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娘を思う手紙
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9月の初旬の土曜日の朝。
六花と栞にそれぞれ無事に子どもが生まれ、俺も一段落してのんびりとしていた。
朝食を食べて、六花にでも電話しようかと考えていた。
六花も東京へ戻っており、栞もうちにいる。
俺は六花のマンションへでも行こうかと思っていた。
「はい! それは! はい、是非いらして下さい!」
亜紀ちゃんが誰かとでかい声で電話していた。
なんか嫌な予感がする。
亜紀ちゃんに友達は少ない。
まあ、「カタ研」の先輩たちもいるので、敬語で話す人間は多少はいる。
しかし、このテンション。
あの嬉しそうな顔。
亜紀ちゃんがチラリと俺を見てから目を逸らした。
「!」
俺は一瞬で悟った。
「六花のマンションに行くな!」
急いで上に上がって着替えて出ようとした。
亜紀ちゃんがニヤニヤ笑ってリヴィングの出口に仁王立ちしていた。
「どけ!」
「これから大切なお客様がいらっしゃいます」
「俺は何も聞いてねぇ。六花が熱を出したらしいんだ(ウソ)!」
「何度です?」
「……39度8分」
「40度以下じゃダメですね」
「お前! 人の血が流れてねぇのか!」
まあ、俺もウソを言っているので強くは言えない。
「橘さんがいらっしゃいます!」
「……」
ついに名前を聞いてしまった。
もう逃げられねぇ。
「さあ、準備して下さいね」
「何時に来るんだよ」
「あと30分だそうです」
「分かったよ!」
いつもながらに早い。
毎回既に出発してから連絡を寄越す。
それでいて俺が対応出来るタイミングで来るので驚く。
まあ、世の中には「持っている」という人がいるのだ。
全ての言動でピッタリとタイミングが合うのだ。
ついでに言うと、聖と御堂もタイミングが物凄く良い。
いつでも俺が一段落した時に連絡をくれる。
反対なのは早乙女か。
もちろん悪い奴ではないのだが。
俺は支度を整え、玄関を出て待った。
すぐに門の所へ橘弥生のタクシーが停まった。
俺もタイミングがいい。
門を開いて俺がタクシーの料金を支払った。
黒のレースのワンピースを着ている。
「ありがとう、トラ」
「いいえ、愛する橘さんのお運びですからね。言って下さればお迎えに行きましたのに」
「あなたは忙しいでしょう」
「そうですか」
じゃあ、どうしてアポなしで来るんだよ!
タクシーからもう一人降りてきて驚いた。
まだ若い女性だ。
半袖の明るいベージュのパンツスーツだった。
緩くウェーブの掛かった髪が肩の下まで伸びている。
顔立ちは美しい女性だった。
俺に頭を下げて挨拶をして来た。
「二宮彩音(にのみや あやね)です。初めまして」
「……石神高虎です。暑い中をようこそ」
その名前に驚いた。
「トラ、二宮さんはね、新進気鋭のピアニストなの」
「そうなんですか」
「あなた、もしかして知っていた?」
「いいえ、ピアニストは橘さんだけしか興味ないですから」
橘さんが顔を赤くして俺を睨んだ。
「でも、名前を聞いていたような感じだったわよ?」
「まあ、とにかく入って下さい。ここは暑いや」
二人を1階の応接室へ案内した。
亜紀ちゃんにアイスティを頼む。
「お子さんが二人生まれたそうね」
「え、よくご存じで!」
「ラインで回って来たわよ。まあ、お盛んで何より」
「アハハハハハ」
なんかそんなもので亜紀ちゃんが回したと言っていたのを思い出した。
俺は相変わらずネットのことは不得手で、ラインって何なのかも知らない。
メールと違うの?
