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『マタイ受難曲』
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「門土、お前が一番好きな曲って何だよ?」
「え! それはだなー」
「うん」
「ベートーヴェンの『月光』かなー」
「お! いいよな、あれ!」
「うん」
「どうしたんだよ?」
「でも、他にもなー」
「ああー」
橘家の音楽室で門土といつもの「セッション」をしていた。
お互いに気ままに音を奏で、気ままにメインを交代しながら続ける。
門土とやると最高に楽しかった。
その他に、思いつくままにお互いに演奏して聴き合う。
相手の上達が伺え、これも楽しかった。
俺たちはいつまでもやっていた。
夢中になって俺が終電を逃すこともあり、そのまま朝方までやることも多かった。
「俺は断然、バッハの『マタイ受難曲』だな!」
「そうか! トラは言い切れるんだな」
「ああ! これは多分、一生変わらないよ。他にももちろん好きな曲は一杯あるけどさ」
「そうなんだな。そうか」
門土は何か納得したようだ。
「じゃあ、ちょっと弾いてみろよ」
「それがさー。俺も何度も挑戦してるんだけど、どうも上手く行かないんだよな」
「そうなのか?」
「まあ、ちょっと聴いてくれよ」
門土ならば、何かいい意見を言ってくれるかもしれない。
俺はそれを期待して、それまで自分がやってきたものを披露した。
「いいじゃないか、トラ!」
聴き終えて、門土が言った。
「いや、ダメだよ。レコードはあるか?」
「リヒターのなら」
二人で聴いた。
「な、全然重厚感とか神聖さが違うよ。リヒターは定番だけど、俺はメンゲルベルクのものが好きなんだ。解釈は随分と違うけどな」
「そうか」
門土はリヒター版でも、俺の言いたいことは分かってくれた。
「声楽のための曲だけどな。でも、俺はどうしてもギターでやりたいんだ」
「分かるよ。僕もピアノでやりたいもんな」
「ちょっとやってみせてくれないか?」
「うん!」
門土は迷いなく弾いた。
最初は主旋律を単音で。
徐々に和音を形成していった。
「うん、そうだよな」
「ここから先はちょっと分からないなー」
「そうなんだよな。ピアノもそうだけど、ギターも音が弱まるのが速いんだよな。だから連続する人間の声帯とは違うんだよ」
「うん」
「管楽器だったら、随分と違うんだろうけどな」
「そうだね」
俺はギターを思い切り長く鳴らしてみた。
「全然ダメだよな。エレキだったら違うかな」
「トラ、エレキギターなんて持ってるのか?」
「おい! うちの貧乏をバカにすんなよ! 持ってるわけねぇだろう!」
「アハハハハ!」
「うちの半径10キロでは誰も持ってねぇ」
「アハハハハハ!」
二人で笑った。
でも、多分エレキギターでもダメだろう。
しばらく後で、ゲイリー・ムーアが『パリの散歩道』で長大な一音を鳴り響かせて感動することになる。
それは、ギターでの声楽の模倣の可能性を俺が感じたからだ。
「サックスでやったら面白いんじゃないかと思うんだ」
「なるほど!」
「思い切り泣き叫ぶようなさ! 誰かやってくんないかな」
「半径10キロにはいないよ、きっと」
「そうだよなー」
俺たちは提案と分析を繰り返した。
「結局さ、二旋律があるじゃない。それにあの合唱の荘厳だよな。あれをどうやってギターで示すかだ」
無理だとは俺たちは絶対に思わなかった。
どうやればいいのかだけを話し合った。
もちろんその晩に出来るわけもなく、俺たちは解散した。
「貢さん、相談があるんですが」
「なんだ?」
俺は貢さんに『マタイ受難曲』をギターで演奏することを相談した。
「あ?」
「俺、どうしてもやりたいんですよ!」
「じゃあ、やれよ」
「だから、どうやればいいのか分からなくて!」
いきなり頭をスリコギで殴られた。
「トラ! てめぇ舐めてんのか!」
「イタイですって!」
もう一度殴られた。
「俺が「こうやるんだ」って言って、それがお前の音楽になんのか!」
「あー」
俺はオチンチンを出した。
「お前は何をやってきたんだよ、まったく」
「すいませんでしたー!」
俺はオチンチンを貢さんの顔の前で回した。
「なんか臭ぇな?」
真夏で、ちょっと蒸れていた。
貢さんは目が見えない代わりに、耳が抜群によく、また鼻も良かった。
