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橘弥生の強襲 Ⅲ

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 俺は亜紀ちゃんにコーヒーを持って来るように言った。
 チョコレートをどうしようかと思ったが、徳川さんは上で結構召し上がっていたので言わなかった。

 亜紀ちゃんがコーヒーとチョコレートを持って来た。

 「……」

 徳川さんが嬉しそうにまた食べる。

 「トラ、CDのことは承知してくれるわね」

 橘弥生が俺を見て言った。

 「結構忙しいんですけどね」

 まだ俺を見ている。
 橘弥生こそ、俺以上に忙しい人間のはずだ。
 フランスのアビニョンが生活拠点で、世界中に一年中演奏旅行へ行っている。
 今日本にいるのは、恐らくは俺の説得のためだろう。
 桜花たちと出会ったのは本当に偶然で、最初から俺の家に乗り込むつもりだったに違いない。
 門土の墓参りはしたかったのだろうが。
 でも、桜花たちとの不思議な巡り合わせで、その決意を一層固めたことも確かだ。
 毎日8時間は練習をする人間だ。
 こうして俺の家なんかに来る時間も惜しまれる人だった。
 それでも、こうして来ている。

 「前にも話したけどね。私は間違っていた」
 「弥生ちゃん」

 徳川さんが橘弥生の手を握った。

 「トラの音楽は最高だった。もちろん、あの当時はまだまだだったけど。でも、門土も一緒にいれば、必ずあの子の音楽性も飛躍すると思った」
 「楽しかったですよ、門土と一緒にいるのは」
 「そうね。私も門土が見る見る変わっていくのが分かった。トラのお陰だった」
 「そんなことは。門土はいつも橘さんを見ていましたよ」
 
 橘弥生がコーヒーを飲んだ。
 美味しいと言ってくれた。

 「サイヘーさんにね、一度お会いしたの。あの人も、一日中ギターを弾いている人だった。どうして弟子を取ったのか聞いてみたくてね」
 「そうだったんですか」
 「あなたに惚れたと言っていたわ」
 「!」
 「自分がずっと追い求めていたことを、あなたが一瞬で見抜いたからって。それでね、あなたを呼んだ。サイヘーさんは、あなたが人間とは思えなかったらしいわ」
 「え?」
 「「音楽が動いている」って言っていた。羨ましいわ」
 「そんな……」

 橘弥生がカップを置いた。

 「そう聞いていたのに。どうして私は門土とあなたを離してしまったのかしら」
 「俺が音楽家になるつもりが無かったからですよ! 橘さんは正しい選択をしたんだ!」
 「違うわ、トラ。あなたにとって、プロになるかどうかは関係なかった。ずっと門土の傍に置いてやれば、あの子はもっと。それに、あの子の運命だって……」

 「そんなことはありません! 俺と離れたから門土はあれほどの立派なピアニストになったんですって! 毎日音楽に自分を捧げ、一生懸命に橘さんを追い掛けようとしていた! あいつも俺にちゃんとそう言ってましたって!」

 橘弥生が俺を見詰めていた。

 「違う、トラ。私は間違ったのよ。あなたは音楽の申し子。そのあなたと縁を切らせたのは私」
 「違いますって!」

 俺の言葉は橘弥生には届かなかった。
 最愛の人間を喪った者に、言葉は無駄だった。

 「もう間違わない。あなたをもう私は喪わないわ」
 「何言ってるんですか」
 「私の一生で、トラの音楽を遺すの。人類の宝物だから」
 「ちょ、ちょっと!」

 そんなことを言われてはたまらない。
 世界最高のピアニストの橘弥生が、そんなことを言っていいわけがない。
 俺はそんな人間じゃない。

 「さっき聴いた曲も良かった。でも、トラ」
 「何ですか!」
 「あなたの音楽も出しなさい」
 「へ?」

 予想外の言葉に、俺は驚いた。

 「前のCDにも入れたわね。あなたのオリジナル曲も、次のCDにもっと入れなさい。二枚組でも三枚組でも、必要なことは私がやるわ」
 「な、何言ってんですかぁー!」

 冗談じゃない。
 前回はたまたま手元にあったから、ヤケクソで入れただけだ。
 ド素人の俺がオリジナル曲などとんでもない。
 亜紀ちゃんが満面の笑みで俺を見ていた。

 「タカさんはですね! よく即興曲を創るんですよ!」
 「そうなの。それは楽しみね」

 ♪亜紀ちゃんは~ ちょっと大食いだけど、愛してるぜ~♪

 亜紀ちゃんが俺が冗談で創った『亜紀ちゃん大好きソング』を歌った。

 「バカ!」

 徳川さんが大笑いしていた。

 「それはちょっと酷いわね」
 「エェー!」

 亜紀ちゃんがショックを受けていた。
 『かまきりパッション』もあると亜紀ちゃんが言ったので、頭をはたいてやめさせた。
 本当に恐れを知らない娘だ。

 「トラ、10曲程作っておいて」
 「エェ!」
 「1か月後、スタジオを押さえるから」
 「ちょ、ちょっと!」
 「今日やった曲は全部入れるから」
 「やですよー!」
 「テイクは幾つか録るからね。私も当然行くわね」
 「たちばなさーん!」

 「私もお邪魔しようかしら」

 徳川さんが笑顔で言った。

 「宜しければ是非!」
 
 橘弥生が喜んで言った。

 「練習しておくように、言う必要はないわね。あなたは言われなくても毎日弾いているみたいだし」
 「橘さんじゃないんですから、その気になった時だけですよ!」
 「そうね、あなたは常に音楽が一緒だものね」
 「そういうことじゃないんですってぇ!」