亜紀ちゃんがアイスティを持って来た。
「橘さん。こんにちは!」
「ああ亜紀ちゃん、今日もお綺麗ね」
「そんなぁ! 橘さんこそ!」
まあ、仲がいい。
亜紀ちゃんが当然のように一緒にソファに座る。
二宮さんにも挨拶した。
「トラ、今日は二宮さんをあなたに会わせたかったの」
「俺に?」
一瞬、橘さんが何か知っているのかと思ったが、それはあり得ないと思い直した。
「二宮さんがね、TORAのCDに感激していたのよ。それで私の名前が入っていたから、こっちに連絡して来たの」
「二宮さん!」
俺の前に亜紀ちゃんが大興奮になった。
「あなたは確かな耳をお持ちの方だぁ!」
「バカ! プロのピアニストの方だ!」
「ヘゥ!」
頭を引っぱたき、二宮さんに謝った。
二宮さんは笑いながら気にしていないと言った。
「私などは橘さんに比べればまだまだ駆け出しで才能などもありませんから」
「申し訳ありません。こいつ、ちょっと幼い頃に牛に頭をけ飛ばされてまして」
橘さんも爆笑した。
亜紀ちゃんはニコニコしている。
「それでね、是非トラに会いたいと頼まれてね」
「私が無理矢理お願いしたんです! 私、あんな音楽を聴いたことがなくって! 本当に感動しました。今も毎日聴いています」
「それは恐縮です。俺はギターは好きなんですが、プロではないんで」
「トラ、あなたはもうプロよ」
「もう!」
亜紀ちゃんが拍手している。
「橘さん、そろそろ冬の録音の準備もしないと!」
「もうやっているわ。前回の録音スタッフが自分から任せて欲しいって集まってるの」
「最高ですね!」
「ちょっと待てぇ!」
俺にだって予定はある。
橘さんが俺に黙るように言った。
「まあ、今日は二宮さんのことなの。トラ、あなたのギターを聴かせて頂戴」
「いいですけどね。じゃあ、後で地下で。お昼は食べて行っていただけますか?」
「ええ、構わないわ。二宮さんもいいでしょう?」
「ええ、でも申し訳ないですから」
「いいのよ。トラの家の食事はちょっと美味しいのよ。一緒にいただきましょう」
「はい、すいません。押し掛けた挙句に」
「構いませんよ。どうせうちの食事は数人増えても問題ありませんから」
「はい?」
俺は笑って亜紀ちゃんにメニューを聞いた。
「今日のお昼は肉蕎麦大会ですよ!」
「三年に一度のお肉か!」
「はい! 昨日まではお蕎麦をお湯で煮ただけでしたからね!」
「塩味も付くのかよ!」
「楽しみにしててください!」
橘さんが笑い、二宮さんは訳が分からないという顔をしていた。
亜紀ちゃんが上に上がり、俺は二人を地下へ案内した。
二宮さんがオーディオ装置に驚く。
「ここはいいでしょう。音楽を愛する者にとっては聖域だわ」
「素晴らしいですね。こんな物凄い装置はどこのスタジオでも見たことがありません。
それを聞いて俺もいい気分になった。
この部屋の価値を分かってくれると、俺は上機嫌になる。
ラミレスのギターを取り出し、調弦をした。
二人とも黙ってそれを見ている。
「トラ、フォーレの『夢のあとに』を弾きなさい」
亜紀ちゃんから俺が少し前に弾いたのは聞いており、また音源も渡されていた。
俺は言われた通りに弾き、歌った。
二宮さんは緊張したまま耳を澄ませていた。
全身で音を聴き取ろうとしている。
真面目な音楽の求道者だ。
弾き終えると二人とも黙っていた。
橘さんは普通だが、二宮さんの身体が震えていた。
「なんという! ここまでのものとは! CDではやはり100分の1も駄目ですね!」
「当然よ。だから私たちはコンサートを開くのだしね。まあ、ここほどのオーディオとスピーカーでもあれば、また別でしょうけどね」
「はい! でも、生の音は全然違います!」
二宮さんが特に興奮して已まなかった。
確かにCDよりも生演奏の方が実感は多い。
そして、生演奏を聴いた後でのCDもまた違って来るものだ。
俺は適当に何曲か弾いた。
バッハの『シャコンヌ』、『御堂』『聖』などだ。
すると、二宮さんが俺に頼んできた。
「『Para mi Madre(母へ)』を弾いて頂けませんか?」
