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石神さんから手紙が来た。
兄のための個展を開いて下さるそうだ。
本当に石神さんには感謝しかない。
生前の兄を支えて下さり、また兄の死に際して兄の絵を高額で買い求めて下さり、それを私に与えて下さった。
そのお陰で足の不自由な私は暮らしていけるようになり、今もこうして生きていられる。
《速水郁子様
お兄様の速水健二様が亡くなられ、早いものでもう七回忌ですね。
彼は大変な才能の画家でしたが、その命を燃やし、偉大で遠大な道を突き進み続けました。
私は今もお兄様の画を観る度に、その思いを強くする次第です。
その思いの強さに衝き動かされ、速水健二氏の個展を開催する運びとなりましたことをご案内いたします。
出来るだけの速水氏の絵を集め、彼の画業を少しでも多くの人間に知って欲しいと願っております。
貴女にも是非ともお運び頂きたく、筆を認めました。
ご都合の宜しい日時をお教え頂ければ、ご自宅までお迎えに参らせて頂きます。
何卒……》
石神さんの連絡先と、私の生活を心配する内容も記されていた。
困ったことがあれば、いつでも連絡して欲しいとも書いてあり、私は手紙に深く頭を下げた。
私は今、川崎市に住んでおり、友人の店でアクセサリーの製作を手伝わせてもらって暮らしている。
十分な暮らしが出来るのは、石神さんから頂いた大金のお陰だ。
画廊の方から伺ったことだが、石神さんは兄の死を知り、兄の絵を自分で値段を付けられて購入されたそうだ。
絶筆は兄が石神さんに捧げると言っていた。
それも石神さんが高額の値段を付けて買われたそうだ。
「ずっとお兄様を支えておられ、お兄様も石神さんに心酔されていたんですよ」
そう画廊の方がおっしゃっていた。
知っている。
両親とも早くに亡くした私たちは、たった二人の肉親同士だったからだ。
車の事故で両親が亡くなり、一緒に乗っていた私は両足を失った。
両親の保険金で暮らしていた私たちだったが、兄は絵の道に進み、東京藝術大学に入った。
ある年の4月。
兄が興奮して帰って来た。
「郁子! 今日は素晴らしい人に会ったんだ!」
遅い夕飯を食べながら、兄が私に上野の花見の場所で、石神高虎と御堂正嗣という二人に会ったと話してくれた。
特に石神さんのお話だった。
「石神さんはね、僕の「青の世界」を分かってくれたんだ!」
「そうなの! 良かったね、兄さん!」
「ああ! まさか他人に僕のやろうとしていることが分かるなんて! 僕は嬉しいよ! 僕はやっぱりこの「青の世界」を追い掛けて行く。今日、はっきりと決めた!」
「うん! 頑張ってね!」
その日はずっと何度も石神さんの話をしていた。
背が高く、信じられないくらい美しい顔をしていたと言っていた。
そして強い。
「ヤクザの人たちだったんだ。僕をみんなで囲んで暴力を振るって。でもね、石神さんが突然やって来て一人を殴ってさ! それで連中を睨んだら、みんなたちまち怯んでね!」
「すごい人ね!」
「そうなんだよ。あんなに強い人はいないよ! それにあの強さが美しいんだ!」
「美しいの?」
「ああ! 言葉にならないけど、人間が逆らえない強さで美しさなんだ」
私は思わず笑った。
美しく喧嘩をするなんて、想像も出来なかった。
笑う私を見て、兄も優しく微笑んで私の頭に手を置いた。
「僕はね、石神さんの中に「青の世界」が見えたんだ」
「え?」
「あの人がこの「赤の世界」を「青の世界」に変える。そんなことが見えたんだよ」
「そうなんだ」
全然分からなかった。
でも、大好きな兄がとても喜んでいたのは分かって、私も嬉しかった。
兄はずっと、青い絵を描いて行った。
他の色は殆どない。
青、黒、グレー、白、時折少しの他の色。
兄の「青の世界」の絵は少しずつ認められていった。
