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般若の男 Ⅳ

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 「オニオニのことだったのね!」

 響子が叫んで大泣きした。
 俺が時々連れて行っていた。
 特に「平五郎」で一緒に食事をすると、必ず帰りに寄っていた喫茶店だ。
 響子はマスターの青を気に入り「オニオニ」とニックネームで呼んでいた。
 店の名前「般若」の意味を最初に教えてから、響子は青をそう呼ぶようになった。
 青も響子を可愛がり、いつも優しく話しかけていた。

 「もう立ち退きであの店も無くなってしまったけどな」

 六花も響子の頭を抱き寄せて泣いている。
 六花ともよく行った。
 鷹ともだ。
 栞とも行った。

 「全然知らなかったよー! タカトラのことを尊敬してて、優しい人だったぁー!」
 「そうだな」

 虎ノ門にマッカーサー道路が通るにあたり、「般若」も無くなった。

 「俺が響子のことを一番大事な女だと言ったんだ。そうしたら青が響子のことを可愛がってくれたよな」
 「うん! 一杯可愛がってもらった!」
 「いつもな、響子はどうだって聞くんだよ。あいつ、響子の手術のことまで調べて知っててな。お前が元気になっていくのを見て、いつも嬉しそうだった」
 「そうだったの!」

 六花が聞いた。

 「今どうしていらっしゃるんですか?」
 「旅に出ると言っていた。今はどこにいるのかなぁ」
 「そうなんですか」

 六花がハンカチで目を覆っていた。
 
 「あいつ、俺が誰かを連れて行くと、丁寧語で俺に話してな。いつも俺のことを「石神先生」って呼んで上にしてたよ。でも、俺が独りで行くと普通に喋ってて。いつもそうしろと言ったんだけど、あいつは変えなかった」
 「そうなんですか」

 亜紀ちゃんたちも、「紅六花」の連中も泣きそうな顔になっていた。

 「明穂さんが亡くなってからも、ずっとあそこで暮らしていた。喫茶店も続けててな。響子も誰も、明穂さんとは会ってないよな」
 「会いたかったよー!」
 「うん。本当に幸せそうに暮らしていた。たった2年も一緒に暮らせなかったけどよ。最高に幸せだったんだろうよ」
 
 だからその後もずっとあそこで暮らしていた。
 響子がまた泣いた。

 「俺が行くと、いつもアイスだのケーキだのってサービスしやがってなぁ。俺もたまにフルーツだの菓子だのって持って行くと、二人で喜んで。すぐにフルーツを切るとか言うんで、いつも慌てて帰ったぜ」
 「明穂さんは目が見えなくてもお店を手伝っていたんですね」
 
 亜紀ちゃんが聞いた。

 「ああ、コーヒーを淹れるのはほとんど青で、運ぶのは明穂さんだった。料理なんかもやっていたな。店の中は自由自在に歩けたんだ。相当練習したんだろう」
 「そうですか……」

 「明穂さんはうちの病院に入院したけど、栞もほとんど知らないよ。鷹も六花も響子もうちに来る前だしな。院長はちょっと話したけどなぁ」
 「青さんは毎日来ていたんですね」
 「ああ。喫茶店は独りでやって、店を所々で閉めて来てたよ。病室でも、あの二人は美しかった。あんなに愛情を通わせた夫婦は俺もほとんど知らないよ。明穂さんが死ぬまで、ずっと二人は仲睦まじく過ごしていた」

 みんな黙って聞いていた。

 「明穂さんが亡くなって、俺は青はあの店を閉じると思っていたんだ」
 「もう続ける意味はないですよね?」
 「そうだ。でも、青は違った。明穂さんとの思い出の店を閉めたくなかったんだな。一人で辛い思いもあったんだろうけど、それでも二人の思い出を消したくはなかった」
 「でも、立ち退きで……」

 「ああ。青は最初は絶対に立ち退かないと言っていたんだけど。まあ、強制退去を執行されればなぁ。その前に俺が説得して立ち退いた」

 響子が叫んだ。

 「私! 最後にオニオニからカップを貰った!」
 「そうだったな」
 「私も頂きました!」
 「ああ。店に通ってくれた常連に渡したんだよな。俺も貰ったよ」
 
 「蔦の絡まった、素敵なお店でしたよね」
 「夜にあそこを通りかかると、よく二人で外に出ていた。一緒に壁の蔦を触っていたよ。あいつらも気に入っていたんだよな」
 「そうだったんですか」
 
 一度二階に上がったことがある。
 立ち退きのために、荷物の整理を少し手伝った。
 狭い木の階段を上がると、上は8畳の一間と3畳の一間。
 それに風呂とトイレ。
 それだけだった。
 キッチンは店のものを使っていたのだろう。
 大した家具も無かった。
 ヤクザ時代に相当稼いでいい服も多かっただろう青は、ほとんど服を持っていなかった。
 明穂さんには結構買っていて、その服が遺されていた。

 「あいつ、化粧なんか覚えてな。病院でもいつも明穂さんに化粧をしてやっていた。髪も梳かしてやってな。明穂さんが亡くなった時も、うちでやろうとしたら、青が明穂さんに丁寧に化粧をしてやった。微笑みながら、「綺麗だ」って言いながらなぁ」

 また響子が泣く。

 「オニオニ、帰って来ないかな」
 「そうだな」




 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■




 「おい、ここを出て行ったらお前はどうすんだよ?」
 「ああ、しばらく旅に出ようと思ってる」
 「旅?」

 青が俺に微笑んだ。

 「明穂は中学から病気だったそうだ。だからろくに旅行も出掛けたことが無かったんだよ」
 「ああ、そうか」
 「俺もな、組の行事で熱海とかしか行ったことがねぇんだけどな」
 「そうか」

 「だからこれから世界中を回って見ようと思うんだ」
 「いいな」

 明穂さんの小さな遺影と遺髪がタンスの上にあった。
 それを持って行くのだろう。

 「最初はどこに行くんだ?」
 「ヨーロッパかな。静かで綺麗な場所がいいと思うんだよ」
 「そうか、それはいいな」
 「そうだろう?」

 俺は残したいものがあれば俺が預かると言った。
 でも青は遺影と遺髪だけあればいいと言った。
 俺は無理に明穂さんの服などを預かった。
 他にも二人の思い出が籠もっていそうな、喫茶店の道具なども預かると言った。

 「悪いな。赤虎には本当に世話になった」
 「よせよ。俺はお前らの最高の姿を見せてもらったからな。その礼だよ」
 「ありがとうな」

 俺は本当にそう思っている。
 こんなに美しい男女を俺は知らない。

 後日引き取りに来ると言い、俺は店を出た。

 「おい、青」
 「ああ」
 「お前、絶対に帰って来いよな」
 「!」

 青が目を見開いて俺を見ていた。

 「明穂さんは日本が一番いいんだよ。外国も楽しく見て回って来い。でも、また日本に戻って来いよな」
 「そうか。そうだな」
 「戻って来たらよ」
 「おう」
 「今度はボッタクリの喫茶店をやれよ」
 「ワハハハハハハ!」

 「な!」
 「はい!」

 青が笑った。
 
 


 青は翌日に旅立った。
 今、あいつがどこにいるのかは知らない。
 きっと、二人でいろいろ見て回っているのだろう。
 きっと、二人で楽しく笑い合っているのだろう。

 いつの日か、あいつは戻り、また笑って欲しい。
 どうか、俺にその笑顔を見せて欲しい。 
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