「いいですよ。あの曲がお好きなんですか?」
「はい、特に。私の母のことを思い出すようでして」
「そうですか。では」
俺はもう一度調弦した。
橘弥生が眼を光らせた。
俺が気合を入れているのが分かるのだ。
どうしてなのかは問わず、黙っていたが。
俺は全霊で弾き挙げた。
俺から二宮彩音に捧げる最高の演奏のつもりだった。
弾き終えると、二宮さんは涙を流し、橘さんは手を叩いていた。
「トラ、良かったわ」
「ありがとうございます」
「石神さん、ありがとうございます」
「いいえ。ちょっと一休みしましょう。そろそろ昼食が出来る頃だ」
六花と栞にそれぞれ無事に子どもが生まれ、俺も一段落してのんびりとしていた。
朝食を食べて、六花にでも電話しようかと考えていた。
六花も東京へ戻っており、栞もうちにいる。
俺は六花のマンションへでも行こうかと思っていた。
「はい! それは! はい、是非いらして下さい!」
亜紀ちゃんが誰かとでかい声で電話していた。
なんか嫌な予感がする。
亜紀ちゃんに友達は少ない。
まあ、「カタ研」の先輩たちもいるので、敬語で話す人間は多少はいる。
しかし、このテンション。
あの嬉しそうな顔。
亜紀ちゃんがチラリと俺を見てから目を逸らした。
「!」
俺は一瞬で悟った。
「六花のマンションに行くな!」
急いで上に上がって着替えて出ようとした。
亜紀ちゃんがニヤニヤ笑ってリヴィングの出口に仁王立ちしていた。
「どけ!」
「これから大切なお客様がいらっしゃいます」
「俺は何も聞いてねぇ。六花が熱を出したらしいんだ(ウソ)!」
「何度です?」
「……39度8分」
「40度以下じゃダメですね」
「お前! 人の血が流れてねぇのか!」
まあ、俺もウソを言っているので強くは言えない。
「橘さんがいらっしゃいます!」
「……」
ついに名前を聞いてしまった。
もう逃げられねぇ。
「さあ、準備して下さいね」
「何時に来るんだよ」
「あと30分だそうです」
「分かったよ!」
いつもながらに早い。
毎回既に出発してから連絡を寄越す。
それでいて俺が対応出来るタイミングで来るので驚く。
まあ、世の中には「持っている」という人がいるのだ。
全ての言動でピッタリとタイミングが合うのだ。
ついでに言うと、聖と御堂もタイミングが物凄く良い。
いつでも俺が一段落した時に連絡をくれる。
反対なのは早乙女か。
もちろん悪い奴ではないのだが。
俺は支度を整え、玄関を出て待った。
すぐに門の所へ橘弥生のタクシーが停まった。
俺もタイミングがいい。
門を開いて俺がタクシーの料金を支払った。
黒のレースのワンピースを着ている。
「ありがとう、トラ」
「いいえ、愛する橘さんのお運びですからね。言って下さればお迎えに行きましたのに」
「あなたは忙しいでしょう」
「そうですか」
じゃあ、どうしてアポなしで来るんだよ!
タクシーからもう一人降りてきて驚いた。
まだ若い女性だ。
半袖の明るいベージュのパンツスーツだった。
緩くウェーブの掛かった髪が肩の下まで伸びている。
顔立ちは美しい女性だった。
俺に頭を下げて挨拶をして来た。
「二宮彩音(にのみや あやね)です。初めまして」
「……石神高虎です。暑い中をようこそ」
その名前に驚いた。
「トラ、二宮さんはね、新進気鋭のピアニストなの」
「そうなんですか」
「あなた、もしかして知っていた?」
「いいえ、ピアニストは橘さんだけしか興味ないですから」
橘さんが顔を赤くして俺を睨んだ。
「でも、名前を聞いていたような感じだったわよ?」
「まあ、とにかく入って下さい。ここは暑いや」
二人を1階の応接室へ案内した。
亜紀ちゃんにアイスティを頼む。
「お子さんが二人生まれたそうね」
「え、よくご存じで!」
「ラインで回って来たわよ。まあ、お盛んで何より」
「アハハハハハ」
なんかそんなもので亜紀ちゃんが回したと言っていたのを思い出した。
俺は相変わらずネットのことは不得手で、ラインって何なのかも知らない。
メールと違うの?
