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魔女と呼ばれたもう一人 後編

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 夢中で逃げていたからか、時々気絶でもしていたのか。
 気がつくと薄青い空に、朝日が差し込んでいた。
 夜ではないというだけで人というのはここまで安心できるものなのか。
 やっと一息付けるような気がした。
 けれどそれこそがある意味新たな悲劇の始まりだった。

 確かに大量に被った顔にも手にも髪にも服にもついていたはずの殿下の血が、朝日の下一滴も見えなかった。
 もしかしたら消えたのはずいぶん前で、今までただ気づかなかっただけかもしれない。

 入浴して身体を洗い、洗濯してシミを抜いてもここまでは綺麗に落ちない。
 それがいつの間にかされているだけでも充分異様で恐怖の対象だというのに。
 何をやっても殿下すきなひとの血の一滴すら渡したくないと言うのだろうか?
 慌てて髪の毛がちぎれるのも構わず髪飾りをもぎ取る。
 一人では着れなくて脱げない服を破るように体から遠ざける。
 靴は既にどこかに行ってしまっていた。
 全て殿下にもらったものだ。

 他に何があっただろうか?
 部屋に置いてあるものは必要なら勝手に回収していくだろう。
 売り払った物はどうなってしまうのだろう?
 個人的に貰った物ではなく、飲食の対価などはどういう扱いになるのだろう。

 何よりも。
 愛人として囲うくらいならまだしも、婚約破棄を考えるほどはどうすればいいのだろう?
 受け取った覚えも、そして返すことも出来ないそれを、間違いなく令嬢は一番欲していた。
 ならばそれを手に入れるためには――。

「死にたくない!!」
 思わず叫ぶ。
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたく――」
 どこにそんな息が残っていたんだろうという勢いで叫び続ける。
 別に状況が今さっき変わったわけではない。
 ただより強く、助かる余地がないであろう事を認識した、それだけだ。
 話し合うこといいわけはもちろん、逃げ切ることも難しいだろう。

 その声は朝の空気の中、気絶するまで響きづけた。


 それから何十年か、あるいは何百年か後。

 森の奥に老婆が一人暮らしていた。
 骨と皮だけの姿で、いつも微笑みを絶やさず。
 けれど話しかけても意味のある言葉は発せず。
 それでも時々正気に戻り、また改めて気が狂いながら。
 時には動かなくなることすらありながら。
 それでも老婆はそこに存在していた。

 不貞相手とされた女性は年齢だけを重ね、ぎりぎりな様子ながらも未だ生き長らえていた。

 一つ間違いないことをいうなら。
 老婆は今、陰で魔女と呼ばれている。

 あの時死にたくないと強く願ったことが叶ったのか。
 それとも魔女となったあの令嬢が、死の国の殿下の元へたどり着き再会することを厭うたのか。
 後者ならば老婆自身は魔女ではない。
 だからこそ未だあの日を終えられていないのかもしれない。

 真実は誰にも分からない。
 果たして安寧の日々は来るのだろうか?
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