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あの日、あの時: 喪失

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 「じゃあ、夏休みに入ったら、まずDランドね!」
 「ああ、楽しみだな!」

 夏休みを前にして、俺と奈津江は毎日その話をしていた。
 奈津江がいろいろと調べ、当日の段取りを二人で確認していった。

 もう一つの話題があった。
 こっちは切実だ。

 「奈津江、来年は卒業だよな?」
 「うん。高虎はあと2年ね」
 「ああ。それでさ」
 「なに?」

 俺は奈津江の肩に手を乗せて言った。

 「ほら! 卒業したらって話!」
 「ば、ばか!」

 奈津江が俺の胸を殴った。

 「だって卒業だぞ!」
 「何言ってるのよ! 高虎はまだじゃない!」
 「だってよー」
 「ちょっと!」

 奈津江も焦っていた。
 約束はそうなのだが、微妙な位置だ。
 
 「でもさ、やっぱり高虎も卒業しないと」
 「えぇー!」
 「高虎が学生じゃ結婚も出来ないじゃん」
 「そうだけどさー」

 奈津江が真っ赤な顔をしてうつむいていた。

 「あのね、私、夢があるの」
 「なんだ?」
 「ほら、前に一緒に京都に行ったじゃない」
 「ああ、楽しかったな!」
 「だからね、新婚旅行は京都がいいかなって」
 「おう! 最高だな!」
 「高虎が本当に医者になってね。そうしたら一緒に……」
 「!」

 「だからね」
 「分かったよ!」

 俺の中で、奈津江の夢が膨らんでいった。
 俺も、その夢が最高だと思った。

 「京都に行こう!」
 「うん、必ずね」

 俺たちは笑い合い、でも奈津江は本当に恥ずかしそうに笑っていた。
 それが可愛らしく、忘れられない。





 そしてあの日、学食で奈津江と食事をしていた。

 「高虎、具合が悪いの?」
 「え? いや大丈夫だよ」

 奈津江が心配そうに見ていた。
 実を言えば、数日前から体調が悪い。
 身体が妙にだるく、力が抜けている感覚があった。

 「でも顔色悪いよ?」
 「大丈夫だって。ちょっとカゼでも引いたかな」
 「え! Dランドはいつでもいいからね!」
 「ああ、ありがとうな」

 笑って立ち上がり、学食を出た。
 その瞬間に目の前が真っ暗になり、体中の力が抜けた。

 「高虎ぁ!」

 奈津江が細い身体で俺を支えようとした。
 自分の肩に俺の右腕を回し、俺の重い体重を必死に耐えている。

 「高虎! しっかりして!」

 俺は返事も出来なかった。
 完全に意識を喪うまで、奈津江が半狂乱で俺を呼んでいた。

 



 意識を取り戻し、自分が病院のベッドで寝ていることに気付いた。
 しばらく状況を把握するのに時間がかかった。
 いつもの俺ではなく、思考も鈍っていた。
 夜中のことであり、ナースコールで呼び出した。
 点滴が入っていることに気付いた。
 すぐに看護師が来て、東大病院であることを知った。
 俺が知らない間にいろいろあったようだ。
 あの日、学食の前で倒れてから、1週間が経過していた。

 「今は先生がいらっしゃらないので、明日また詳しいお話を聞いて下さい」
 「分かりました。お世話になります」

 朝になると、お袋が来た。

 「高虎……」
 「ああ、お袋。来てくれたのか」
 「うん、奈津江さんが連絡してくれてね」
 「そうか。遠い所悪かったな」

 お袋は三日前に来て、俺のマンションで寝泊まりしていると言った。
 
 「身体の具合はどう?」
 「ああ、大丈夫だよ。なんだか久し振りに倒れたな」
 「お前はほんとに、もう」
 「あはははは、ごめんな」

 俺はいつもそうやってお袋に謝って来た。
 本当に申し訳ないと思っていた。

 奈津江が入って来た。
 起きている俺を見て、泣きながら抱き着いて来た。

 「おい、そんなに泣くなよ」
 「だって!」
 「大丈夫だって。悪かったな、心配させて」
 「うん! でも良かった!」
 「ああ」

 しかし、全然良くは無かった。
 眠っている間に様々な検査を受け、医者から説明を受けた。

 「原因や病名は分からない。ただ、全身の臓器の代謝が落ちていて、あまり良くない状況だ」
 「そうですか」
 「君はここの医学部の学生だね」
 「はい」
 「しばらく検査を続けながら状況を見るから」
 「分かりました」

 まだどれほどの入院になるのか分からなかった。
 お袋はしばらくこっちにいると言った。
 山口の南原家へ連絡すると、陽子さんまで来た。
 お袋が看病で大変だろうからと、気遣って来てくれたのだ。

 奈津江は毎日来て、御堂や山中、栞も二日と空けずに来てくれた。
 だが、俺はだんだん眠っていることが多く、みんなが来てくれても話せることが少なくなっていった。
 弓道部の木村や仲間たち、医学部の友人やバッカス会の連中、木下食堂の木下さん、俺のファンクラブの女子たち、大勢の人間が見舞いに来てくれ、お袋と陽子さんが驚いていた。
 親しかった教授たちも来てくれ、お袋が対応に困っていた。
 
 俺の身体はみるみる痩せて行った。
 食事が出来なくなっていた。
 胃酸の調整が滞り、吐血も始まっていた。

 ある時、気が付くと奈津江が俺の手を握っていた。
 筋肉が衰え、血管が浮き出した俺の手を、奈津江は両手で握って祈っていた。

 「なつえ……」

 乾ききった口で、ようやく名前を呼んだ。
 喉が渇いたと言うと、奈津江が水を飲ませてくれる。

 「高虎! 起きたの」
 「ああ、気持ちがよくてな」
 
 「高虎、必ず助けるから!」
 「ああ、大丈夫だよ」
 「絶対に高虎を死なせない!」
 「ああ」

 俺の意識は半分眠っていた。
 会話はしているが、反射的に言葉を出している部分もあった。
 奈津江が俺の頭を撫でた。

 奈津江への愛おしさだけで話していた。
 自分の身体のことも、他の何もかもが意識の底に沈んでいた。
 ただ、奈津江が愛おしく、今傍にいて俺の手を握ってくれていることだけが全てだった。

 「奈津江、愛している」
 「私もよ、高虎!」

 奈津江が叫び、俺はまた暗い中に沈んで行った。
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