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奈津江 XⅨ

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 奈津江が小学校4年生の冬。
 奈津江の母親が亡くなった。
 まだ34歳。
 脳溢血だった。
 奈津江は後年、母方の家系で脳溢血が多いことを知る。
 遺伝的に脳の血管が直角に曲がっている家系がある。
 そういう遺伝は脳溢血を起こしやすいのだ。
 
 父親は一流商社「角紅」の優秀な社員で、ほとんど家にいたことは無かった。
 葬儀の時には流石に一時帰国したが、終わるとそのまま旅立った。
 兄は早稲田大学の建築学科に通っていて、大学の近くのアパートに住んでいた。
 四年生だった。
 奈津江はほとんど母親と二人で暮らしていた。

 明るい母親だった。
 奈津江のために美味しい食事を用意し、いつも笑っていた。

 「クリスマスは何をしようか」
 「えー、いつも通りでいいよ」
 「なんでよ! あ、今年はクリスマスツリーを飾ろうか!」
 「いいって」
 「お兄ちゃんも呼んでさ。三人で楽しもう!」
 「お兄ちゃん、来るの!」
 「呼べば来るよ。奈津江が大好きなんだから」
 「うん!」

 翌日。
 学校から帰ると、母が倒れていた。
 すぐに兄に連絡した。
 救急車で病院に運ばれた時には、すでに亡くなっていた。




 葬儀が終わるまで、奈津江は呆然としていた。
 大好きな母親を喪い、またこれからの不安で圧し潰されそうになった。

 「奈津江、一時的に、叔父さんの家に行ってくれ」

 そう顕から言われた。
 
 「やだ」
 「頼むよ。あの家に奈津江を一人で置いておくわけには行かないじゃないか」
 「やだ」
 「奈津江……」

 奈津江が泣き出した。

 「やだよー! あの家が私の家なんだよー!」
 「だけど奈津江」
 「お母さんがあそこにいたんだよ! お兄ちゃんだっていたじゃない! 私の家はあそこだよ!」
 
 顕も泣いた。

 「分かった。悪かったね、奈津江。じゃあ一緒にあの家で暮らそう」
 「うん!」
 「僕も家に戻るよ」
 「ほんと!」
 「うん。奈津江と一緒にいるよ」
 「ありがとう、お兄ちゃん!」

 


 慣れない家事に、顕も最初は戸惑った。
 奈津江の食事を作り、掃除に洗濯。
 その他、細々としたことがある。

 食事が上手く作れず、奈津江が食べられないこともあった。
 その度に顕は勉強していった。
 大学の同じ建築学科の友人の女性が、いろいろと相談に乗ってくれた。

 「紺野君、大丈夫?」
 「ああ、なんとかやるしかないよ。奈津江のためだ」
 「今度、私が教えようか?」
 「ほんとうに!」
 
 優しい女性で、彼女のマンションでいろいろと料理の基本から教わった。
 顕はそのうちに、女性に好意を持ち、二人は付き合うようになった。
 バレンタインデーの頃。
 顕は女性を家に招いた。
 奈津江に紹介しようと思った。
 結婚も考えていた。

 「奈津江、この人は長谷川ルミさん。僕の友達なんだ」
 「そうなの。奈津江です」

 奈津江の表情が暗かった。

 「ルミです。奈津江ちゃん、よろしくね!」
 「よろしくお願いします」

 奈津江はそのまま自分の部屋に引きこもった。
 顕が呼んでも、下に降りて来なかった。
 ルミが帰っても奈津江は部屋から出ない。

 「奈津江!」

 呼びかけると、奈津江が泣いている声が聞こえた。

 「奈津江! 出て来いよ! 一緒に夕飯を食べよう」
 
 本当はルミと一緒に食べるつもりだった。
 でも、顕は奈津江の心情を知った。
 奈津江は顕が自分から離れてしまうと思っている。
 そうではないと思ったが、そうなのだということが分かった。
 自分がルミと楽しく過ごしている間、奈津江は一人寂しく過ごすしかない。
 
 「奈津江、ルミさんとはもう会わないよ」
 「……」

 奈津江の泣き声がやんだ。

 「僕は奈津江が一番なんだ。さあ、一緒に食べよう」
 
 奈津江が出て来た。
 泣き腫らした目が真っ赤になっていた。

 「奈津江、ごめんね」
 「お兄ちゃん!」

 抱き着く奈津江を抱き締めて、頭を撫でてやった。




 大学を卒業し、顕は銀座に本社がある大手設計事務所に就職した。
 設計事務所はどこも非常に忙しくしていた。
 顕も新人として徹底的にしごかれ、帰りも遅くなった。
 10時前に家に帰ったことがなくなった。
 当時は週休一日が基本だった。