亜紀ちゃんがアイスティを持って来た。
「橘さん。こんにちは!」
「ああ亜紀ちゃん、今日もお綺麗ね」
「そんなぁ! 橘さんこそ!」
まあ、仲がいい。
亜紀ちゃんが当然のように一緒にソファに座る。
二宮さんにも挨拶した。
「トラ、今日は二宮さんをあなたに会わせたかったの」
「俺に?」
一瞬、橘さんが何か知っているのかと思ったが、それはあり得ないと思い直した。
「二宮さんがね、TORAのCDに感激していたのよ。それで私の名前が入っていたから、こっちに連絡して来たの」
「二宮さん!」
俺の前に亜紀ちゃんが大興奮になった。
「あなたは確かな耳をお持ちの方だぁ!」
「バカ! プロのピアニストの方だ!」
「ヘゥ!」
頭を引っぱたき、二宮さんに謝った。
二宮さんは笑いながら気にしていないと言った。
「私などは橘さんに比べればまだまだ駆け出しで才能などもありませんから」
「申し訳ありません。こいつ、ちょっと幼い頃に牛に頭をけ飛ばされてまして」
橘さんも爆笑した。
亜紀ちゃんはニコニコしている。
「それでね、是非トラに会いたいと頼まれてね」
「私が無理矢理お願いしたんです! 私、あんな音楽を聴いたことがなくって! 本当に感動しました。今も毎日聴いています」
「それは恐縮です。俺はギターは好きなんですが、プロではないんで」
「トラ、あなたはもうプロよ」
「もう!」
亜紀ちゃんが拍手している。
「橘さん、そろそろ冬の録音の準備もしないと!」
「もうやっているわ。前回の録音スタッフが自分から任せて欲しいって集まってるの」
「最高ですね!」
「ちょっと待てぇ!」
俺にだって予定はある。
橘さんが俺に黙るように言った。
「まあ、今日は二宮さんのことなの。トラ、あなたのギターを聴かせて頂戴」
「いいですけどね。じゃあ、後で地下で。お昼は食べて行っていただけますか?」
「ええ、構わないわ。二宮さんもいいでしょう?」
「ええ、でも申し訳ないですから」
「いいのよ。トラの家の食事はちょっと美味しいのよ。一緒にいただきましょう」
「はい、すいません。押し掛けた挙句に」
「構いませんよ。どうせうちの食事は数人増えても問題ありませんから」
「はい?」
俺は笑って亜紀ちゃんにメニューを聞いた。
「今日のお昼は肉蕎麦大会ですよ!」
「三年に一度のお肉か!」
「はい! 昨日まではお蕎麦をお湯で煮ただけでしたからね!」
「塩味も付くのかよ!」
「楽しみにしててください!」
橘さんが笑い、二宮さんは訳が分からないという顔をしていた。
亜紀ちゃんが上に上がり、俺は二人を地下へ案内した。
二宮さんがオーディオ装置に驚く。
「ここはいいでしょう。音楽を愛する者にとっては聖域だわ」
「素晴らしいですね。こんな物凄い装置はどこのスタジオでも見たことがありません。
それを聞いて俺もいい気分になった。
この部屋の価値を分かってくれると、俺は上機嫌になる。
ラミレスのギターを取り出し、調弦をした。
二人とも黙ってそれを見ている。
「トラ、フォーレの『夢のあとに』を弾きなさい」
亜紀ちゃんから俺が少し前に弾いたのは聞いており、また音源も渡されていた。
俺は言われた通りに弾き、歌った。
二宮さんは緊張したまま耳を澄ませていた。
全身で音を聴き取ろうとしている。
真面目な音楽の求道者だ。
弾き終えると二人とも黙っていた。
橘さんは普通だが、二宮さんの身体が震えていた。
「なんという! ここまでのものとは! CDではやはり100分の1も駄目ですね!」
「当然よ。だから私たちはコンサートを開くのだしね。まあ、ここほどのオーディオとスピーカーでもあれば、また別でしょうけどね」
「はい! でも、生の音は全然違います!」
二宮さんが特に興奮して已まなかった。
確かにCDよりも生演奏の方が実感は多い。
そして、生演奏を聴いた後でのCDもまた違って来るものだ。
俺は適当に何曲か弾いた。
バッハの『シャコンヌ』、『御堂』『聖』などだ。
すると、二宮さんが俺に頼んできた。
「『Para mi Madre(母へ)』を弾いて頂けませんか?」
「いいですよ。あの曲がお好きなんですか?」
「はい、特に。私の母のことを思い出すようでして」
「そうですか。では」
俺はもう一度調弦した。
橘弥生が眼を光らせた。
俺が気合を入れているのが分かるのだ。
どうしてなのかは問わず、黙っていたが。
俺は全霊で弾き挙げた。
俺から二宮彩音に捧げる最高の演奏のつもりだった。
弾き終えると、二宮さんは涙を流し、橘さんは手を叩いていた。
「トラ、良かったわ」
「ありがとうございます」
「石神さん、ありがとうございます」
「いいえ。ちょっと一休みしましょう。そろそろ昼食が出来る頃だ」
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