ある時、仲間の若い画家たちと一緒に、三越で展示会が開かれた。
新進気鋭の作家と銘打たれた展示で、その一人に選ばれた兄も喜んだ。
しかし、もっと大きな喜びがあった。
兄は3点の絵を出品した。
「郁子!」
その日の夕方、兄が大興奮で帰って来た。
夕飯を待っていた私を抱き締めて泣いていた。
「兄さん! どうしたの!」
「石神さんだ!」
「え?」
「石神さんが来てくれた! 僕の『青の虎』を購入してくれたんだ!」
「まあ!」
石神さんのことは覚えていた。
あの花見の日からずっと、兄はよく石神さんの話をしていたからだ。
同じ話の繰り返しだったが、兄は毎回嬉しそうに話していた。
まさか、その石神さんと再会出来たとは、私も驚いた。
兄を宥めて、一緒に夕飯を食べながら兄から話を聞いた。
「大きなデパートでの展示会だったから、『藝術新潮』にも乗ったんだ。石神さんはそれで僕の出品を知ってくれたらしいよ!」
「そうなの! 良かったね、兄さん!」
「本当に嬉しい! 何よりも、石神さんが僕のことを覚えてくれていたのがね!」
兄はそれ以上に、石神さんが『青の虎』を買ってくれたことが嬉しかったらしい。
兄が、その絵を石神さんを思って描いたことを恥ずかしそうに話してくれた。
「僕なんかがね、石神さんを描けるはずもないんだけどね」
「そんなこと! 頑張って!」
「うん。石神さんも応援してくれた。僕はやるよ」
「そうよ!」
楽しい食事だった。
ずっと苦しんでいた兄が、あんなに笑っていたのは久しぶりだった。
石神さんは東京の港区の大病院に勤めていると話してくれた。
名刺と連絡先をもらい、これから兄が絵を展示する時には教えて欲しいと言われたそうだ。
兄が幸せそうだった。
石神さんの名刺を、兄が自分で額を作って納めた。
毎日それを見て、嬉しそうに笑っていた。
それから兄は銀座の画廊と縁が出来て、そこで絵が売れるようになっていった。
その画廊は、石神さんから紹介されたらしい。
「二代目の画廊主でね。だからガツガツしてないんだ。速水の絵を見せたらとても興味を持ってくれた」
そう石神さんから言われ、兄は涙を流して喜んでいた。
画廊が付いてくれたことも嬉しかったようだが、それ以上に石神さんが自分のためにやってくれたということが嬉しかったのだろう。
それからそのN画廊で兄の絵が扱われるようになっていった。
少しずつ売れ始め、石神さんもよく購入してくれていたようだ。
毎回兄が大喜びで帰るので、私もそれを知っていた。
一度兄が石神さんの別荘に誘われたことがあった。
別荘で大きな作品を描いて欲しいということだった。
兄はもちろん喜んで引き受けて出掛けて行った。
食事や画材、その他の生活に必要なものは全て石神さんが用意するということだった。
何か月掛かってもいいと言われていた。
私には何となく分かっていた。
兄はその当時随分と悩んでいたからだ。
兄の絵は売れ始めたが、いつも青い絵ばかり描く兄は、徐々に飽きられていた。
そのことで兄は、自分のやろうとしていることが正しいのかどうか迷い始めていた。
特に私のことだ。
私の収入では生活にはおぼつかず、兄の絵が売れれば多少は楽になる。
両親の保険金は、もう尽きかけていた。
石神さんは兄のいない間の生活費だと、私の分も出して下さった。
兄は本当に感謝していた。
二ヶ月程で、兄が帰って来た。
心配していたが、兄の顔を見て安心した。
また兄は幸せそうに笑っていたからだ。
兄は石神さんの別荘の素晴らしさを語ってくれた。
「屋上にね、ガラスの空間があるんだよ!」
「へぇー!」
兄が石神さんに断って撮ったという写真を後で見せてくれた。
素敵な空間だった。
四方に伸びるガラスの通路。
中央にある、小さな空間。
全てガラス張りで、私もそこへ行きたくなった。
兄は他には詳しい話はしなかった。