 どんなに遅くなっても、奈津江は必ず起きていて顕を待っていた。
 顕は先輩や上司と一緒に食事を済ませることが多かった。
 奈津江は何も食べずに待っていた。
 顕が帰ると、いつも嬉しそうな顔をして「おかえりー!」と言った。

 お金を渡して近所のお店で食べておくように言った。
 奈津江は寂しがったが、顕の言うことに従った。

 ある日、顕が帰ると奈津江が迎えに出ない。
 どうしたかと思ったら、奈津江がキッチンで泣いていた。

 「どうしたんだ!」
 「食堂でね、食べてたの。怖いおじさんに身体を触られたの」
 「なんだって!」

 顕は奈津江を風呂に入れ、食堂へ行った。
 食堂の人から、酔った客が奈津江に抱き着いたと話した。

 「すぐに旦那が止めてね。そうしたら、奈津江ちゃん、泣きながら出て行っちゃって」
 「そうですか」

 怖い思いをしただろう。
 顕は後悔した。

 奈津江が風呂から上がっていた。

 「奈津江! ごめん!」
 「お兄ちゃん……」
 「これからはまた俺が作るよ! 本当にごめん!」
 「いいよ、お兄ちゃんも忙しいんでしょ?」
 「俺は奈津江が大事なんだ! もう二度と怖い目には遭わせないよ!」

 奈津江が抱き着いて泣いた。




 それから会社に事情を話し、夕方に一度帰らせてもらうようにした。
 奈津江と一緒に食事をし、また会社へ戻った。
 帰宅時間が更に遅くなった。
 顕はそれでも嬉しかった。
 奈津江のためにする、全てのことが喜びだった。
 力は幾らでも湧いて来た。
 奈津江が笑ってくれる。
 それが顕の全てだった。



 
 奈津江が成長し、東京大学に入学した。
 二人で銀座のエスコフィエを予約し、祝った。
 奈津江は美しい女性に成長していた。

 友達はあまり作らなかった。
 学校で親しい友達はいたようだが、一緒に遊ぶことは無かった。
 奈津江も顕がいればそれで良かった。

 


 奈津江は弓道部に入った。
 顕は喜んだ。
 これからは外で友達と楽しくやって欲しい。
 そう考えていると、奈津江から驚く話を顕は聞いた。

 「あのね、私彼氏が出来たの」
 「えぇー!」
 「なによ!」
 「いや、それは驚くだろう」
 「なんでよ!」
 「いやだって、その……」

 奈津江が笑った。

 「石神高虎くん。もう最高にカッコイイの!」
 「へぇ、そうなの」
 「背が高くてね、筋肉が凄くて!」
 「へ、へぇ」

 顕はちょっと贅肉を気にしていた。

 「それでね、物凄く優しいんだ」
 「そうか」
 「うん! でもね、カッコ良すぎて、女の子にモテモテなのよ」
 「おい!」
 「もう学食で取り囲まれるし、外を歩いてても行列が出来るんだ」
 「大丈夫なのかい?」
 「大丈夫! だって私にメロメロだもん!」

 顕は大笑いした。

 「そうか、奈津江はカワイイものな!」
 「うん!」

 それから顕は毎日のように奈津江から「高虎」の話を聞かされた。
 初めてデートに行った話は、朝方まで奈津江が楽しそうに話した。
 本当にいい青年なのだと、顕も分かった。

 「お兄ちゃん」
 「なんだい?」
 「だからね、これからはお兄ちゃんは自分のことを考えて」
 「え?」
 「これまで本当にありがとう。そしてごめんなさい。私がワガママだったから、お兄ちゃんは自分のことを考えられなかったよね」
 「何を言ってるんだ」
 「私はもう大丈夫! だからお兄ちゃんも彼女を探して結婚して!」
 「おい!」

 奈津江が朗らかに笑っていた。

 「お願い」
 「奈津江、そんな……」

 実を言えば、奈津江が付き合っている「高虎」に少しばかり嫉妬していた。
 でも、それ以上に奈津江がこんなに明るく笑い、幸せそうにしてくれた「高虎」に感謝していた。

 「ねえ、奈津江」
 「なーに、お兄ちゃん?」
 「今度、その石神くんに僕を会わせてくれないかな」
 「え! ほんとに!」
 「うん。僕も会ってみたくなった」
 「嬉しい! 話してみるね!」
 「頼むよ」




 顕は石神に会った。
 
 「奈津江のことを、どうか宜しくお願いします」
 「俺の方こそ! 任せて下さい!」

 石神がそう言ってくれた。
 その夜、奈津江は顕に「高虎」の感想をしつこく聞いた。

 「いい人じゃないか」
 「そうでしょ!」
 「捨てられないように、奈津江もがんばれ」
 「絶対大丈夫だから!」
 「アハハハハ!」

 二人で笑った。
 顕もそうだろうと思った。
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