上 下
210 / 231
第五部

190 エレナ、殿下と王立学園に通う

しおりを挟む
 首を傾げながら教卓まで辿り着いた先生は、こちらに顔を向けた。

「おっおうおう、王太子殿下がどうして⁈」

 騒ぎの理由を理解したらしくこちらを指刺してオットセイのようにオウオウと言って慌てだす。
 建前上は先生と生徒だとしても、身分の壁はしっかりとある。普段の先生なら殿下にそんな態度を取るはずもないだろうから、よほど動揺してるんだろう。

「せっかく王立学園アカデミーに通っているのだから、わたしも多くの生徒と同じように講義を受けようと思ったのだ。いつものように講義をしてくれればい構わない」

 殿下は嫌な顔どころか笑顔を向ける。
 イケメンの笑顔は同性にも有効らしい。先生はまだ聞きたいことがあるだろうに、何も言えなくなり講義が始まった。

「エレナ。教本テキストを一緒に見せて?」
「あ、はい」

 開いた教本テキストを机の真ん中に置く。
 ぐいっ。
 わたしは腰を抱き寄せられて、殿下に密着した。

「きゃあ! なっ、なにし……」

 思わずあげた声に大勢が振り返る。

「しぃぃ。講義中大きな声を出してはいけないよ?」

 わたしの唇を人差し指で一瞬触れてすぐ離す。わたしが黙ったのを確認すると優しい笑顔で窘める。
 叫ばせるようなことをしたのは殿下なのに……

「……こんなに密着しなくても教本テキストは読めるわ」
「エレナは照れ屋だね」

 わたしの非難に殿下はくすくすと笑うだけだ。
 周りの視線を感じながら講義が始まった。

 一般教養の講義内容はいつも通り、国内の主な領地と地理や主要産業についてだ。
 先日王立学園アカデミーに通うことは少なくてもいいけれど試験は必ず受けなくてはいけないと、テストを受けたけれど。講義を聞いてなくても満点が取れた。
 わたしですら子供の頃に習ったことばっかりで退屈なんだもの。殿下にとっては無駄な時間だろう。講義を受けずに公務に従事していた方が有意義な気がする。
 王宮内で殿下に押し付けられていた書類の量を思い出す。この時間で殿下の確認を待つ書類の山が幾つできるか……

「……殿下はご公務に戻られた方がよろしいんではないの?」

 小声で殿下に尋ねる。

「つれないな。私はエレナと一緒に過ごしたいのに。ここにいたら迷惑なのかな?」
「そっ……そう言うことではなくて、書類の確認が溜まってしまうんではないかと心配しただけです」
「いま私付きの官吏は優秀なものばかりだからね。不備のある書類を山積みにしたまま待ちぼうけている愚者はいないよ」

 イスファーン王国との交易に関わるあれこれの対応のため特設部署を作った殿下は、優秀なのに上司に恵まれず不遇な立場に置かれていた役人達をたくさん引き抜いてきた。
 特設部署は解散してもステファン様をはじめ一部の役人はそのまま殿下付きの秘書官として登用している。
 確かにステファン様達が事前に書類を確認していれば殿下の仕事量は減るだろう。

「でも……ステファン様たちは大変なままだわ」
「ステファンが心配なの?」

 真剣な視線に捉えられる。湖みたいな深い青が不安に揺れている。

「ステファン様がお身体を壊したらネリーネ様が悲しまれます。わたしはお友達が心配なだけです」

 わたしの説明にホッとした様子の殿下は「エレナは優しいな」と呟いた。

「お兄様からは一般教養の講義は一年目に受講すると説明を聞きました。殿下は二年前に修了済みの講義なのでしょう? 何度も受講されなくても……」

 先生には悪いけど、何回も聞く必要はない内容だ。

「修了はしていることにはなっているが受講はしていないんだよ」
「どういうことです?」
「王太子教育で修了してるとみなされているが、常に公務に駆り出されて講義は受けられなかったのだ。ただ周りからは講義に出られなかったのではなく講義に出られないほど勉強のできない愚かな王子だなどという悪評が広まっている。講師も私が講義を聞いても理解していないと思っているだろうな」

 そう言って殿下は前を向く。
 私も書き進められている板書を見つめる。
 前に講義を受けた時は南部だったけど、今日は西部についての内容だった。

 西の隣国リズモンドと大河を挟んで隣接しているマグナレイ侯爵領にかかる橋はリズモンドのクーデター以降閉鎖されており、国交が断絶されている。
 マグナレイ侯爵領は綿花のプランテーションと紡績工場があり栄えているものの、リズモンドとの交易ができなくなったことで販路が途絶えて凋落の一途を辿るなんていう内容。
 リズモンドとの交易路が途絶えたことは事実ではあるものの凋落まで印象付けるのは反マグナレイ派閥が王立学園アカデミーの主流なんだろう。

 わたしは「学生に向けて印象操作を行うなんて……」そう呟くのを止められなかった。

「リズモンドとの販路が途絶えたことで凋落の一途をたどっていると言うことだが、根拠はあるのだろうか?」

 ため息をつくわたしの隣から凛とした声が響く。板書を書いていた先生の手が止まった。

「……マグナレイ侯爵領の木綿糸はリズモンドへの輸出が主だったのです。その販路を失ったらどうなるか王太子殿下でもお分かりでしょう? 教本テキストにも二十年前と現在の木綿糸の輸出量が掲載されております。数字は嘘をつきません」

