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諦め
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潮騒の音で目を覚ました。夜の間もずっと鳴り続けていたんだろうけど、その時は一際大きく、はっきりと耳朶を打った。
朝になると、一葉さんはすっかり元気になっていた。まるで昨晩のことなんてなかったかのように、いつも通りぼくに接してくれた。それがかえって不思議で、昨日のことは夢なんじゃないかとさえ思った。
朝ごはんは昨日の夕食と同じメニューが出され、黙々と食べた。その後、兄さんに「手伝ってくれ」と言われ、一葉さんと一緒に外に出た。
砂浜におじいさんが立っていた。ボロボロの網を持ちながら笑顔を浮かべている。よく見ると、服の左腕が不自然に風にはためていた。
「紹介するよ。この人は近藤さん。仕事でもお世話になってる人だ」
「こんにちは」
近藤さんはゆっくりと腰を曲げて挨拶をしてきた。それにつられて、一葉さんと一緒に頭を深く下げる。
「ボロの網を直してほしいんだけんども、ワシは左腕がないもんで、一苦労だから、手伝ってもらえませんかね」
ぼくと一葉さんが了承すると、近藤さんはまた笑顔になって、「ありがとう」と嬉しそうに言った。
ぼくらは砂浜に座りながら修理を始めた。内容は至って簡単。千切れてたり、今にも千切れそうな部分を近藤さんと兄さんに教えるだけ。後は二人が直す流れだ。
黙々と作業を続けたけど、なにせ網が予想以上に長い。いつの間にか疲れが溜まり、ほっと一息吐いた時に、近藤さんのない左腕が目に入った。
「気になるかい?」
ドキッとした。近藤さんはぼくに目を合わせていないのに、言い当ててきたのだ。
「いえ、その……」
「ええよ。そこのお嬢さんもチラチラ見てたことだし」
一葉さんがバツの悪そうな表情を浮かべる。
「聞いてもええよ。聞きたいならね」
「お伺いしても?」
近藤さんはない方の腕の服を撫でるように触った。
「ワシが十歳くらいの頃、東京に住んででね、ピアノをよくやってたんですよ。まあ、家が景気の波にうまく乗っかって稼いでいたもんで、金は少しばかり余裕があった。親もワシに積極的にピアノを習わせてくれて、才能があったらしくてどんどん上達していった。よく天童だって言われたね」
ほんの少し、表情が硬くなった。
「それからすぐ、戦争が始まったんだ。学徒動員ってのもあったけど、その頃は小さすぎて家にいたね。いつになっ
たら終わるんだろう、って良く思ってた」
ぼくはピンときて、「お年はいくつですか?」と聞いた。
「九十だ」
「それじゃあ……!」
「そう。東京大空襲があって、なにもかも燃えた。これも、そん時に腕を失くしたんだよ。あんまり思い出したくもないが、逃げているときになにかの破片が腕に当たったんだろうね。もう、使い物にならないから、切っちまったって目を覚ました時に医者に言われたよ」
ぼくは思わず息を止めて聞いていた。一葉さんも真剣な表情だった。
「その時の絶望ったらなかったね。その後に日本が負けたって聞いた時より絶望したよ。なにしろ、プロのピアニストになるって決めてたから。毎晩毎晩、腕を求めて泣いたね。ウチも空襲でなにもかもなくなったから、親が知り合
いの漁師にワシを預けて、それからずっとここで生活してる」
「ピアノは続けたかったんですよね?」
「そりゃもちろんさ。でも、周りから反対されてね。自分でも納得しちまった。バッハは片腕かい? モーツァルトは片腕かい? ってね。あん時、ベートーヴェンは耳が聞こえなかったぞー、って反論してやればよかった。ワシは、片腕でもやっていくつもりだったから。でも、諦めちまったからね。人間諦めたら終わりよ」
近藤さん空中で指を動かし始めた。それはピアノの動きそのものだった。
「それから数十年して、片腕のピアニストってのを知ったんだよ。その時は後悔したね。おれは片腕がないだけで、夢を諦めちまったんだ」
「でも、ピアノってすごい指を使うんでしょ? 片腕しかなかったら、難しい曲は引けないんじゃないの?」
一葉さんが聞く。近藤さんが声を出して笑った。
「お嬢さん、ピアノっていうのは、難しい曲を弾ければ偉いってわけじゃない。音楽の表現さ。鍵盤をぽろっと弾いて、聞いてる人に感動を与えるのが本当のピアノだ。大きなホールで、スーツ着て小難しい曲を弾くことなんて、大したことじゃないんだよ」
近藤さんは、深い、深い溜息をついた.
