富豪外科医は、モテモテだが結婚しない?

青夜

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CD録音 Ⅲ

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 昼食後、夕方まで掛かって、まだ録音は終わらなかった。

 「トラ、まだ大丈夫よね?」
 「つかれたよー」
 「うるさい!」

 正直に答えて頭ごなしに怒られた。
 じゃあ、なんで聞いたんだよ。
 しかし、本当に俺も疲れていた。
 あの世界最高のピアニストの一人、橘弥生の前でギターを弾くのだ。
 しかも、俺がこの世で恐れるトップ5の一人だ。
 一瞬たちとも気を抜く瞬間が無かった。
 怖くて俺が何も言わないので、最初は休憩すら取ってもらえなかった。
 橘弥生は真剣に俺の演奏を聴き、満足そうな顔をしているだけだった。
 その顔を変える勇気は俺には無かった。
 やっと徳川さんが気を遣って、休憩が必要ではないかと俺に聞いてくれた。

 「欲しいですー!」

 俺が叫ぶと、やっと橘弥生が気付き、もっと早く言えとまた怒られた。

 「あなた! 最高の演奏をする気がないでしょう!」
 「そんなことないですよ!」

 本当にそんな恐ろしいことは考えていない。
 橘弥生は俺にとって自分がどんなにコワイ存在なのか分かっていない。

 それから逆に、演奏が終わるたびに休憩が必要かと尋ねられ、おっかない顔なのでやっぱりなかなか欲しいと言えなかった。
 流石にヘトヘトになって、俺が「きゅーけー!」と言った。
 俺も限界だった。
 これ以上は演奏に支障を来す。
 夜の八時になっており、俺たちは一旦食事にすることにした。
 俺の演奏はあと2曲で、オリジナル曲『御堂』(仮称)と同じくオリジナル曲『聖』(仮称)だけになった。
 残りは橘弥生とのセッションだった。
 ご高齢の徳川さんもまだいる。
 もう80代の後半だったはずだ。
 既に12時間近く俺に付き合って下さっている。

 「徳川さん、お疲れじゃないですか?」
 「いい音楽を聴いていれば、いつまでも大丈夫よ?」
 「アハハハハハ」

 笑うしかねぇ。
 でも本当に元気そうなので、自由にしていただくことにした。
 橘弥生から、夕飯はまた俺の希望を聞かれた。

 「牛丼屋で食べたいです」
 「トラ、ふざけないで」

 超真面目な橘弥生が俺を物凄くコワイ顔で睨む。
 冗談の通じる人間ではない。
 俺は橘弥生にご馳走になることがものすごいストレスなのだと話した。

 「私のことは気にしないでいいわ」
 「気になっちゃうんですよ!」
 「とうして?」
 「ものすごく食べるから、こいつが」

 亜紀ちゃんを見た。

 「私ですか!」
 「そうだろうよ!」

 昼も寿司を散々喰った。
 まあ、本気はあんなものじゃないが。
 でも、他人から比較すれば十分以上に大食いだ。
 付き添いの分際で、あんなに喰う奴はいない。

 「わ、わたしもうご飯はいりませんから!」
 「いや、亜紀ちゃんはそろそろ帰れよ」

 超大食いの亜紀ちゃんがいないのならば、食事もいい。

 「ヂャガザーン!」

 いきなり大泣きしやがった。
 なんでだよ!
 あまりにも勢いよく泣くので、周囲の人間が驚く。

 「トラ、かわいそうなことを言うものじゃないわ!」
 「あのですね!」
 「石神さん、一緒にいさせてあげて」

 徳川さんまで慌てて俺に言う。
 優しい人で、亜紀ちゃんの肩を撫でている。
 亜紀ちゃんは大粒の涙をどんどん零しながら拭いもしない。
 俺を見ている。

 「ヂャガザン。ヴォデガイジバズー」
 「分かったよ! 俺が悪かったよ!」
 「バダジ、ボウダベバゼンガラー!」
 
 俺は橘弥生に頼んだ。

 「あの、俺に支払いさせて下さい。そうじゃないとこいつも好きに食べられないんで」
 「分かったわ。あなたの好きなようにして」

 狙ったわけではないのだが、結果的に亜紀ちゃんの大泣きによって橘弥生が折れてくれた。
 良かった。
 俺はスタッフの人たちにレストランを聞いて、近くにあるイタリアンに向かった。

 徳川さんと橘弥生にメニューを決めてもらい、俺と亜紀ちゃんはコースを頼んだ。
 亜紀ちゃんは3人前。
 別途亜紀ちゃん用にステーキを10キロ。
 流石に二人が驚いた。

 「あなたたち、そんなに食べるの?」
 「俺じゃないですよ。こいつだけです」
 「「!」」

 料理が来て、本当に亜紀ちゃんがバクバク喰うので二人とも呆然としていた。

 「おい、追加しようか?」
 「タカさーん! そんな、もういいですよ!」
 「いや、さっきは悪かったよ。もっと食べてくれ」
 「はい! ありがとうございます!」
 
 亜紀ちゃんにもう5キロ喰わせた。
 俺もア・ラ・カルトで何品か頼み、会計は58万だった。
 とても他人様には出させられない。

 「亜紀ちゃん、満足か?」
 「はい!」

 俺に手を絡めて甘えてきた。
 
 「あともう一息頑張りましょうね!」
 「おう!」

 後ろで二人が笑っていた。





 俺だけの演奏曲目が終わり、一旦休憩に入った。
 夜の11時過ぎになっていた。

 誰も疲れた顔を見せない。
 技師たちは大変だったと思うが、恐ろしいほどの集中力はずっと続いていた。
 俺は偉大なプロたちのお世話になっていることを、改めて痛感した。
 やはり橘弥生が揃える人間は違う。

 スタッフの一人がコーヒーを持ってきて、亜紀ちゃんが手伝って配る。
 橘弥生がいない。

 「弥生ちゃんはね、今集中しているの」
 
 徳川さんもまったく疲れた様子はなく、俺に説明してくれた。

 「私、今日はね、この後の演奏を聴きたくてずっと我慢していたの」
 「我慢ですか?」
 「そう。本当は最初にやってって言いたかったの」
 「アハハハハハ!」
 「でも、今がいい。この時にやるのがいい。それは分かっていたの。だから我慢してたのよ?」
 「そうなんですか」

 まるで少女のように悪戯っぽく笑う徳川さんに、俺も微笑んだ。
 そして、橘弥生の鬼のような波動が、ここにいても感じられた。
 先ほどまでニコニコしていた亜紀ちゃんも、緊張している。

 俺は瞼を閉じて、その時を待った。
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