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あの日、あの時: 喪失 Ⅲ

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 「花岡さん、遅い時間まで悪かったね」
 「いいえ。奈津江のことを宜しくお願いします」
 「うん。じゃあ、気を付けて帰ってね」
 「はい。奈津江、しっかりして。まだ終わってないからね」
 「……」
 「奈津江……」

 奈津江が栞を見た。

 「あのね、毎日祈ってたの」
 「うん……」

 本当にそうだっただろう。
 何も出来ない奈津江が唯一出来ることは、それだった。

 「高虎を助けて欲しいって。誰でもいいの。私の全部をあげるからって」
 「奈津江……」
 「最近ね、分ったんだ」
 「え、なに?」
 「私の命を使って欲しいな」

 「奈津江、何を言ってるの!」

 奈津江が微笑んだと言う。
 栞を見て。

 「栞、高虎を宜しくね」
 「うん、任せて!」

 栞は決意していたのだろう。
 奈津江が自分に俺の治療を任せたのだと思っていた。
 俺は大分後になってから栞と結ばれ、あの時の話を聞いた。
 栞は独断で「花岡家」の力を使い、俺を東大病院から拉致するつもりでいた。
 実家まで運べば、何とかできる。
 父親の雅さんはきっと栞の味方になり、手配してくれる。

 しかし、奈津江は別なことを考えていたのではないか。
 奈津江は栞に俺を宜しくと言った。
 それは……




 顕さんはタクシーで奈津江と一緒に帰った。
 随分と遅い時間に家に着き、奈津江のために食事を作ろうとしていた。

 「お兄ちゃん、ちょっと外へ出て来るね」
 「おい、こんな遅い時間だ。家にいなさい!」
 「ちょっとだけだから」
 「奈津江!」

 奈津江が振り向いてにっこりと微笑んだそうだ。
 それは狂ったように泣き叫んでいた奈津江でも、その後黙り込んで殻に閉じこもった奈津江でもなかったと言う。

 「お兄ちゃん、ありがとうね」
 「おい、本当に家にいなさい」
 「ありがとう!」

 そう言って奈津江は出て行った。




 そして顕さんは奈津江の死を知った。
 帰って来ない奈津江を待っていると、電話が鳴った。
 蕨警察署からであり、奈津江が交通事故で即死したと聞いた。
 顕さんの全身から血が降り、受話器を取り落として床に崩れた。




 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■




 翌朝。
 奈津江の状態を聞こうと栞は奈津江の家に電話した。 
 そして奈津江の死を知り、愕然となった。
 まだ顕さんも病院から戻ったばかりで、まともな状態じゃなかった。

 栞はすぐに、俺の所へ来た。
 俺はベッドの横に立つ栞に気付いた。
 無言で俺を見る彼女の目に、尋常ではない何かを感じた。

 「奈津江が死んだわ」

 栞が、まるで機械のように喋った。
 俺にはそういう音に聞こえた。
 俺は半分この世にいなかった。
 もう感情も感覚も半減し、ただ時間が過ぎるだけだった。
 衰弱は終わりかけていた。
 栞が、混乱している顕さんからやっと聞いた奈津江の死を話した。

 奈津江を連れ帰った夜。
 奈津江はトラックに轢かれて即死だったらしい。
 警察が事故現場を探ったが、トラックの運転手の証言しか無かったらしい。

 「フラフラと車道に飛び出して……」

 栞は、そこで嗚咽した。
 それ以上、俺は話を聞けなかった。
 意識を喪っていた。

 奈津江の葬儀にも出られず、俺はただただ死を待った。
 奈津江に会いたい。
 その時を望んだ。

 日に何度も意識を喪い、俺は次第に現実を喪っていった。
 栞は俺を運び出す準備を進めていたはずだ。
 しかし、それは実行されなかった。
 奈津江の死が、栞の中で何かを思い止まらせていた。
 栞は俺を奪えなかった。





 「あなたがぁ! あなたが死ぬなんて、絶対に許さないから!」

 もう何も感じないはずの身体が、激痛を走らせた。
 すぐ後で頬を叩かれて、俺は一瞬正気を取り戻した。

 「なんで、なんで、あなたは死んじゃうの! 奈津江はあなたに生きて欲しかったのに!」

 何度も俺の顔を殴る、鈍い響きだけを感じた。
 俺は痛覚を喪っていた。
 では、さっきのあの激痛はなんだったのか。

 「奈津江は、自分の命を使って欲しいって言った! どこかの誰かに、絶対そうして欲しいって言ってたの!」

 その時、俺は誰かに手を握られるのを感じた。
 本当だ。
 栞の激しい打擲はほとんど感じないのに、俺に触れ、握る強さと温かさが、その手からはしっかりと感じられた。
 俺は激痛と優しい温かさに―――救われた。
 



 あの日、栞が何故急に半狂乱で俺を殴っていたのか。
 それも随分と後になって聞いた。

 「夢の中にね、奈津江が出て来たの」
 「え?」
 
 草原の丘の上で、白いパラソルの下のテーブルで二人は話していたそうだ。

 「奈津江がね、自分は全てを使って貰ってあなたを助けてもらえたって。だからあなたのことを頼むって言うのよ」
 「奈津江がか?」
 「うん。なんだかね、私の気持ちは奈津江には分かっていたみたい。奈津江がいたからあなたに打ち明けることは無かったけどね」
 「そうか……」

 栞は泣きそうな顔になっていた。

 「奈津江がね、あなたが死にたがってるって言ってた」
 「ああ……」

 その通りだった。
 奈津江がこの世にいないのなら、俺は1秒だって生きていたくはなかった。

 「折角助かるのにって。私ね、その時奈津江の気持ちが分かったの」
 「ああ」
 「奈津江は本当に自分の全てであなたを助けようとした。だから私もそうしなきゃって」
 「そうか」

 あれは、栞の俺への告白だったのだ。
 好きだと言えず、奈津江に申し訳ないと謝りながら、栞は俺に告白していた。
 その痛みだったのだ。

 


 俺は今でも、奈津江に魂の半分を預けたままなのかもしれない。
 あれから他の女たちを愛し、いろいろな人間を大事に思っている。
 しかし、俺は奈津江のことを忘れられない。

 そして俺は気付いた。

 俺もまた、奈津江の魂を預かっているのだ、と。
 奈津江の死から長い年月が流れ、俺はようやくそのことに気付いた。
 
  


 《愛し、そして喪ったということは、未だ愛無きより貴き哉。(Tis better to have loved and lost   Than never to have loved at all.》




 高校生の時に、テニスンの『イン・メモリアル』を独自に翻訳した。
 この一文に触れ、テニスンの詩聖たる器を感じ、感動した。

 しかし、奈津江を喪ってから、この一文が俺に突き刺さり苦しめ続けた。
 俺は貴さなど要らなかった。
 そう思っても、尚俺の中でこの一文が血を流させ、俺を悲痛の中に沈め続けた。

 山中と奥さんが突然死に、俺はまた悲痛の中で山中たちの子どもたちを引き取った。
 四人の中で、俺と同じ悲痛が渦巻いていることを感じた。
 そして俺はようやく辿り着いた。

 愛は喪失によって真の「愛」になる。
 俺は奈津江を喪って、奈津江への愛が爆発して俺の中に拡がっていたことに気付いた。






 俺は奈津江を全身全霊で愛することが出来た。
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