「今の生活には満足してるけど、後悔は山のようよ」
そう言って右腕でない左腕を撫でる。
「結局のところ、神さまは試練を与えてくれるが、解決の仕方は教えてくれねぇ。せいぜい自分の頭で考えなくちゃいけねぇのに、神さまでもない他人さまに決めさせちまったんだ。残念だねぇ」
近藤さんは再び手元の網に視線を戻し、修理を始めた。
いったいどれほどの無念だったのだろうか。生きがいを奪われ、夢も断念し、新しい生活に順応してきた時に、諦める必要はなかったと知ったら。絶望もひとしおだろう。
「悔しいなぁ。悔しいなぁ……」
近藤さんの声は恐ろしいほど弱々しかった。その姿は抜けない棘のように、ぼくの脳裏に深く刻み込まれた。
朝になると、一葉さんはすっかり元気になっていた。まるで昨晩のことなんてなかったかのように、いつも通りぼくに接してくれた。それがかえって不思議で、昨日のことは夢なんじゃないかとさえ思った。
朝ごはんは昨日の夕食と同じメニューが出され、黙々と食べた。その後、兄さんに「手伝ってくれ」と言われ、一葉さんと一緒に外に出た。
砂浜におじいさんが立っていた。ボロボロの網を持ちながら笑顔を浮かべている。よく見ると、服の左腕が不自然に風にはためていた。
「紹介するよ。この人は近藤さん。仕事でもお世話になってる人だ」
「こんにちは」
近藤さんはゆっくりと腰を曲げて挨拶をしてきた。それにつられて、一葉さんと一緒に頭を深く下げる。
「ボロの網を直してほしいんだけんども、ワシは左腕がないもんで、一苦労だから、手伝ってもらえませんかね」
ぼくと一葉さんが了承すると、近藤さんはまた笑顔になって、「ありがとう」と嬉しそうに言った。
ぼくらは砂浜に座りながら修理を始めた。内容は至って簡単。千切れてたり、今にも千切れそうな部分を近藤さんと兄さんに教えるだけ。後は二人が直す流れだ。
黙々と作業を続けたけど、なにせ網が予想以上に長い。いつの間にか疲れが溜まり、ほっと一息吐いた時に、近藤さんのない左腕が目に入った。
「気になるかい?」
ドキッとした。近藤さんはぼくに目を合わせていないのに、言い当ててきたのだ。
「いえ、その……」
「ええよ。そこのお嬢さんもチラチラ見てたことだし」
一葉さんがバツの悪そうな表情を浮かべる。
「聞いてもええよ。聞きたいならね」
「お伺いしても?」
近藤さんはない方の腕の服を撫でるように触った。
「ワシが十歳くらいの頃、東京に住んででね、ピアノをよくやってたんですよ。まあ、家が景気の波にうまく乗っかって稼いでいたもんで、金は少しばかり余裕があった。親もワシに積極的にピアノを習わせてくれて、才能があったらしくてどんどん上達していった。よく天童だって言われたね」
ほんの少し、表情が硬くなった。
「それからすぐ、戦争が始まったんだ。学徒動員ってのもあったけど、その頃は小さすぎて家にいたね。いつになっ
たら終わるんだろう、って良く思ってた」
ぼくはピンときて、「お年はいくつですか?」と聞いた。
「九十だ」
「それじゃあ……!」
「そう。東京大空襲があって、なにもかも燃えた。これも、そん時に腕を失くしたんだよ。あんまり思い出したくもないが、逃げているときになにかの破片が腕に当たったんだろうね。もう、使い物にならないから、切っちまったって目を覚ました時に医者に言われたよ」
ぼくは思わず息を止めて聞いていた。一葉さんも真剣な表情だった。
「その時の絶望ったらなかったね。その後に日本が負けたって聞いた時より絶望したよ。なにしろ、プロのピアニストになるって決めてたから。毎晩毎晩、腕を求めて泣いたね。ウチも空襲でなにもかもなくなったから、親が知り合
いの漁師にワシを預けて、それからずっとここで生活してる」
「ピアノは続けたかったんですよね?」
「そりゃもちろんさ。でも、周りから反対されてね。自分でも納得しちまった。バッハは片腕かい? モーツァルトは片腕かい? ってね。あん時、ベートーヴェンは耳が聞こえなかったぞー、って反論してやればよかった。ワシは、片腕でもやっていくつもりだったから。でも、諦めちまったからね。人間諦めたら終わりよ」
近藤さん空中で指を動かし始めた。それはピアノの動きそのものだった。
「それから数十年して、片腕のピアニストってのを知ったんだよ。その時は後悔したね。おれは片腕がないだけで、夢を諦めちまったんだ」
「でも、ピアノってすごい指を使うんでしょ? 片腕しかなかったら、難しい曲は引けないんじゃないの?」
一葉さんが聞く。近藤さんが声を出して笑った。
「お嬢さん、ピアノっていうのは、難しい曲を弾ければ偉いってわけじゃない。音楽の表現さ。鍵盤をぽろっと弾いて、聞いてる人に感動を与えるのが本当のピアノだ。大きなホールで、スーツ着て小難しい曲を弾くことなんて、大したことじゃないんだよ」
近藤さんは、深い、深い溜息をついた.
「今の生活には満足してるけど、後悔は山のようよ」
そう言って右腕でない左腕を撫でる。
「結局のところ、神さまは試練を与えてくれるが、解決の仕方は教えてくれねぇ。せいぜい自分の頭で考えなくちゃいけねぇのに、神さまでもない他人さまに決めさせちまったんだ。残念だねぇ」
近藤さんは再び手元の網に視線を戻し、修理を始めた。
いったいどれほどの無念だったのだろうか。生きがいを奪われ、夢も断念し、新しい生活に順応してきた時に、諦める必要はなかったと知ったら。絶望もひとしおだろう。
「悔しいなぁ。悔しいなぁ……」
近藤さんの声は恐ろしいほど弱々しかった。その姿は抜けない棘のように、ぼくの脳裏に深く刻み込まれた。
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