でも、悩んでいた兄がまた「青の世界」を夢中で描くようになった。
私は兄の表情を見て、また石神さんが兄のために何かをしてくれたことが分かった。
石神さんから、絵画教室の講師を紹介された。
収入面でも安定するようになり、私たちはまた石神さんに深い感謝を捧げた。
兄は数年後にすい臓がんを患った。
余命宣告を受け、それから一心不乱に一枚の絵を描いた。
『青の虎』
前に石神さんをイメージして描いた絵と同じ題名だった。
だから、私にもまた石神さんを描こうとしていることは分かった。
描き終えて、兄は睡眠薬を大量に飲んで死んだ。
もうこの世でやるべきことを全てやったということだったのだろう。
満足そうな顔で眠っていた。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
「速水さん! お迎えに来ましたよ!」
両親の遺してくれた家に、石神さんが迎えに来てくれた。
驚いた。
とても長い車で、特注のリムジン車で、10人が乗れるのだと言われた。
わざわざ、その車で私を迎えに来て下さった。
石神さんのお子さんだと言う、可愛らしい双子の女の子と一緒だった。
ルーさんとハーさん。
二人とも、兄の絵が大好きなのだと言ってくれた。
「私たちがね、タカさんの寝室のリャドの絵を壊しちゃったの」
「それからいろいろタカさんが悩んでね。速水健二さんの絵を掛けたら、ぴったりだったの!」
「後から同じリャドの絵をもらったんだけどね!」
「今でも速水健二さんの絵なんだよ!」
石神さんが、親友の子どもたちを引き取ったのだと説明してくれた。
そして、リャドの絵を二人が悪戯で壊した後で家出した話をしてくれた。
車の中で爆笑した。
「あの後で、ジャコメッティの像も壊しやがって」
「「エヘヘヘヘヘ!」」
「笑い事じゃねぇ!」
楽しく話しながら、都内の大きな展示スペースに連れて来て頂いた。
石神さんが自ら、私の車椅子を押して下さった。
ゆっくりと、60点ほど展示された絵の前を説明しながら回って下さる。
年代順に掛けられているようで、私も兄と過ごした時間を思い出して行くことが出来た。
石神さんの所蔵品が一番多かった。
20点ほどか。
他の半分以上は「売約済み」の札が貼ってあった。
残りは美術館で、数点が個人蔵だった。
「俺が売ってもらえるものは全部買いましたよ」
「え!」
「画廊が持っていたものがほとんどで。後日、速水さんに代金が引き渡されますので」
「そんな! 私なんて今更!」
「しょうがないですよ。画廊がそういう契約で預かっていたんですからね」
石神さんが大笑いしながら話していた。
「大分吹っ掛けられましてね」
「石神さん! どうか、私のことなんて!」
「画廊っていうのはガメツイですね」
私の言葉が聞こえないように、石神さんは笑って話された。
多くの作品は私も知っている。
一枚だけ、私の知らない作品があった。
300号の西洋の騎士の絵で、それは石神さんの別荘から運んで来たのだと言われた。
絶筆となった『青の虎』は、一番最後の小部屋に一点だけ掛けられていた。
小部屋にはベッドが置かれ、淡いブルーの光が満ちていた。
「実は俺の寝室に掛けてあるものですから。速水さんに、その状態を観て欲しくて、こういう空間にしたんです」
石神さんの寝室は、アズールバイアという青の大理石のお部屋なのだと伺った。
兄の絵がとても喜んでいるように見えた。
後日、本当に幾つかの画廊から入金があった。
全部で20億円ほどになっていた。
驚いて石神さんにお金を返そうとすると、笑って断られた。
「速水はお金なんて考えなかった奴ですけどね。でも、換算すれば、このくらいにはなったんですよ」
「石神さん……」
その夜、久し振りに兄の夢を見た。
兄はずっと笑顔で私に語り掛けてくれていた。
また石神さんのことばかりだった。
