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テトラの歌 Ⅲ
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あの日から。
地獄が口を開いたあの日から。
私はただ耐えることしか出来なかった。
耐えなければ死ぬだけだった。
逆らえば死ぬだけだった。
だから耐えた。
それが私の生き方になった。
私が何とか耐えられたのは、地獄の前の思い出があるからだ。
あの人が私の最後の希望だ。
いつかあの人に巡り合い、私を耐えるだけの世界から救い出してくれる。
そんな夢が私の唯一のものだった。
その日が来るまでは必死に耐える。
殴られる痛みは、いつしか耐えられるようになった。
酷い姿になっても、何とか耐えてその日を待つ。
でも自分でも分かっていた。
その日は来ない。
だから、私は命が耐えられなくなる日を待った。
今回、ようやくその日が来たのではないかと思った。
でも「その日」が来た。
そして、私はそれまで考えもしなかった激しい動揺に見舞われた。
《どうして?》
耐えて生きるうちに、私が汚れ切ってしまっていたからだ。
そのことに気付いて、私は泣いた。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
加納明子が入院して、十日が経った。
順調に体力を回復し、少し歩けるようになった。
俺は様子を見ながら、屋上へ案内した。
車いすに乗せ、屋上で少し歩かせる。
「タカトラー!」
響子がセグウェイでやって来た。
「よう! お前もいたのか」
向こうで六花が手を振っている。
「この人は?」
「ああ、俺が執刀した患者さんだ。大分良くなったんで、屋上に連れて来たんだ」
「へー!」
「こんにちは」
加納明子が響子に挨拶した。
優しい笑顔だ。
「こんにちは!」
響子も挨拶する。
俺は六花と遊んでいろと言い、響子は戻った。
「可愛らしいお嬢さんですね」
「ええ、長く入院している子なんです。あの子も俺の担当患者で」
「そうなんですか」
俺は屋上の端まで手を引いて歩かせた。
「そんなに眺めのいいものでもないんですけどね」
「いえ、病室とは全然違います。ありがとうございます」
車いすに戻し、座らせて少し話をした。
「ハンバーグ、お好きですよね?」
「え、ええ。子どもっぽくておかしいですか?」
三日に一度は夕飯のリクエストを聞いていたが、毎回ハンバーグがいいと言っていた。
「そんなことは。俺も好きですし」
「お母さまの得意料理だったとか?」
「いいえ! お袋のハンバーグは全然いいものじゃなかったですよ! まあ、あの頃は美味いと思ってましたけど」
「ウフフフフ」
「ただ挽肉を捏ねてタマネギとか入れただけでね。塩コショウだけで。だけど、確かに当時は美味かったなぁ。ああ、でもうちは貧乏だったんで、滅多に出ませんでしたけどね」
「ウフフフ、優しいお母様でしたもんね」
「え?」
「あ、いえ。そんな気がいたしました」
「まあ、そうですね。優しい人でした」
「今もお元気ですか?」
「いいえ。亡くなりました」
「そうですか、すみませんでした」
「いいんですよ。優しい人たちに囲まれて、いい晩年でした」
「そうですか」
加納明子が嬉しそうに笑った。
「うちの子どもらがですね」
「あ! 石神先生は結婚なさってるんですね!」
「いいえ、親友の子を引き取ったんです。事故で両親ともに亡くなりましてね。その四人の子どもを引き取りました」
「そうだったんですか!」
「まあ、毎日賑やかでね。それで肉を喰うことに命懸けというか」
「はい?」
「ステーキなんか兄弟で殴り合って食べるんですよ」
「まあ!」
「それで一人で何キロも喰う。ハンバーグなんかもすごいですよ」
「アハハハハ!」
「俺が「今日の夕飯はなんだ」って聞くと「今日はハンバーグ大会だよ!」って。なんで大会になってるのか」
「アハハハハ!」
加納明子が大笑いした。
「ステーキもそうですけど、10キロ以上用意するんですよ。それで残ったことがない」
「凄いですね!」
「まあ、一杯食べてくれるのはいいんですけどねぇ」
「ほんとうに」
俺たちが降りようとすると、響子と六花も来た。
「一緒に降りよう!」
俺は笑って一緒に歩いた。
「素敵なものに乗っているのね」
「タカトラが買ってくれたんだよ!」
「そうなの!」
「うん!」
「入院生活が長いんで、特別に許可をもらって。時々巡回してるんです」
「へぇー!」
「響子です!」
「私は明子。でも名前が思い出せないから仮のお名前なの」
「そうなんだ!」
気が合ったようだった。
それから、響子が加納明子の部屋へ時々行くようになった。
加納明子には自分の状況はあまり話さないように頼んだ。
犯罪被害者であることを響子には伏せるようにと。
体力を回復し、加納明子は自分で病院内を歩けるようになっていった。
食事も自分で配膳場所から取って来て戻す。
規則があるので、響子の部屋へは行けない。
響子が来るのを待っていた。
