さらば従順な羊とギャル

色沢桜

文字の大きさ
上 下
17 / 22

諦め

しおりを挟む
 潮騒の音で目を覚ました。夜の間もずっと鳴り続けていたんだろうけど、その時は一際大きく、はっきりと耳朶を打った。

 朝になると、一葉さんはすっかり元気になっていた。まるで昨晩のことなんてなかったかのように、いつも通りぼくに接してくれた。それがかえって不思議で、昨日のことは夢なんじゃないかとさえ思った。

 朝ごはんは昨日の夕食と同じメニューが出され、黙々と食べた。その後、兄さんに「手伝ってくれ」と言われ、一葉さんと一緒に外に出た。

 砂浜におじいさんが立っていた。ボロボロの網を持ちながら笑顔を浮かべている。よく見ると、服の左腕が不自然に風にはためていた。

「紹介するよ。この人は近藤さん。仕事でもお世話になってる人だ」

「こんにちは」

 近藤さんはゆっくりと腰を曲げて挨拶をしてきた。それにつられて、一葉さんと一緒に頭を深く下げる。

「ボロの網を直してほしいんだけんども、ワシは左腕がないもんで、一苦労だから、手伝ってもらえませんかね」

 ぼくと一葉さんが了承すると、近藤さんはまた笑顔になって、「ありがとう」と嬉しそうに言った。

 ぼくらは砂浜に座りながら修理を始めた。内容は至って簡単。千切れてたり、今にも千切れそうな部分を近藤さんと兄さんに教えるだけ。後は二人が直す流れだ。

 黙々と作業を続けたけど、なにせ網が予想以上に長い。いつの間にか疲れが溜まり、ほっと一息吐いた時に、近藤さんのない左腕が目に入った。

「気になるかい?」

 ドキッとした。近藤さんはぼくに目を合わせていないのに、言い当ててきたのだ。

「いえ、その……」

「ええよ。そこのお嬢さんもチラチラ見てたことだし」

 一葉さんがバツの悪そうな表情を浮かべる。

「聞いてもええよ。聞きたいならね」

「お伺いしても?」

 近藤さんはない方の腕の服を撫でるように触った。

「ワシが十歳くらいの頃、東京に住んででね、ピアノをよくやってたんですよ。まあ、家が景気の波にうまく乗っかって稼いでいたもんで、金は少しばかり余裕があった。親もワシに積極的にピアノを習わせてくれて、才能があったらしくてどんどん上達していった。よく天童だって言われたね」

 ほんの少し、表情が硬くなった。

「それからすぐ、戦争が始まったんだ。学徒動員ってのもあったけど、その頃は小さすぎて家にいたね。いつになっ
たら終わるんだろう、って良く思ってた」

 ぼくはピンときて、「お年はいくつですか?」と聞いた。

「九十だ」

「それじゃあ……!」

「そう。東京大空襲があって、なにもかも燃えた。これも、そん時に腕を失くしたんだよ。あんまり思い出したくもないが、逃げているときになにかの破片が腕に当たったんだろうね。もう、使い物にならないから、切っちまったって目を覚ました時に医者に言われたよ」

 ぼくは思わず息を止めて聞いていた。一葉さんも真剣な表情だった。

「その時の絶望ったらなかったね。その後に日本が負けたって聞いた時より絶望したよ。なにしろ、プロのピアニストになるって決めてたから。毎晩毎晩、腕を求めて泣いたね。ウチも空襲でなにもかもなくなったから、親が知り合
いの漁師にワシを預けて、それからずっとここで生活してる」

「ピアノは続けたかったんですよね?」

「そりゃもちろんさ。でも、周りから反対されてね。自分でも納得しちまった。バッハは片腕かい? モーツァルトは片腕かい? ってね。あん時、ベートーヴェンは耳が聞こえなかったぞー、って反論してやればよかった。ワシは、片腕でもやっていくつもりだったから。でも、諦めちまったからね。人間諦めたら終わりよ」

