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第四部
143 エレナ、王宮で働く
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王宮にある殿下の執務室の隣室で待機しているわたしは、部屋の中を見渡す。
執務室から廊下を出ずに出入りできるその部屋は普段あまり使われていないのか、必要最低限の家具が置かれているだけで、がらんとしていた。
見るものも何もない部屋では、考え事くらいしかできない。
自分で決めたことなのに、考え事をし始めると悪いことばかり思いついてしまう。
わたしがため息をつくと同時にドアをノックする音がした。
誰何の声に応えたのはランス様だった。
「ご準備はできましたか」
開いた扉の向こうで冷静な表情でわたしを見つめるのは部屋の主だ。いつも通り愛想のないランス様に少し安堵する。
ランス様の横に女官が数人立っていた。
「よろしいでしょうか。いまからわたくしは未来の王太子妃付きの侍女候補ではなく、あくまでも女官見習いのエレナさんを教育する担当の上司でございます」
部屋の中に入ってくると一番前に立った女性は引き締まった表情で宣言する。
つやのあるグレーシルバーの髪は若い女性に落ち着いた印象を与えていた。
「はい! リリィさん。よろしくお願いね」
わたしが元気よく挨拶すると、目の前に立つ女官の片眉がピクリと動く。
「リリアンナ・コーディ上級女官です。女官見習いとして働くならばわきまえていただかないと困ります」
「失礼しました。リリアンナ・コーディ上級女官殿。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
プフッと吹き出す声が聞こえる。
リリィさんの後ろに立つ女官達の中にいた赤毛をおさげに結んだ丸眼鏡の少女と目が合った。お腹を抱えている。
メアリさんだ!
リリィさんも口の端を片側だけニヤリと持ち上げていた。
「リリィ。随分と楽しげだが、貴女こそ本分をわきまえてもらわなくては困る」
「あら、ランス・コーディ王太子殿下付き筆頭補佐官殿に心配いただかなくても、わたくしは与えられた職務は果たしますわ」
嫌味っぽく注意するランス様にリリィさんも嫌味っぽく応じる。
女官達はまた始まったとばかりに笑いをこらえていた。
わたしが出仕することが決まった際に、信頼できる女官をつけてもらえることになって、紹介されたのがリリィさんを筆頭にした教育係の女官達だ。
今日まで何度か我が家に来ていただくなどして準備を重ねてきた。
リリィさんは殿下の側近であるランス様の奥様で、殿下の侍従であるウェードの妹にあたる女性だ。
王立学園を卒業してから女官として王宮に出仕している。
女性王族の公務をサポートすることが主業務である女官は、いまは数が少ない。
というのも今の王室は、王太子妃はもちろん王妃様もいらっしゃらない。
いまいらっしゃる女性王族は前国王様の後妻である王太后様だけで、その王太后様自体も離宮にお住まいだ。
今後殿下が結婚して王太子妃を迎える準備として文書係や祭事を司る部署なんかに少しずつ女官を増やしている最中らしい。
リリィさんも離宮から王宮に異動し、王太子妃付きの女官を育てる職務を担っている。
優秀な女性人材を国内からかき集めて育成しているから、イスファーン語が出来るエレナがしれっと混ざりやすい状況だった。
わたしは協議の結果、文書係の女官見習いとして出仕することに決まった。
「では、エレナさん。これから西に向かいますよ」
楽しげな女官達と、王宮の西側に向かう。
西と呼ばれているのはいわゆる内政機関が集まる場所だ。
わたしは後ろの方に周り、メアリさんの隣を歩く。
いつのまにか色々な人が裏で手を回してくれて、わたしだけじゃなくて、同僚としてメアリさんも女官見習いとして王宮に出仕することになったみたい。
エレナに振り回されたと思ってないか心配で尋ねたら、王宮勤めの貴族達と顔見知りになれるのは願ってもないことらしい。
王宮出仕はチャンスだとむしろ喜んでいた。
「エレナ様ー‼︎」
廊下を歩いていると大きな声で呼び止められた。
濃厚ハンサム顔を台無しになるくらいくちゃくちゃにして笑って手を振るのは、少し前に顔馴染みになったハロルド・デスティモナ次期伯爵。