兄のための個展を開いて下さるそうだ。
本当に石神さんには感謝しかない。
生前の兄を支えて下さり、また兄の死に際して兄の絵を高額で買い求めて下さり、それを私に与えて下さった。
そのお陰で足の不自由な私は暮らしていけるようになり、今もこうして生きていられる。
《速水郁子様
お兄様の速水健二様が亡くなられ、早いものでもう七回忌ですね。
彼は大変な才能の画家でしたが、その命を燃やし、偉大で遠大な道を突き進み続けました。
私は今もお兄様の画を観る度に、その思いを強くする次第です。
その思いの強さに衝き動かされ、速水健二氏の個展を開催する運びとなりましたことをご案内いたします。
出来るだけの速水氏の絵を集め、彼の画業を少しでも多くの人間に知って欲しいと願っております。
貴女にも是非ともお運び頂きたく、筆を認めました。
ご都合の宜しい日時をお教え頂ければ、ご自宅までお迎えに参らせて頂きます。
何卒……》
石神さんの連絡先と、私の生活を心配する内容も記されていた。
困ったことがあれば、いつでも連絡して欲しいとも書いてあり、私は手紙に深く頭を下げた。
私は今、川崎市に住んでおり、友人の店でアクセサリーの製作を手伝わせてもらって暮らしている。
十分な暮らしが出来るのは、石神さんから頂いた大金のお陰だ。
画廊の方から伺ったことだが、石神さんは兄の死を知り、兄の絵を自分で値段を付けられて購入されたそうだ。
絶筆は兄が石神さんに捧げると言っていた。
それも石神さんが高額の値段を付けて買われたそうだ。
「ずっとお兄様を支えておられ、お兄様も石神さんに心酔されていたんですよ」
そう画廊の方がおっしゃっていた。
知っている。
両親とも早くに亡くした私たちは、たった二人の肉親同士だったからだ。
車の事故で両親が亡くなり、一緒に乗っていた私は両足を失った。
両親の保険金で暮らしていた私たちだったが、兄は絵の道に進み、東京藝術大学に入った。
ある年の4月。
兄が興奮して帰って来た。
「郁子! 今日は素晴らしい人に会ったんだ!」
遅い夕飯を食べながら、兄が私に上野の花見の場所で、石神高虎と御堂正嗣という二人に会ったと話してくれた。
特に石神さんのお話だった。
「石神さんはね、僕の「青の世界」を分かってくれたんだ!」
「そうなの! 良かったね、兄さん!」
「ああ! まさか他人に僕のやろうとしていることが分かるなんて! 僕は嬉しいよ! 僕はやっぱりこの「青の世界」を追い掛けて行く。今日、はっきりと決めた!」
「うん! 頑張ってね!」
その日はずっと何度も石神さんの話をしていた。
背が高く、信じられないくらい美しい顔をしていたと言っていた。
そして強い。
「ヤクザの人たちだったんだ。僕をみんなで囲んで暴力を振るって。でもね、石神さんが突然やって来て一人を殴ってさ! それで連中を睨んだら、みんなたちまち怯んでね!」
「すごい人ね!」
「そうなんだよ。あんなに強い人はいないよ! それにあの強さが美しいんだ!」
「美しいの?」
「ああ! 言葉にならないけど、人間が逆らえない強さで美しさなんだ」
私は思わず笑った。
美しく喧嘩をするなんて、想像も出来なかった。
笑う私を見て、兄も優しく微笑んで私の頭に手を置いた。
「僕はね、石神さんの中に「青の世界」が見えたんだ」
「え?」
「あの人がこの「赤の世界」を「青の世界」に変える。そんなことが見えたんだよ」
「そうなんだ」
全然分からなかった。
でも、大好きな兄がとても喜んでいたのは分かって、私も嬉しかった。
兄はずっと、青い絵を描いて行った。
他の色は殆どない。
青、黒、グレー、白、時折少しの他の色。
兄の「青の世界」の絵は少しずつ認められていった。
ある時、仲間の若い画家たちと一緒に、三越で展示会が開かれた。
新進気鋭の作家と銘打たれた展示で、その一人に選ばれた兄も喜んだ。