 近藤さん空中で指を動かし始めた。それはピアノの動きそのものだった。

「それから数十年して、片腕のピアニストってのを知ったんだよ。その時は後悔したね。おれは片腕がないだけで、夢を諦めちまったんだ」

「でも、ピアノってすごい指を使うんでしょ? 片腕しかなかったら、難しい曲は引けないんじゃないの?」

 一葉さんが聞く。近藤さんが声を出して笑った。

「お嬢さん、ピアノっていうのは、難しい曲を弾ければ偉いってわけじゃない。音楽の表現さ。鍵盤をぽろっと弾いて、聞いてる人に感動を与えるのが本当のピアノだ。大きなホールで、スーツ着て小難しい曲を弾くことなんて、大したことじゃないんだよ」

 近藤さんは、深い、深い溜息をついた.

「今の生活には満足してるけど、後悔は山のようよ」

 そう言って右腕でない左腕を撫でる。

「結局のところ、神さまは試練を与えてくれるが、解決の仕方は教えてくれねぇ。せいぜい自分の頭で考えなくちゃいけねぇのに、神さまでもない他人さまに決めさせちまったんだ。残念だねぇ」

 近藤さんは再び手元の網に視線を戻し、修理を始めた。

 いったいどれほどの無念だったのだろうか。生きがいを奪われ、夢も断念し、新しい生活に順応してきた時に、諦める必要はなかったと知ったら。絶望もひとしおだろう。

「悔しいなぁ。悔しいなぁ……」

 近藤さんの声は恐ろしいほど弱々しかった。その姿は抜けない棘のように、ぼくの脳裏に深く刻み込まれた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました

ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら…… という、とんでもないお話を書きました。 ぜひ読んでください。

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

俺のセフレが義妹になった。そのあと毎日めちゃくちゃシた。

ねんごろ
恋愛
 主人公のセフレがどういうわけか義妹になって家にやってきた。  その日を境に彼らの関係性はより深く親密になっていって……  毎日にエロがある、そんな時間を二人は過ごしていく。 ※他サイトで連載していた作品です

【R18】僕の筆おろし日記(高校生の僕は親友の家で彼の母親と倫ならぬ禁断の行為を…初体験の相手は美しい人妻だった)

幻田恋人
恋愛
 夏休みも終盤に入って、僕は親友の家で一緒に宿題をする事になった。  でも、その家には僕が以前から大人の女性として憧れていた親友の母親で、とても魅力的な人妻の小百合がいた。  親友のいない家の中で僕と小百合の二人だけの時間が始まる。  童貞の僕は小百合の美しさに圧倒され、次第に彼女との濃厚な大人の関係に陥っていく。  許されるはずのない、男子高校生の僕と親友の母親との倫を外れた禁断の愛欲の行為が親友の家で展開されていく…  僕はもう我慢の限界を超えてしまった… 早く小百合さんの中に…

最近様子のおかしい夫と女の密会現場をおさえてやった

家紋武範
恋愛
 最近夫の行動が怪しく見える。ひょっとしたら浮気ではないかと、出掛ける後をつけてみると、そこには女がいた──。

彼女の母は蜜の味

緋山悠希
恋愛
ある日、彼女の深雪からお母さんを買い物に連れて行ってあげて欲しいと頼まれる。密かに綺麗なお母さんとの2人の時間に期待を抱きながら「別にいいよ」と優しい彼氏を演じる健二。そんな健二に待っていたのは大人の女性の洗礼だった…

【R18】禁断の家庭教師

幻田恋人
恋愛
私ことセイジは某有名私立大学在学の2年生だ。 私は裕福な家庭の一人娘で、女子高2年生であるサヤカの家庭教師を引き受けることになった。 サヤカの母親のレイコは美しい女性だった。 私は人妻レイコにいつしか恋心を抱くようになっていた。 ある日、私の行動によって私のレイコへの慕情が彼女の知るところとなる。 やがて二人の間は、娘サヤカの知らないところで禁断の関係へと発展してしまう。 童貞である私は憧れの人妻レイコによって…

処理中です...