わたしが人差し指を立てて静かにしてとジェスチャーをすると、ハロルド様はハッとして辺りを見回し、周りに誰もいないことを確認する。
「もしかして、エレナ様はあのデスティモナ家の次期ご当主様と親しいんですか?」
メアリさんはわたしに耳打ちする。
ハロルド様は国内でも有数の資産家であるデスティモナ伯爵家のご嫡男で、投資家としても有名だ。
メアリさんは早速コネクションを作りたい相手との遭遇に、ワクワクした顔でわたしを見つめる。
「ご紹介しましょうか? ご挨拶してもよろしいでしょうか」
わたしはリリィさんに許可をとり、ハロルド様に挨拶に向かう。
「ハロルド様。お久しぶりです。本日から文書室でお世話になりますのでよろしくお願い致します」
「こちらこそ宜しくお願いします。それにしても、エレナ様の素性は明かさないようにと伺ってたのに! 私としたことがなんたる不覚でしょう!」
ハロルド様は舞台俳優みたいに大袈裟に嘆く。
本当にうっかりなのか、それともわざとなのか見分けがつかない。
「隠し立てる必要はないけれど、こちらから積極的に明かさないようにとのことです」
別に間諜をするわけではないので偽名を使ったりする必要はないけれど、一応エレナは殿下の婚約者だから周りに気を使わせてしまうならお手伝いにならない。
リリィさんをはじめとした教育担当の女官達と、文書室でエレナのフォローをしてくれる数人の役人だけにしか知らせていない。
幸いエレナは社交界にデビューしてないので、さほど顔が知られているわけではない。バレるリスクは少ない。
まあ、それでもシーワード領で開かれた歓迎式典やお兄様達の婚約式に参列してるから、顔がわかる人はわかるだろうけど……
「ねぇ! エレナ様」
メアリさんから肘で小突かれて急かされる。
そうだ。紹介するんだった。
「ハロルド様。こちらにいらっしゃるのは今日からわたしと一緒に文書室でお世話になるメアリ・ストーン子爵令嬢です」
「あ! エレナ様。ストーンじゃなくて、ジェイムズです。メアリ・ジェイムズ」
「え? ジェイムズって……」
確かメアリさんはジェイムズ商会のご子息と婚約されてるって聞いていた。
「もしかして、ご婚約者様ともうご結婚されたの?」
「はい」
「でも……」
「詳しい事はのちほど」
気になる! 気になるけど、まずは紹介しなくっちゃ。
「ハロルド・デスティモナです。貴女が噂のジェイムズ商会の若奥様ですか。こんな場所でお会いできるとは思ってもみませんでした。幸運を女神に感謝しなくては」
噂ってなに? ますます気になるわたしを尻目に同僚に呼ばれたハロルド様は私たちにウィンクを飛ばして立ち去ってしまった。
執務室から廊下を出ずに出入りできるその部屋は普段あまり使われていないのか、必要最低限の家具が置かれているだけで、がらんとしていた。
見るものも何もない部屋では、考え事くらいしかできない。
自分で決めたことなのに、考え事をし始めると悪いことばかり思いついてしまう。
わたしがため息をつくと同時にドアをノックする音がした。
誰何の声に応えたのはランス様だった。
「ご準備はできましたか」
開いた扉の向こうで冷静な表情でわたしを見つめるのは部屋の主だ。いつも通り愛想のないランス様に少し安堵する。
ランス様の横に女官が数人立っていた。
「よろしいでしょうか。いまからわたくしは未来の王太子妃付きの侍女候補ではなく、あくまでも女官見習いのエレナさんを教育する担当の上司でございます」
部屋の中に入ってくると一番前に立った女性は引き締まった表情で宣言する。
つやのあるグレーシルバーの髪は若い女性に落ち着いた印象を与えていた。
「はい! リリィさん。よろしくお願いね」
わたしが元気よく挨拶すると、目の前に立つ女官の片眉がピクリと動く。
「リリアンナ・コーディ上級女官です。女官見習いとして働くならばわきまえていただかないと困ります」
「失礼しました。リリアンナ・コーディ上級女官殿。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
プフッと吹き出す声が聞こえる。
リリィさんの後ろに立つ女官達の中にいた赤毛をおさげに結んだ丸眼鏡の少女と目が合った。お腹を抱えている。
メアリさんだ!