 亜紀ちゃんが拍手していた。
 亜紀ちゃんを睨む。

 「私も行きますからね!」
 「いらねぇよ!」
 「なにおぉー!」

 頭を引っぱたく。

 「トラ、いいわね」
 「もう!」

 ここまでとなれば、俺も断れない。
 まあ、桜花たちから話を聞いてしまった時から、覚悟はあったが。
 それでも、抵抗しないわけには行かなかったが。

 「分かりましたよ! でも、俺のギターなんて本当に大したものじゃないんですからね」

 橘弥生が俺の頭を引っぱたいた。

 「そんなことを言うのは許さない! 徳川先生が認め、サイヘーさんが認め、この私も認めたあなたなの! 絶対に否定しないで!」
 「えー、俺のことなんですけどー」

 また引っぱたかれた。
 ピアニストの命の手でやられたのだ。

 「もう分かりましたよ!」

 俺も言うしか無かった。
 そして、無駄と思いつつお二人に話した。

 「良かったら、うちで夕食を如何ですか? もう4時半です。あの、もしも宜しかったらですけど?」

 忙しい人間たちだ。
 断られるとは思ったが、ここまでしてくれてこのまま帰すのは気が退けた。

 「そうね。徳川先生、如何ですか?」
 「あら、素敵ね! 是非ご馳走になりましょう」
 「へ?」
 「じゃあ、トラ。お願いするわ」
 「は、はい!」

 俺は慌てて亜紀ちゃんを連れて上に上がった。

 「おい! 今食材は何がある!」
 「えーと、お肉は!」

 咄嗟のことで、亜紀ちゃんも流石に動揺している。
 
 「フレンチを作るか!」
 「え、でも、タカさんはお二人のお相手をお願いしますよ!」
 「そ、そっか! でも、お前たちでどうするかな」
 「すき焼きのいいお肉がありますよ!」
 「仕方ねぇ。じゃあすき焼きにするか」
 「はい!」
 「鷹に仕切ってもらえ!」
 「はい!」
 「あ、ああ! 外の運転手もリヴィングへご案内しろ! お茶も出してな!」
 「はい!」

 幾つか急いで指示して、俺は地下室へ戻り、リクエストのままレコードを聴いて頂いた。





 今日だけはと思ったが、やはり子どもたちが「大喰い」で鍋を争った。
 徳川先生は大笑いし、橘弥生は物凄い顔で俺を睨んでいた。
 しかし、そのうちに一緒に笑い、俺を下品な男とまた言った。

 「もっと上品に喰え!」

 子どもたちの日本舞踊を見て、二人が爆笑した。

 



 「あの、今日はピアノのレッスンは良かったんですか?」

 気になっていたので、橘弥生に聞いた。
 一日も欠かすわけのない人だからだ。

 「いいのよ。帰ってからやるし。それにね、もう私のピークは過ぎているから」
 「何言ってるんですか!」
 
 橘弥生が悲しそうに笑った。
 まだ、60代の後半のはずだった。

 「毎日弾いているとね。自分の衰えを痛感するの。これは仕方が無いわね」
 「おし!」

 俺はリヴィングの戸棚から出したものを橘弥生の前に置いた。

 「これは何?」
 「俺は医者ですからね。漢方のいいものを持っているんですよ」
 「お薬なんていらないわ」
 「漢方薬の最高のものは「食事」なんですよ。最も良い食事のことなんです」
 「これが?」
 「はい!」

 「Ω」と「オロチ」の粉末だ。
 亜紀ちゃんに、温い白湯を用意させた。
 橘弥生が俺を不安そうに見ながらも、飲んでくれた。

 「!」

 効いたようだ。
 俺は徳川先生にも出した。

 「!」

 「飲み続ける必要はありません。今回で十分です」
 「トラ! これは何なの!」
 「効果はすぐに分かりますよ。あと100年くらいは大丈夫です」
 「あなた!」

 徳川先生も驚いていた。
 実感があるのだろう。

 「生命力を高める「食事」です。俺も飲んでいますから、副作用などはありません」

 橘弥生が立ち上がった。

 「徳川先生、すぐに帰りたいのですが」
 「分かったわ、弥生ちゃん」
 「すぐにピアノが弾きたいんです」
 「ええ」

 「地下にもありますけど?」
 「あんなものじゃダメよ!」
 「酷いなー」

 徳川先生が笑った。
 まあ、国産メーカーのアップライトだが。

 食後のお茶を飲み、お二人は急いで帰られた。
 亜紀ちゃんが俺と一緒に見送った。




 「タカさん! 良かったですね!」
 「まーなー」
 
 俺の腕を取り、早くお風呂に入ろうと言った。

 「みんなで虎温泉に入るか!」
 「最高です!」

 亜紀ちゃんが走って用意に向かった。

 「皇紀! すぐに虎温泉を用意してぇー!」
 「分かったー!」
 「あんたは入れないけどね!」
 「アハハハハハ!」

 世界最高峰のピアニストが「ピークが過ぎた」と言っていた。
 そんなことを、俺が許せるわけがない。
 門土が憧れ、最期まで追い掛けていた人だ。
 俺に無理矢理ギターを弾かせるのならば、俺だってだ。

 「門土、まだまだ走ってもらわないとだよな」

 門土の笑顔を思い出した。
 門土が嬉しそうに笑っていた。
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