 こちらを向いた先生の目は泳いでいた。嘘をついていると言っているようなものだ。

「数字は嘘をつかなくとも、数字を使うものは正直だろうか? マグナレイ侯爵領にあるのは紡績工場だけか? 織布工場もあるはずだ。では、紡績工場と織布工場のどちらが多い? 圧倒的に織布工場の方が多いだろう。 木綿糸の輸出量は確かに減っただろうが織物の生産量はどうなった? 国内でのマグナレイ侯爵領産の綿織布工物の流通量は増えているはずだ。木綿糸と綿織物はどちらが利益率が高い?」
「それは……綿織物ですね。その凋落は言い過ぎでした」

 先生はそう言って唇を噛んだ。

 この先生は自分の意思でマグナレイ侯爵家を貶めようなんて考えたことないに違いない。
 何も考えずに教本テキストのまま講義を行ったに過ぎない。
 悪人ではないかもしれないけれど、先生と呼ばれる立場に相応しいのだろうか。

 指摘されてからトーンが落ちた先生の講義を聞きながら横に座る殿下をそっと盗み見る。
 品定めするように教室内を見渡していた殿下は、視線に気がついて私に笑顔を向けた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?

新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。 ※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

十三回目の人生でようやく自分が悪役令嬢ポジと気づいたので、もう殿下の邪魔はしませんから構わないで下さい!

翠玉 結
恋愛
公爵令嬢である私、エリーザは挙式前夜の式典で命を落とした。 「貴様とは、婚約破棄する」と残酷な事を突きつける婚約者、王太子殿下クラウド様の手によって。 そしてそれが一度ではなく、何度も繰り返していることに気が付いたのは〖十三回目〗の人生。 死んだ理由…それは、毎回悪役令嬢というポジションで立ち振る舞い、殿下の恋路を邪魔していたいたからだった。 どう頑張ろうと、殿下からの愛を受け取ることなく死ぬ。 その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない! そして死なない!! そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、 何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?! 「殿下!私、死にたくありません!」 ✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼ ※他サイトより転載した作品です。

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

いじめられ続けた挙げ句、三回も婚約破棄された悪役令嬢は微笑みながら言った「女神の顔も三度まで」と

鳳ナナ
恋愛
伯爵令嬢アムネジアはいじめられていた。 令嬢から。子息から。婚約者の王子から。 それでも彼女はただ微笑を浮かべて、一切の抵抗をしなかった。 そんなある日、三回目の婚約破棄を宣言されたアムネジアは、閉じていた目を見開いて言った。 「――女神の顔も三度まで、という言葉をご存知ですか?」 その言葉を皮切りに、ついにアムネジアは本性を現し、夜会は女達の修羅場と化した。 「ああ、気持ち悪い」 「お黙りなさい! この泥棒猫が!」 「言いましたよね? 助けてやる代わりに、友達料金を払えって」 飛び交う罵倒に乱れ飛ぶワイングラス。 謀略渦巻く宮廷の中で、咲き誇るは一輪の悪の華。 ――出てくる令嬢、全員悪人。 ※小説家になろう様でも掲載しております。

殿下には既に奥様がいらっしゃる様なので私は消える事にします

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のアナスタシアは、毒を盛られて3年間眠り続けていた。そして3年後目を覚ますと、婚約者で王太子のルイスは親友のマルモットと結婚していた。さらに自分を毒殺した犯人は、家族以上に信頼していた、専属メイドのリーナだと聞かされる。 真実を知ったアナスタシアは、深いショックを受ける。追い打ちをかける様に、家族からは役立たずと罵られ、ルイスからは側室として迎える準備をしていると告げられた。 そして輿入れ前日、マルモットから恐ろしい真実を聞かされたアナスタシアは、生きる希望を失い、着の身着のまま屋敷から逃げ出したのだが… 7万文字くらいのお話です。 よろしくお願いいたしますm(__)m

(完)私を捨てるですって? ウィンザー候爵家を立て直したのは私ですよ?

青空一夏
恋愛
私はエリザベート・ウィンザー侯爵夫人。愛する夫の事業が失敗して意気消沈している夫を支える為に奮闘したわ。 私は実は転生者。だから、前世の実家での知識をもとに頑張ってみたの。お陰で儲かる事業に立て直すことができた。 ところが夫は私に言ったわ。 「君の役目は終わったよ」って。 私は・・・・・・ 異世界中世ヨーロッパ風ですが、日本と同じような食材あり。調味料も日本とほぼ似ているようなものあり。コメディのゆるふわ設定。

【完結】婚約者の義妹と恋に落ちたので婚約破棄した処、「妃教育の修了」を条件に結婚が許されたが結果が芳しくない。何故だ?同じ高位貴族だろう?

つくも茄子
恋愛
国王唯一の王子エドワード。 彼は婚約者の公爵令嬢であるキャサリンを公の場所で婚約破棄を宣言した。 次の婚約者は恋人であるアリス。 アリスはキャサリンの義妹。 愛するアリスと結婚するには「妃教育を修了させること」だった。 同じ高位貴族。 少し頑張ればアリスは直ぐに妃教育を終了させると踏んでいたが散々な結果で終わる。 八番目の教育係も辞めていく。 王妃腹でないエドワードは立太子が遠のく事に困ってしまう。 だが、エドワードは知らなかった事がある。 彼が事実を知るのは何時になるのか……それは誰も知らない。 他サイトにも公開中。

処理中です...