しかし、もっと大きな喜びがあった。
兄は3点の絵を出品した。
「郁子!」
その日の夕方、兄が大興奮で帰って来た。
夕飯を待っていた私を抱き締めて泣いていた。
「兄さん! どうしたの!」
「石神さんだ!」
「え?」
「石神さんが来てくれた! 僕の『青の虎』を購入してくれたんだ!」
「まあ!」
石神さんのことは覚えていた。
あの花見の日からずっと、兄はよく石神さんの話をしていたからだ。
同じ話の繰り返しだったが、兄は毎回嬉しそうに話していた。
まさか、その石神さんと再会出来たとは、私も驚いた。
兄を宥めて、一緒に夕飯を食べながら兄から話を聞いた。
「大きなデパートでの展示会だったから、『藝術新潮』にも乗ったんだ。石神さんはそれで僕の出品を知ってくれたらしいよ!」
「そうなの! 良かったね、兄さん!」
「本当に嬉しい! 何よりも、石神さんが僕のことを覚えてくれていたのがね!」
兄はそれ以上に、石神さんが『青の虎』を買ってくれたことが嬉しかったらしい。
兄が、その絵を石神さんを思って描いたことを恥ずかしそうに話してくれた。
「僕なんかがね、石神さんを描けるはずもないんだけどね」
「そんなこと! 頑張って!」
「うん。石神さんも応援してくれた。僕はやるよ」
「そうよ!」
楽しい食事だった。
ずっと苦しんでいた兄が、あんなに笑っていたのは久しぶりだった。
石神さんは東京の港区の大病院に勤めていると話してくれた。
名刺と連絡先をもらい、これから兄が絵を展示する時には教えて欲しいと言われたそうだ。
兄が幸せそうだった。
石神さんの名刺を、兄が自分で額を作って納めた。
毎日それを見て、嬉しそうに笑っていた。
それから兄は銀座の画廊と縁が出来て、そこで絵が売れるようになっていった。
その画廊は、石神さんから紹介されたらしい。
「二代目の画廊主でね。だからガツガツしてないんだ。速水の絵を見せたらとても興味を持ってくれた」
そう石神さんから言われ、兄は涙を流して喜んでいた。
画廊が付いてくれたことも嬉しかったようだが、それ以上に石神さんが自分のためにやってくれたということが嬉しかったのだろう。
それからそのN画廊で兄の絵が扱われるようになっていった。
少しずつ売れ始め、石神さんもよく購入してくれていたようだ。
毎回兄が大喜びで帰るので、私もそれを知っていた。
一度兄が石神さんの別荘に誘われたことがあった。
別荘で大きな作品を描いて欲しいということだった。
兄はもちろん喜んで引き受けて出掛けて行った。
食事や画材、その他の生活に必要なものは全て石神さんが用意するということだった。
何か月掛かってもいいと言われていた。
私には何となく分かっていた。
兄はその当時随分と悩んでいたからだ。
兄の絵は売れ始めたが、いつも青い絵ばかり描く兄は、徐々に飽きられていた。
そのことで兄は、自分のやろうとしていることが正しいのかどうか迷い始めていた。
特に私のことだ。
私の収入では生活にはおぼつかず、兄の絵が売れれば多少は楽になる。
両親の保険金は、もう尽きかけていた。
石神さんは兄のいない間の生活費だと、私の分も出して下さった。
兄は本当に感謝していた。
二ヶ月程で、兄が帰って来た。
心配していたが、兄の顔を見て安心した。
また兄は幸せそうに笑っていたからだ。
兄は石神さんの別荘の素晴らしさを語ってくれた。
「屋上にね、ガラスの空間があるんだよ!」
「へぇー!」
兄が石神さんに断って撮ったという写真を後で見せてくれた。
素敵な空間だった。
四方に伸びるガラスの通路。
中央にある、小さな空間。
全てガラス張りで、私もそこへ行きたくなった。
兄は他には詳しい話はしなかった。
でも、悩んでいた兄がまた「青の世界」を夢中で描くようになった。
私は兄の表情を見て、また石神さんが兄のために何かをしてくれたことが分かった。
