ゴールドの来た日

青夜

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第一話

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 俺、石神高虎は東大医学部を卒業し、今の蓼科文学院長に誘われて、港区の大病院に勤めている。
 出世にはそれほど興味は無いが、蓼科院長の命により、第一外科部長となった。
 この部署はあらゆるオペを担う。
 オペの経験では、病院内でも随一と言えるだろう。

 忙しい俺だったが、二年前に交通事故で亡くなった親友の子ども四人を引き取って育てている。
 前から可愛がっていたせいもあり、子どもたちも新しい生活に慣れ、俺を慕ってくれている。
 毎日笑い、怒り、困らせられ、楽しい日々だ。
 長女の亜紀、長男の皇紀、そして双子の瑠璃(通称ルー)と玻璃(通称ハー)。
 みんな可愛くてしょうがない。




 9月に入り、急に涼しくなった。

 院長室に呼ばれた。
 8月の終わりに休暇を取っていたので、久しぶりだ。

 「石神、入ります!」
 「おう、座れ」

 院長室の机には、俺が引き取った双子の写真が飾ってある。
 俺が贈ったものだ。
 院長は、俺の双子に夢中だ。
 特に可愛がってくれている。
 
 院長は病院内で非常に厳しい人間と思われている。
 顔がごつい。
 ゴリラのようだ。
 院長も指が恐ろしく太い。
 外科医として世界的に有名な人間だ。

 しかし、俺だけは違う。
 尊敬はしているが、時折悪戯を仕掛け、怒られる。
 怒りながら、院長は「しょうがない奴だ」と言って笑ってくれる。
 俺のことを若い頃から可愛がってくれている。
 俺の周囲の人間だけが、院長が怖いだけの人間ではないことを、俺を通して知っている。
 俺と院長は上司と部下だが、深い絆がある。
 お互いに、大事なことが何なのかを知っている。
 それは、誰かのために自分を擲つことだ。
 俺たちは、互いにそれを持っていることが絆となっている。



 「実はな、お前が休んでいる間に入院した女性がいてな」
 「はぁ」

 「末期がんで、余命は一ヶ月ということだ」
 「そうなんですか」

 大病院なので、そういう患者は常にいる。
 麻痺したとは思いたくもないが、やはりまったく動揺はない。

 「その患者が何か?」
 「うん、実は俺の友人の奥さんでなぁ」
 「はぁ」
 「できるだけのことはしたいと思っているんだが、どうにもご本人が入院生活に不慣れでな」
 「はい」

 「お前に何とかしてもらいたい」
 「はぁ?」



 詳しく聞くと、院長の友人である旦那さんは既に10年以上前に亡くなっており、院長の知り合いということでその奥様が、うちの病院で面倒を見ることになったらしい。
 元は埼玉に住んでおられたが、地元の病院からの転院だ。
 ペイン治療(末期がんの患者などに、治療ではなく痛みを軽減する処置を行なうこと)も充実していることもあって、院長が引き受けたとのことだ。
 まあ、治療もしないでただ寝かせて置いてくれる病院はない。
 渡りに船ということで追い払われた、というのが実情だろう。


 終末医療の病棟は、特別な看護師がつく。
 寿命が尽きることを認識した患者は、千差万別の反応を見せる。
 中には運命を受け入れられずに、手こずる患者もいる。
 院長の友人の奥さんという五十嵐さんも、その一人ということだ。
 ベテランのナースがついて対処しているが、どうにもならないらしい。


 俺が病棟へ行くと、早速看護師と揉めている場面だった。

 「家に帰りたいと言っているのです。何度も申し上げているのに!」
 「そのお身体では無理です。担当医師の許可を取ってからにして下さい」
 「ここは刑務所ですか? なぜあなたに私は縛られるのですか」

 まあ、よくある遣り取りだ。

 「あ、石神先生!」
 看護師が俺の顔を見てホッとした顔をする。

 「どうも、お邪魔いたします」
 「あなたは?」
 「はい、医師の石神と申します。五十嵐様がうちの院長の知り合いということで、一度ご挨拶をと思いまして」
 「ではあなたにお願いします。私を家に帰してください」

 「分かりました。では私が担当医に話して、許可をもらいましょう」
 「ほんとうですか!」
 「はい。少しお待ちください」

 「石神先生!」
 看護師が慌てて言った。
 簡単に引き受け過ぎると思ったのだろう。

 「まあ、待てよ。俺が何とかするから」
 「はぁ」




 
 「石神先生、僕は責任を取りませんよ」
 「分かってるよ。もちろん何かあれば責任は俺だ。院長にもちゃんと話を通すから」
 「でもなぁ」
 「君は必要な機材や薬を手配してくれ。一泊で帰るよ」
 「はぁ、分かりました。本当にお願いしますよ?」
 「ああ、ありがとうな」