「まあいい。早く練習しろ」
「はい!」
貢さんには教われなかった。
貢さんにしごかれ、やっと練習が終わった。
「じゃあ、またあさってな」
「はい! ありがとうございました!」
俺はいつものように庭から家を出ようとしていた。
後ろで貢さんがギターを弾いていた。
単音で『アルハンブラの思い出』を弾き始めた。
俺は頭に稲妻が落ちたような衝撃を受けた。
また門土の家に遊びに行った。
「門土! 貢さんがさ!」
門土はすぐに俺を音楽室へ通した。
「どうしたんだ!」
俺は単音での『アルハンブラの思い出』を貢さんが弾いた話をした。
「ちょっと聴いてくれ」
俺は単音で『マタイ受難曲』を弾いた。
「おい、これって!」
門土も驚く。
俺がこれまでやって来たこととは全く違う何かが見えてきた。
「トラ、前にお前は単音で弾いたらどうだろうかって言ってたよな!」
「ああ、貢さんの早引きの反対はどうかってな!」
「これって、一つの答えなんじゃないか?」
「門土もそう思うか!」
俺たちは興奮した。
しかし、そこでまた壁にぶち当たった。
やはり、単音ではあの『マタイ受難曲』の全体を掴めなかった。
俺たちは「セッション」を楽しみながら、時々思い出したかのように『マタイ受難曲』のアイデアを出し合った。
一番上手く行ったのは、門土のピアノと俺のギターでの演奏だった。
やはり複数の演奏の方が格段にいい。
ピアノとギターの性質は似ている部分が多い。
だから俺は門土の好きだと言ったベートーヴェンの『月光』をギターで演奏し、門土を唸らせた。
しかし、一向に『マタイ受難曲』は程遠かった。
そのうちに俺は橘弥生によって門土と会うことを禁じられた。
俺たちの『マタイ受難曲』の挑戦は終わり、俺が独りで時々考えながら弾くようになった。
もちろん、今でも完成していない。
門土が死に、橘弥生から門土の遺品の一部を頂いた。
その中に、『マタイ受難曲』に関する門土の意見と研究が書かれているものが一部あった。
門土は俺と別れてからも、『マタイ受難曲』について一緒に考えてくれていた。
残念ながら門土の才能をもってしても、まだ完成してはいなかった。
俺の中で、死ぬまで追い求めるものの一つになった。
俺が『マタイ受難曲』について考えると、門土と一緒に考えている気分になれる。
俺の永遠の楽しみの一つになっている。
「え! それはだなー」
「うん」
「ベートーヴェンの『月光』かなー」
「お! いいよな、あれ!」
「うん」
「どうしたんだよ?」
「でも、他にもなー」
「ああー」
橘家の音楽室で門土といつもの「セッション」をしていた。
お互いに気ままに音を奏で、気ままにメインを交代しながら続ける。
門土とやると最高に楽しかった。
その他に、思いつくままにお互いに演奏して聴き合う。
相手の上達が伺え、これも楽しかった。
俺たちはいつまでもやっていた。
夢中になって俺が終電を逃すこともあり、そのまま朝方までやることも多かった。
「俺は断然、バッハの『マタイ受難曲』だな!」
「そうか! トラは言い切れるんだな」
「ああ! これは多分、一生変わらないよ。他にももちろん好きな曲は一杯あるけどさ」
「そうなんだな。そうか」
門土は何か納得したようだ。
「じゃあ、ちょっと弾いてみろよ」
「それがさー。俺も何度も挑戦してるんだけど、どうも上手く行かないんだよな」
「そうなのか?」
「まあ、ちょっと聴いてくれよ」
門土ならば、何かいい意見を言ってくれるかもしれない。
俺はそれを期待して、それまで自分がやってきたものを披露した。
「いいじゃないか、トラ!」
聴き終えて、門土が言った。
「いや、ダメだよ。レコードはあるか?」
「リヒターのなら」
二人で聴いた。
「な、全然重厚感とか神聖さが違うよ。リヒターは定番だけど、俺はメンゲルベルクのものが好きなんだ。解釈は随分と違うけどな」
「そうか」
門土はリヒター版でも、俺の言いたいことは分かってくれた。
「声楽のための曲だけどな。でも、俺はどうしてもギターでやりたいんだ」
「分かるよ。僕もピアノでやりたいもんな」
「ちょっとやってみせてくれないか?」
「うん!」
門土は迷いなく弾いた。
最初は主旋律を単音で。
徐々に和音を形成していった。
「うん、そうだよな」
「ここから先はちょっと分からないなー」
「そうなんだよな。ピアノもそうだけど、ギターも音が弱まるのが速いんだよな。だから連続する人間の声帯とは違うんだよ」
