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娘を思う手紙 Ⅲ

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 俺がようやく蓼科部長のしごきを終えつつあったある日。
 蓼科部長から、傘下の病院から回って来た患者を担当するように言われた。
 坂井戸美鶴。
 34歳の若い女性だった。
 しかし末期ガンであり、終末医療の整ったうちの病院へ来た。
 蓼科部長は、俺に末期のガン患者の世話をさせ、医者としての心得と振る舞いを学ばせるつもりだった。
 俺にもそれはよく理解出来た。
 もう治療の手立てはなく、ゆっくりと死を迎える患者。
 何が出来て何が出来ないのか。
 そういうことを俺が考えて対応しなければならない。
 もちろん出来ないことの方が圧倒的に多い。
 出来るのは痛みを緩和することと、死への心構えを持たせてやれれば、ということだ。
 前者はある程度は容易いが、後者はそうではない。
 大前提として、医者の本分を外れることは出来ない。
 医者は宗教家ではない。
 心の安らぎは、誰にも与えられるものではないのだ。
 それでも俺は出来るだけのことをしたいと考えていた。
 余命は2ヶ月。
 まだ意識ははっきりしている。

 俺はとにかく坂井戸さんと話をすることにした。
 それは俺に出来ることだからだ。
 坂井戸さんが音大を出てピアノを子どもに教えていたことを知り、俺は門土との思い出を語った。
 坂井戸さんが俺の話に聞き入ってくれ、貢さんとの思い出も話し、特に橘弥生の名前を出すととても喜んでくれた。
 坂井戸さんは俺に心を開いてくれ、自分のことも色々と話すようになってくれた。
 坂井戸さんには、9歳の娘さんがいたということだった。
 音大を出てすぐの23歳で結婚して生まれた可愛い娘。
 しかし8年前に離婚し、シングルマザーとして娘を引き取った。
 旦那さんは角紅の商社マンで、家柄も高い家系だった。
 旦那さんとは橘弥生のピアノコンサートで出会い、そのまま交際し結婚した。
 橘弥生が二人とも大好きだったということが、二人を結び付けた。
 坂井戸さんが音大のピアノ科を出ていたと知り、旦那さんは一層坂井戸さんを好きになった。
 そういう思い出があったので、俺の橘弥生に関する話に興味を抱いてくれたようだ。

 だが、結婚生活は普通の家庭で生まれた坂井戸さんには覚束ないものだった。
 厳しい家柄に耐えられずに娘が生まれてすぐに離婚となった。
 娘の養育を巡って多少のイザコザはあったようだが、裁判で親権を獲得したそうだ。
 そして昨年、末期ガンが見つかった。
 もう手の施しようもなく、坂井戸さんは愛する娘を旦那さんに託すことを決意した。

 「ピアノ教室をやっていたんですけどね。頑張ったんですけどね」
 「そうですか」
 「でもダメでした。体調が悪いのは気付いていたのですが、まさかこんな身体になっていたとは」
 「娘さんに会いたいでしょう?」
 「ええ。でももういいんです。娘にはこんなにやつれた私を見せたくもないですし。記憶の中には健康で笑っている私だけを覚えておいて欲しい……」
 「なるほど」
 
 坂井戸さんの気持ちは分かったが、この世に遺す最大の思いは娘さんのことだろうことも分かった。

 「彩音(あやね)と名付けたんです。私が音楽が好きなので、音を彩るような人間になって欲しかった」
 「ピアニストですか?」
 「そうですね。まあ、娘が望めばですが。幼い頃からピアノを弾かせておりました。でも、もう教えることは出来ない……」
 
 やはり心残りなのだ。
 当然だろう。

 俺は何か坂井戸さんの力になりたいと思っていた。
 今でも娘さんのことを思う坂井戸さんに、何か出来ないだろうか。
 毎日考えていた。
 ある日、俺が考えたことを坂井戸さんに話した。

 「お嬢さんに、手紙を書いてはいかがでしょうか?」
 「え、手紙ですか?」
 「ええ。もう会わないというお気持ちは尊重します。ですが、坂井戸さんの愛情を手紙に遺して御伝えしては?」

