を開けてみると、中には鶏肉と野菜を煮込んだものが入っている。パンとチーズも添えられている。明日の朝食分も含まれているため、多めにある。
「おなか空いていませんか? 一緒に食べていただけると嬉しいのですが」
「それはあなたの分なのだろう」
「一人だと多すぎるんです。せっかくなのでつきあってください」
棚からワインとグラスをとりだすと、それにつられたか団長も食卓に着いた。
ワインをグラスに注ぎ、煮込み料理を皿にとりわけて、いただく。旅のあいだも団長と食事をとることがよくあったが、こうして自宅で二人きりというのは雰囲気が違い、新鮮だった。
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「ありがとうございます。団長に確認していただけるのなら安心です。神殿騎士団長に話しておきます」
団長は神殿の警備の薄さが心配なようで、真剣に考えている様子だった。管轄外なのにありがたい。
他愛ない会話を交え、食事を食べ終える頃には俺も落ち着きを取り戻した。ワインを飲みながら、ところで、と団長が言う。
「この部屋には、よく人を招待するのか」
「いえ。人を招待するつもりがないからこんな部屋にしているんです。団長が初めてですね」
「……。そうか」
団長は小さく呟き、ぎこちなく目を逸らした。
「なんです」
「いや……」
「友達のいない寂しいやつだと思いましたか」
「そうじゃない。招待されたのが俺だけだと知って、嬉しかっただけだ」
よく見ると、団長の耳がちょっと赤い。
なんだそれ。可愛いな。
不意打ちだったから、思わず顔が赤らんでしまったではないか。
団長は俺に目を戻し、見つめてきた。なにかに気づいたように、無言で。
「今度はなんです」
「いや、主教の顔が赤いから」
「それは…。団長が、嬉しいなんておっしゃるから」
俺がそう言うと、彼はますます俺を見つめた。
「魔力供給のとき以外で……、俺の言葉で、あなたがそんな反応を見せてくれたのは初めてだな」
団長が立ちあがり、椅子を引いた。椅子ごと俺の近くに移動してすわり直すと、俺の顔を見つめたまま手を伸ばしてきて、束ねた髪先にそっと触れた。
「……少しは希望が持てるだろうか」
やけに熱っぽく、真剣な表情。
「え…と…、……急にどうしたんですか、団長」
俺は戸惑って身を引いた。彼の手から髪がすり抜ける。
「べつに、急なことでもないんだがな。さて、あなたも落ち着いたようだし、そろそろお暇しよう」
団長が目を伏せ、立ちあがる。なんだったんだ今のはと思いつつ、俺も一緒に玄関へ向かった。
彼は玄関前で立ちどまると、俺を見下ろした。
「また明日」
また、熱っぽく見つめられる。まるで愛しいものを見つめるように。
なんか……なんか……。どうしたんだ団長。
そんなふうに見つめられたら、ドキドキしちゃうじゃないか。
「気をつけて」
「ああ。おやすみ」
俺の見送りが嬉しいとでも言うように、彼は最後に甘く微笑んで帰っていった。
「……」
俺は半ば呆然と見送り、玄関が閉じたあともその場に立ちすくんでいた。
なんだ今の甘い微笑みは。
頬が熱い。耳が熱い。
いや、本当に。いったいなんだったんだ。
――そういえば旅の最終日、事後の朝の彼も、あんな眼差しをしていたな。
そんなことを思いだしたら、ますます顔が熱くなった。
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