「うん」
「管楽器だったら、随分と違うんだろうけどな」
「そうだね」
俺はギターを思い切り長く鳴らしてみた。
「全然ダメだよな。エレキだったら違うかな」
「トラ、エレキギターなんて持ってるのか?」
「おい! うちの貧乏をバカにすんなよ! 持ってるわけねぇだろう!」
「アハハハハ!」
「うちの半径10キロでは誰も持ってねぇ」
「アハハハハハ!」
二人で笑った。
でも、多分エレキギターでもダメだろう。
しばらく後で、ゲイリー・ムーアが『パリの散歩道』で長大な一音を鳴り響かせて感動することになる。
それは、ギターでの声楽の模倣の可能性を俺が感じたからだ。
「サックスでやったら面白いんじゃないかと思うんだ」
「なるほど!」
「思い切り泣き叫ぶようなさ! 誰かやってくんないかな」
「半径10キロにはいないよ、きっと」
「そうだよなー」
俺たちは提案と分析を繰り返した。
「結局さ、二旋律があるじゃない。それにあの合唱の荘厳だよな。あれをどうやってギターで示すかだ」
無理だとは俺たちは絶対に思わなかった。
どうやればいいのかだけを話し合った。
もちろんその晩に出来るわけもなく、俺たちは解散した。
「貢さん、相談があるんですが」
「なんだ?」
俺は貢さんに『マタイ受難曲』をギターで演奏することを相談した。
「あ?」
「俺、どうしてもやりたいんですよ!」
「じゃあ、やれよ」
「だから、どうやればいいのか分からなくて!」
いきなり頭をスリコギで殴られた。
「トラ! てめぇ舐めてんのか!」
「イタイですって!」
もう一度殴られた。
「俺が「こうやるんだ」って言って、それがお前の音楽になんのか!」
「あー」
俺はオチンチンを出した。
「お前は何をやってきたんだよ、まったく」
「すいませんでしたー!」
俺はオチンチンを貢さんの顔の前で回した。
「なんか臭ぇな?」
真夏で、ちょっと蒸れていた。
貢さんは目が見えない代わりに、耳が抜群によく、また鼻も良かった。
「まあいい。早く練習しろ」
「はい!」
貢さんには教われなかった。
貢さんにしごかれ、やっと練習が終わった。
「じゃあ、またあさってな」
「はい! ありがとうございました!」
俺はいつものように庭から家を出ようとしていた。
後ろで貢さんがギターを弾いていた。
単音で『アルハンブラの思い出』を弾き始めた。
俺は頭に稲妻が落ちたような衝撃を受けた。
また門土の家に遊びに行った。
「門土! 貢さんがさ!」
門土はすぐに俺を音楽室へ通した。
「どうしたんだ!」
俺は単音での『アルハンブラの思い出』を貢さんが弾いた話をした。
「ちょっと聴いてくれ」
俺は単音で『マタイ受難曲』を弾いた。
「おい、これって!」
門土も驚く。
俺がこれまでやって来たこととは全く違う何かが見えてきた。
「トラ、前にお前は単音で弾いたらどうだろうかって言ってたよな!」
「ああ、貢さんの早引きの反対はどうかってな!」
「これって、一つの答えなんじゃないか?」
「門土もそう思うか!」
俺たちは興奮した。
しかし、そこでまた壁にぶち当たった。
やはり、単音ではあの『マタイ受難曲』の全体を掴めなかった。
俺たちは「セッション」を楽しみながら、時々思い出したかのように『マタイ受難曲』のアイデアを出し合った。
一番上手く行ったのは、門土のピアノと俺のギターでの演奏だった。
やはり複数の演奏の方が格段にいい。
ピアノとギターの性質は似ている部分が多い。
だから俺は門土の好きだと言ったベートーヴェンの『月光』をギターで演奏し、門土を唸らせた。
しかし、一向に『マタイ受難曲』は程遠かった。
そのうちに俺は橘弥生によって門土と会うことを禁じられた。
俺たちの『マタイ受難曲』の挑戦は終わり、俺が独りで時々考えながら弾くようになった。
もちろん、今でも完成していない。
門土が死に、橘弥生から門土の遺品の一部を頂いた。
その中に、『マタイ受難曲』に関する門土の意見と研究が書かれているものが一部あった。
門土は俺と別れてからも、『マタイ受難曲』について一緒に考えてくれていた。
残念ながら門土の才能をもってしても、まだ完成してはいなかった。
俺の中で、死ぬまで追い求めるものの一つになった。
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