 坂井戸さんの顔が輝いた。

 「ああ、なるほど!」
 「前にそうした方がいるんです。もう会えない子どもに手紙を書いて逝った方が」
 「そうなんですか! 素敵ですね!」
 「そうですか。ではお手伝いしますよ」
 「お願いします!」

 俺が手伝うと言ったのは、もう坂井戸さんは脳に転移したガンのせいで、両手の麻痺が始まっていたためだ。
 だから俺が手紙の代筆を請け負った。
 幸い、俺の字を坂井戸さんも認めてくれ、録音しワープロに記録して坂井戸さんが推敲した内容を俺が清書することにした。
 坂井戸さんは楽しそうにその作業を進めて行った。
 俺もその笑顔を見ながら、一緒にやって行った。
 坂井戸さんは本当に楽しそうで、俺はお話しして良かったと思っていた。
 始めて間もなくの時、坂井戸さんが言った。

 「石神先生、こんなお願いは恐縮なのですが」
 「なんですか?」
 「あの、彩音の誕生日に向けて書いて行きたいのです」
 「ああ、なるほど」
 「それで、毎年1通ずつ。娘の成長に向けて言葉を掛けてやりたいのです」
 「いいですね! 是非やりましょう!」

 幾つまで、とは決めないようにした。
 体調のこともあるし、坂井戸さんが思いつく範囲でやるということを話し合った。
 その日から、俺と坂井戸さんは時間と体調との兼ね合いで作業を進めて行った。

 《彩音、10歳のお誕生日おめでとう。去年よりも背は伸びたでしょう? もう好きな男の子はいるのかな? 彩音は綺麗だから、きっと彩音のことを好きな子もいるでしょうね。お友達はどうかな? 彩音は優しい子だから、きっといろいろな人に好かれているでしょう。でも、そんな彩音でも……》

 優しい言葉だった。
 娘にどれほどの愛情を抱いているのかが分かる手紙だった。
 11歳、12歳と進み、思春期の女性の悩みなども交えてその相談に乗りたがっていた。
 坂井戸さんには、まるで成長していく彩音さんのことが、ありありと見えているようだった。
 それは、如何に深く彩音さんのことを愛しているかの証だった。
 20歳になり、25歳になり、まだまだ彩音さんに対する愛情は幾らでも出て来た。
 時に自分の体験を語り、彩音さんの参考にして欲しいと言った。
 今の坂井戸さんの年齢を過ぎても、ずっと手紙は続いて行った。
 俺が気になっていたのは、ピアノの話が一つも出ないことだった。
 ある日、そのことを坂井戸さんに聞いてみた。

 「ピアニストになって欲しいとはおっしゃらないんですね?」
 「ええ、それは彩音が決めることです。あの子には私を気にせずに自分の人生を歩んで欲しくて」
 「そうですね。でも、一言、坂井戸さんの本心をお伝えしてはいかがでしょうか?」
 「私の本心ですか……」

 坂井戸さんの躊躇いは分かっている。
 もう娘のために何も出来ない自分が、希望を語っても良いものなのだろうかと悩んでいる。

 「はい。彩音さんが決めることだということは書いて、その上で坂井戸さんがピアニストになって欲しいということはおっしゃってもいいのではないかと」
 「でも、彩音が気にするのでは」
 「気にするべきです。坂井戸さんが生きていれば、きっとその道を勧めたに決まっているんですから。これまでもそうだったのでしょう?」
 「!」
 「親は子に正直に気持ちを打ち明けるべきです。それを子どもがどう受け取るのかは子どもの人生です。それでも、と思いますよ?」
 「石神先生……」

 坂井戸さんは一度だけ、その気持ちを記した。
 最初の10歳の誕生日への手紙に書き加えられた。
 追伸として、自分で人生を決めて欲しいけど、自分はピアニストになって欲しいとこれまで思って来た、と書いた。
 それ以降の手紙には、一言もそれに触れていない。
 坂井戸さんは徐々に体力を喪い、衰弱していった。
 意識のある最後まで、俺との手紙の記録を続けた。





 膨大な量の手紙が遺された。
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