六花も時々一緒に来て、加納明子と話すようになった。
響子も病院内に話し相手が出来て嬉しそうだった。
これまではナースたちと話すばかりで、他の入院患者とは交流はない。
それは多分にセキュリティの関係だったが、加納明子については俺が許可を得た。
顕さんと同じだ。
俺が彼女を信頼した。
加納明子が入院して三週間が経った。
俺はナースから報告を受けた。
「夕べ、響子ちゃんが加納さんをお部屋へ案内したみたいで」
「なんだって?」
「巡回していて、響子ちゃんの部屋の方から歩いて来るのを見ました」
「そうか」
「時々、1階の自動販売機の所で楽しそうに話しているのは見ていたんですが。お部屋まで行っているとは思いませんでした」
「分かった、よく知らせてくれた」
「はい」
俺は響子に注意した。
「お前もよく知っているだろう。この部屋には限られた人間しか来ちゃいけないんだ」
「ごめんなさい」
「顕さんだって俺と一緒にしか来なかっただろ? しかも何度も無かったはずだ」
「うん」
「これからはちゃんとやってくれな」
「はい。ごめんなさい」
頭を撫でて部屋を出た。
加納明子にも同じ話をする。
「あの子は特別な患者で、あの部屋には許可なく入ってはいけないんです」
「そうだったんですか。申し訳ありません」
「まあ、響子が誘ったのは分かってますから。今後は行かないで下さいね」
「分かりました」
「体力が無い子でね。感染症なんかにも敏感なんです」
「それは申し訳ないことを」
「大丈夫ですよ。でもこれからは昼間はいいですが、夜は一緒にいないで下さいね」
「はい、分かりました」
その日の夕方、帰る前に響子の部屋へ寄った。
響子が甘えて来る。
「なあ、明子さんとはどんな話をしてたんだ?」
「普通の話。あ、タカトラの話が多いよ!」
「俺かよ?」
「うん。タカトラが優しいねって。歌も上手いの」
「へー、そうなのか」
響子が歌った。
ドヴォルザークの『遠き山に日は落ちて』だった。
「ああ、俺が子どもの頃に大好きだった歌だよ!」
「そうなの!」
「よく歌ってたなぁ。音楽の授業で教わってな。一発で好きになった」
「そうなんだ!」
俺は響子と一緒に歌った。
♪ とーおきーやーまにー ひーはおーちてー ♪
二人で拍手して笑い合う。
「あとね! 青い花火が好きなんだって!」
「え?」
「いつか見たいって言ってた。私がこないだ見たよって言ったら驚いてた!」
「そうか」
「今度一緒にやろうって約束した」
「ああ、楽しいだろうな」
俺は一気に昔のことを思い出していた。
俺が忘れられぬ思い出。
思い出すたびに、俺の心を焼き尽くす思い出。
加納明子が青い炎の中で輝いていた。
地獄が口を開いたあの日から。
私はただ耐えることしか出来なかった。
耐えなければ死ぬだけだった。
逆らえば死ぬだけだった。
だから耐えた。
それが私の生き方になった。
私が何とか耐えられたのは、地獄の前の思い出があるからだ。
あの人が私の最後の希望だ。
いつかあの人に巡り合い、私を耐えるだけの世界から救い出してくれる。
そんな夢が私の唯一のものだった。
その日が来るまでは必死に耐える。
殴られる痛みは、いつしか耐えられるようになった。
酷い姿になっても、何とか耐えてその日を待つ。
でも自分でも分かっていた。
その日は来ない。
だから、私は命が耐えられなくなる日を待った。
今回、ようやくその日が来たのではないかと思った。
でも「その日」が来た。
そして、私はそれまで考えもしなかった激しい動揺に見舞われた。
《どうして?》
耐えて生きるうちに、私が汚れ切ってしまっていたからだ。
そのことに気付いて、私は泣いた。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
加納明子が入院して、十日が経った。
順調に体力を回復し、少し歩けるようになった。
俺は様子を見ながら、屋上へ案内した。
車いすに乗せ、屋上で少し歩かせる。
「タカトラー!」
響子がセグウェイでやって来た。
「よう! お前もいたのか」
向こうで六花が手を振っている。
「この人は?」
「ああ、俺が執刀した患者さんだ。大分良くなったんで、屋上に連れて来たんだ」
「へー!」
「こんにちは」
加納明子が響子に挨拶した。
優しい笑顔だ。
「こんにちは!」
響子も挨拶する。
俺は六花と遊んでいろと言い、響子は戻った。
「可愛らしいお嬢さんですね」
「ええ、長く入院している子なんです。あの子も俺の担当患者で」
「そうなんですか」
俺は屋上の端まで手を引いて歩かせた。
「そんなに眺めのいいものでもないんですけどね」
「いえ、病室とは全然違います。ありがとうございます」
車いすに戻し、座らせて少し話をした。
「ハンバーグ、お好きですよね?」
「え、ええ。子どもっぽくておかしいですか?」
三日に一度は夕飯のリクエストを聞いていたが、毎回ハンバーグがいいと言っていた。
「そんなことは。俺も好きですし」
「お母さまの得意料理だったとか?」