 俺は担当医を説き伏せ、病人や怪我人に負担をかけない特別移送車を手配した。
 明日には使えるようだ。

 
 「五十嵐さん、明日、ご自宅へお送りしますよ。俺が運転ですが、よろしいですか?」
 「ああ、本当に! 石神先生、ありがとうございます」
 五十嵐さんは心底喜んでくれた。

 体力は相当に落ちているはずだが、気力は充実している。
 この様子ならば、丁寧に看護すれば一泊くらいは大丈夫だろう。





 翌日、俺は五十嵐さんの自宅へ向かった。
 自宅には、娘さんが毎日来ているらしい。
 たしか、旦那さんが亡くなってから独り暮らしと聞いていたが。

 「お嬢さんはご自宅で何かなさっているんですか?」

 車を運転しながら聞いてみた。
 五十嵐さんは痛み止めの点滴を入れている。
 この車には、そういう装備もあるのだ。

 「ええ、犬の面倒を頼んでいるんです」

 話を聞くと、五十嵐さんはご主人を亡くしてから犬を飼い始めたらしい。
 ゴールデンレトリバーの子犬を友人から譲り受け、ずっと可愛がっているのだと。

 「ゴールドがいてくれたお蔭で、主人を亡くしても寂しくはなかったんですよ」

 五十嵐さんは、少しずつその犬「ゴールド」の話をしてくれた。
 無理をなさらず、辛ければ寝てくださいと言ったが、俺に聞いて欲しいらしい。

 「でも、娘は面倒がっているようで、私は心配なんです。ですからワガママを言ってしまい、申し訳ありません」
 「とんでもないですよ。それほど可愛がっている家族なんですから、五十嵐さんのご心配はよく分かります」
 「本当にありがとうございます」

 五十嵐さんは涙ぐんで礼を言った。
 誰にだって大事なものはある。
 それが他人に理解できなくたって、本人には命よりも大事なことがあるのだ。
 どんなに丁寧にやっても、この移動は確実に五十嵐さんの寿命を削る。
 それを分かっていても、五十嵐さんは来たがったのだ。




 1時間ほどで五十嵐さんの自宅へ着き、俺がチャイムを押した。
 連絡してあったので、すぐに娘さんが出てくる。

 「ああ、本当に来たのね」
 心底面倒そうな顔をされた。

 俺が何か言うべきものではない。
 人それぞれに事情はあるものだ。

 五十嵐さんは挨拶もそこそこに自宅へ入られた。
 一匹の犬が駆け寄って、五十嵐さんに飛びついた。

 「ああ、ゴールド。まあこんなに痩せてしまって!」

 五十嵐さんは涙を流しながら犬を抱きしめていた。

 居間に着くなり、五十嵐さんは激しい調子で娘さんをなじる。
 娘さんも反論するが、どうも犬の面倒はほとんど見ていなかったらしい。



 30分もしないうちに、五十嵐さんは娘さんを追い出した。

 「石神先生、私、ここで最後まで暮らすことにしました」

 当然そう言うだろうことは、先ほどの遣り取りを見ていて思っていた。




 「五十嵐さん、私のことは少しでも信頼していただけますか?」

 五十嵐さんは俺の突然の言葉に、理解できないようだった。

 「はぁ、それは今日のこともありますし、石神先生は信頼できる方だと思っておりますが」
 「それでしたら申し上げたいのですが、そのゴールドをうちでお預かりするというのはいかがでしょうか?」
 「え、ゴールドを?」
 「はい」



 ここでは暮らせないとは言わない。
 そう言えば五十嵐さんは断固拒否するだろう。
 しかし、毎日の末期がんの苦痛は、病院でなければ耐えられない。
 五十嵐さんの状況は、既に麻薬の使用が必要だった。
 それは、医師でなければ扱えない。

 「もちろん院長の許可を得て、それからうちの子どもたちにも了解させた上でのお話です。ですが、私は必ずそうするつもりでいます。五十嵐さんのご信頼がいただければ、是非うちで大事なゴールドのお世話をさせて下さい」


 五十嵐さんは少し考えているようだった。
 結局、ここに自分がいても、ゴールドの世話は難しい。
 何よりも、余命は短い。
 それを納得してくれた。

 「それでは石神先生。宜しくお願いいたします」
 「お任せください!」





 そうして、突然ではあったが、ゴールドが我が家に来ることとなった。
 俺が話すと、子どもたちは大層喜んでくれた。
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