リリィさんも口の端を片側だけニヤリと持ち上げていた。
「リリィ。随分と楽しげだが、貴女こそ本分をわきまえてもらわなくては困る」
「あら、ランス・コーディ王太子殿下付き筆頭補佐官殿に心配いただかなくても、わたくしは与えられた職務は果たしますわ」
嫌味っぽく注意するランス様にリリィさんも嫌味っぽく応じる。
女官達はまた始まったとばかりに笑いをこらえていた。
わたしが出仕することが決まった際に、信頼できる女官をつけてもらえることになって、紹介されたのがリリィさんを筆頭にした教育係の女官達だ。
今日まで何度か我が家に来ていただくなどして準備を重ねてきた。
リリィさんは殿下の側近であるランス様の奥様で、殿下の侍従であるウェードの妹にあたる女性だ。
王立学園を卒業してから女官として王宮に出仕している。
女性王族の公務をサポートすることが主業務である女官は、いまは数が少ない。
というのも今の王室は、王太子妃はもちろん王妃様もいらっしゃらない。
いまいらっしゃる女性王族は前国王様の後妻である王太后様だけで、その王太后様自体も離宮にお住まいだ。
今後殿下が結婚して王太子妃を迎える準備として文書係や祭事を司る部署なんかに少しずつ女官を増やしている最中らしい。
リリィさんも離宮から王宮に異動し、王太子妃付きの女官を育てる職務を担っている。
優秀な女性人材を国内からかき集めて育成しているから、イスファーン語が出来るエレナがしれっと混ざりやすい状況だった。
わたしは協議の結果、文書係の女官見習いとして出仕することに決まった。
「では、エレナさん。これから西に向かいますよ」
楽しげな女官達と、王宮の西側に向かう。
西と呼ばれているのはいわゆる内政機関が集まる場所だ。
わたしは後ろの方に周り、メアリさんの隣を歩く。
いつのまにか色々な人が裏で手を回してくれて、わたしだけじゃなくて、同僚としてメアリさんも女官見習いとして王宮に出仕することになったみたい。
エレナに振り回されたと思ってないか心配で尋ねたら、王宮勤めの貴族達と顔見知りになれるのは願ってもないことらしい。
王宮出仕はチャンスだとむしろ喜んでいた。
「エレナ様ー‼︎」
廊下を歩いていると大きな声で呼び止められた。
濃厚ハンサム顔を台無しになるくらいくちゃくちゃにして笑って手を振るのは、少し前に顔馴染みになったハロルド・デスティモナ次期伯爵。
わたしが人差し指を立てて静かにしてとジェスチャーをすると、ハロルド様はハッとして辺りを見回し、周りに誰もいないことを確認する。
「もしかして、エレナ様はあのデスティモナ家の次期ご当主様と親しいんですか?」
メアリさんはわたしに耳打ちする。
ハロルド様は国内でも有数の資産家であるデスティモナ伯爵家のご嫡男で、投資家としても有名だ。
メアリさんは早速コネクションを作りたい相手との遭遇に、ワクワクした顔でわたしを見つめる。
「ご紹介しましょうか? ご挨拶してもよろしいでしょうか」
わたしはリリィさんに許可をとり、ハロルド様に挨拶に向かう。
「ハロルド様。お久しぶりです。本日から文書室でお世話になりますのでよろしくお願い致します」
「こちらこそ宜しくお願いします。それにしても、エレナ様の素性は明かさないようにと伺ってたのに! 私としたことがなんたる不覚でしょう!」
ハロルド様は舞台俳優みたいに大袈裟に嘆く。
本当にうっかりなのか、それともわざとなのか見分けがつかない。
「隠し立てる必要はないけれど、こちらから積極的に明かさないようにとのことです」
別に間諜をするわけではないので偽名を使ったりする必要はないけれど、一応エレナは殿下の婚約者だから周りに気を使わせてしまうならお手伝いにならない。
リリィさんをはじめとした教育担当の女官達と、文書室でエレナのフォローをしてくれる数人の役人だけにしか知らせていない。
幸いエレナは社交界にデビューしてないので、さほど顔が知られているわけではない。バレるリスクは少ない。
まあ、それでもシーワード領で開かれた歓迎式典やお兄様達の婚約式に参列してるから、顔がわかる人はわかるだろうけど……
「ねぇ! エレナ様」
メアリさんから肘で小突かれて急かされる。
そうだ。紹介するんだった。
「ハロルド様。こちらにいらっしゃるのは今日からわたしと一緒に文書室でお世話になるメアリ・ストーン子爵令嬢です」
「あ! エレナ様。ストーンじゃなくて、ジェイムズです。メアリ・ジェイムズ」
「え? ジェイムズって……」
確かメアリさんはジェイムズ商会のご子息と婚約されてるって聞いていた。
「もしかして、ご婚約者様ともうご結婚されたの?」
「はい」
「でも……」
「詳しい事はのちほど」
気になる! 気になるけど、まずは紹介しなくっちゃ。
「ハロルド・デスティモナです。貴女が噂のジェイムズ商会の若奥様ですか。こんな場所でお会いできるとは思ってもみませんでした。幸運を女神に感謝しなくては」
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