石神さんから、絵画教室の講師を紹介された。
収入面でも安定するようになり、私たちはまた石神さんに深い感謝を捧げた。
兄は数年後にすい臓がんを患った。
余命宣告を受け、それから一心不乱に一枚の絵を描いた。
『青の虎』
前に石神さんをイメージして描いた絵と同じ題名だった。
だから、私にもまた石神さんを描こうとしていることは分かった。
描き終えて、兄は睡眠薬を大量に飲んで死んだ。
もうこの世でやるべきことを全てやったということだったのだろう。
満足そうな顔で眠っていた。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
「速水さん! お迎えに来ましたよ!」
両親の遺してくれた家に、石神さんが迎えに来てくれた。
驚いた。
とても長い車で、特注のリムジン車で、10人が乗れるのだと言われた。
わざわざ、その車で私を迎えに来て下さった。
石神さんのお子さんだと言う、可愛らしい双子の女の子と一緒だった。
ルーさんとハーさん。
二人とも、兄の絵が大好きなのだと言ってくれた。
「私たちがね、タカさんの寝室のリャドの絵を壊しちゃったの」
「それからいろいろタカさんが悩んでね。速水健二さんの絵を掛けたら、ぴったりだったの!」
「後から同じリャドの絵をもらったんだけどね!」
「今でも速水健二さんの絵なんだよ!」
石神さんが、親友の子どもたちを引き取ったのだと説明してくれた。
そして、リャドの絵を二人が悪戯で壊した後で家出した話をしてくれた。
車の中で爆笑した。
「あの後で、ジャコメッティの像も壊しやがって」
「「エヘヘヘヘヘ!」」
「笑い事じゃねぇ!」
楽しく話しながら、都内の大きな展示スペースに連れて来て頂いた。
石神さんが自ら、私の車椅子を押して下さった。
ゆっくりと、60点ほど展示された絵の前を説明しながら回って下さる。
年代順に掛けられているようで、私も兄と過ごした時間を思い出して行くことが出来た。
石神さんの所蔵品が一番多かった。
20点ほどか。
他の半分以上は「売約済み」の札が貼ってあった。
残りは美術館で、数点が個人蔵だった。
「俺が売ってもらえるものは全部買いましたよ」
「え!」
「画廊が持っていたものがほとんどで。後日、速水さんに代金が引き渡されますので」
「そんな! 私なんて今更!」
「しょうがないですよ。画廊がそういう契約で預かっていたんですからね」
石神さんが大笑いしながら話していた。
「大分吹っ掛けられましてね」
「石神さん! どうか、私のことなんて!」
「画廊っていうのはガメツイですね」
私の言葉が聞こえないように、石神さんは笑って話された。
多くの作品は私も知っている。
一枚だけ、私の知らない作品があった。
300号の西洋の騎士の絵で、それは石神さんの別荘から運んで来たのだと言われた。
絶筆となった『青の虎』は、一番最後の小部屋に一点だけ掛けられていた。
小部屋にはベッドが置かれ、淡いブルーの光が満ちていた。
「実は俺の寝室に掛けてあるものですから。速水さんに、その状態を観て欲しくて、こういう空間にしたんです」
石神さんの寝室は、アズールバイアという青の大理石のお部屋なのだと伺った。
兄の絵がとても喜んでいるように見えた。
後日、本当に幾つかの画廊から入金があった。
全部で20億円ほどになっていた。
驚いて石神さんにお金を返そうとすると、笑って断られた。
「速水はお金なんて考えなかった奴ですけどね。でも、換算すれば、このくらいにはなったんですよ」
「石神さん……」
その夜、久し振りに兄の夢を見た。
兄はずっと笑顔で私に語り掛けてくれていた。
また石神さんのことばかりだった。
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