「いいえ! お袋のハンバーグは全然いいものじゃなかったですよ! まあ、あの頃は美味いと思ってましたけど」
「ウフフフフ」
「ただ挽肉を捏ねてタマネギとか入れただけでね。塩コショウだけで。だけど、確かに当時は美味かったなぁ。ああ、でもうちは貧乏だったんで、滅多に出ませんでしたけどね」
「ウフフフ、優しいお母様でしたもんね」
「え?」
「あ、いえ。そんな気がいたしました」
「まあ、そうですね。優しい人でした」
「今もお元気ですか?」
「いいえ。亡くなりました」
「そうですか、すみませんでした」
「いいんですよ。優しい人たちに囲まれて、いい晩年でした」
「そうですか」
加納明子が嬉しそうに笑った。
「うちの子どもらがですね」
「あ! 石神先生は結婚なさってるんですね!」
「いいえ、親友の子を引き取ったんです。事故で両親ともに亡くなりましてね。その四人の子どもを引き取りました」
「そうだったんですか!」
「まあ、毎日賑やかでね。それで肉を喰うことに命懸けというか」
「はい?」
「ステーキなんか兄弟で殴り合って食べるんですよ」
「まあ!」
「それで一人で何キロも喰う。ハンバーグなんかもすごいですよ」
「アハハハハ!」
「俺が「今日の夕飯はなんだ」って聞くと「今日はハンバーグ大会だよ!」って。なんで大会になってるのか」
「アハハハハ!」
加納明子が大笑いした。
「ステーキもそうですけど、10キロ以上用意するんですよ。それで残ったことがない」
「凄いですね!」
「まあ、一杯食べてくれるのはいいんですけどねぇ」
「ほんとうに」
俺たちが降りようとすると、響子と六花も来た。
「一緒に降りよう!」
俺は笑って一緒に歩いた。
「素敵なものに乗っているのね」
「タカトラが買ってくれたんだよ!」
「そうなの!」
「うん!」
「入院生活が長いんで、特別に許可をもらって。時々巡回してるんです」
「へぇー!」
「響子です!」
「私は明子。でも名前が思い出せないから仮のお名前なの」
「そうなんだ!」
気が合ったようだった。
それから、響子が加納明子の部屋へ時々行くようになった。
加納明子には自分の状況はあまり話さないように頼んだ。
犯罪被害者であることを響子には伏せるようにと。
体力を回復し、加納明子は自分で病院内を歩けるようになっていった。
食事も自分で配膳場所から取って来て戻す。
規則があるので、響子の部屋へは行けない。
響子が来るのを待っていた。
六花も時々一緒に来て、加納明子と話すようになった。
響子も病院内に話し相手が出来て嬉しそうだった。
これまではナースたちと話すばかりで、他の入院患者とは交流はない。
それは多分にセキュリティの関係だったが、加納明子については俺が許可を得た。
顕さんと同じだ。
俺が彼女を信頼した。
加納明子が入院して三週間が経った。
俺はナースから報告を受けた。
「夕べ、響子ちゃんが加納さんをお部屋へ案内したみたいで」
「なんだって?」
「巡回していて、響子ちゃんの部屋の方から歩いて来るのを見ました」
「そうか」
「時々、1階の自動販売機の所で楽しそうに話しているのは見ていたんですが。お部屋まで行っているとは思いませんでした」
「分かった、よく知らせてくれた」
「はい」
俺は響子に注意した。
「お前もよく知っているだろう。この部屋には限られた人間しか来ちゃいけないんだ」
「ごめんなさい」
「顕さんだって俺と一緒にしか来なかっただろ? しかも何度も無かったはずだ」
「うん」
「これからはちゃんとやってくれな」
「はい。ごめんなさい」
頭を撫でて部屋を出た。
加納明子にも同じ話をする。
「あの子は特別な患者で、あの部屋には許可なく入ってはいけないんです」
「そうだったんですか。申し訳ありません」
「まあ、響子が誘ったのは分かってますから。今後は行かないで下さいね」
「分かりました」
「体力が無い子でね。感染症なんかにも敏感なんです」
「それは申し訳ないことを」
「大丈夫ですよ。でもこれからは昼間はいいですが、夜は一緒にいないで下さいね」
「はい、分かりました」
その日の夕方、帰る前に響子の部屋へ寄った。
響子が甘えて来る。
「なあ、明子さんとはどんな話をしてたんだ?」
「普通の話。あ、タカトラの話が多いよ!」
「俺かよ?」
「うん。タカトラが優しいねって。歌も上手いの」
「へー、そうなのか」
響子が歌った。
ドヴォルザークの『遠き山に日は落ちて』だった。
「ああ、俺が子どもの頃に大好きだった歌だよ!」
「そうなの!」
「よく歌ってたなぁ。音楽の授業で教わってな。一発で好きになった」
「そうなんだ!」
俺は響子と一緒に歌った。
♪ とーおきーやーまにー ひーはおーちてー ♪
二人で拍手して笑い合う。
「あとね! 青い花火が好きなんだって!」
「え?」
「いつか見たいって言ってた。私がこないだ見たよって言ったら驚いてた!」
「そうか」
「今度一緒にやろうって約束した」
「ああ、楽しいだろうな」
俺は一気に昔のことを思い出していた。
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