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奈津江 XⅡ

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 きっかけは、顕さんとの待ち合わせで銀座に行った時だ。
 奈津江抜きで飲みに行く約束をしていた。
 待ち合わせの時間まで余裕があったので、銀座のデパートの地下街に寄った。
 地下鉄口からそのまま入った。
 何か美味そうな料理を見ようと思ったのだ。
 奈津江や御堂たちに美味しいものを喰わせてやりたい。
 
 オレンジの生ジュースを売っていた。
 見ると、本当にオレンジの果汁だけで作っている。
 7月で、その日は特に気温も高かった。
 俺は珍しさもあり、それを一杯頼んだ。
 美味かった。
 店の四十代の女性に、本当に美味いと言うと喜んでくれた。

 飲んでいると、酔っ払いが来た。
 店の前に積まれている、オレンジのケースを蹴り始めた。
 女性が辞めるように言うと、絡み出した。
 ジュースの機械を壊そうとするので、俺が止めた。
 俺にも絡もうとしたが、俺の身体の大きさに驚いて、去って行った。

 「ありがとうございました」
 「いえ」

 お礼だと言われ、もう一杯ご馳走になった。
 女性が男性を連れて来た。
 同じフロアで八百屋をやっているということだった。
 助けてくれた礼を言われ、バナナを一房いただいた。
 俺は何度も断ったが、是非にということでそれを受け取った。

 「女房は妊娠中でね。本当に何もなくて助かったよ」
 「そうなんですか!」
 
 顕さんとの待ち合わせで、俺がバナナを持っているので驚かれた。
 事情を話すと笑われた。

 「石神くんは面白いねぇ」
 「いや、あの、これ持って帰ってもらえません?」
 「石神くんが食べればいいじゃないか」
 「俺、こんなに喰えないですよ」

 一度顕さんの会社に寄って、残業しているみなさんで食べてもらうことにした。




 数日後、俺が顕さんと二人で飲んだのを聞いて、奈津江が怒った。

 「なんで私が置いて行かれるのよ!」
 「悪い」

 俺が奈津江をその店に連れて行くことになった。
 焼き鳥屋だ。
 今も響子をよく連れて行く、あの店だった。
 少し高い店だが、仕方がない。


 「オレンジジュース!」
 「なんで?」
 「タカトラ、飲んだんでしょ?」
 「顕さんから聞いたのか」
 「うん!」

 店に行く前に、オレンジジュースを奢らされた。
 あの奥さんが俺の顔を見て、喜んでくれた。
 俺が付き合っている女性だと紹介すると、また喜んだ。

 「一緒に来てくれたの!」
 「はい。ここのが美味しいと言ったら、絶対に連れて行けと」
 「嬉しいよ!」

 俺たちにジュースを渡すと、奥さんは御主人を呼んで来た。
 ジュースを飲みながら、四人でしばらく話した。

 「石神くん、良かったらうちでアルバイトをしないか?」
 「え?」
 「石神くんは身体も大きいし、顔もカッコイイ。それに何より男気がある」
 「でも」
 「そちらの綺麗な人も、一緒にどうかな?」
 「私ですか!」

 奈津江が喜んだ。

 「実はね、女房がちょっと身体がきつくて。ジュースの販売をしてくれる人を探しているんだ」

 俺は奥さんが妊娠していることを話した。
  
 「高虎、やろうよ!」

 奈津江が言った。
 喜ぶ奈津江の笑顔が眩しかった。

 「じゃあ、やるか。顕さんの許可が出ればな」
 「うん!」

 俺は八百屋で。
 奈津江はジュース販売で。
 夏休みの間で良ければ、ということで話した。

 奈津江と地下の焼き鳥屋へ行き、奈津江は終始嬉しそうな顔で食べた。
 
 「アルバイト、楽しみだね!」
 「ああ、お前、遠いけど大丈夫か?」
 「うん」
 「一日中立ちっぱなしだぞ?」
 「大丈夫だよ!」
 「だってお前、ずっとひきこもりだったじゃん」

 奈津江に肩を叩かれた。

 「今は高虎といろんなとこに行ってるもん!」

 俺は笑った。

 「でも、バイトを始めたら、夏休みはどこにも行けないぞ?」
 「いいよ。ずっと高虎と一緒だもん」
 「そうかー!」

 俺も嬉しくなった。
 御堂の家に行けないのは残念だったが、別にまた機会はある。
 聖の所にも行けないが、まあそっちはちょっと残念だ。
 聖の仕事を手伝う方が、よほど金は手に入るからだ。
 でも、奈津江と一緒の方がいい。
 あの血生臭い世界は、そろそろ離れた方がいいのかもしれない。

 「楽しみですねー」と、俺たちは何度も言い合った。

 俺は奈津江にどんどん食べろと言った。
 奈津江も、本当に美味しいと言い、どんどん頼んだ。

 「焼き鳥って、あんまり食べたことなかったんだ」
 「そうか。ここのは美味しいよなー」
 「うん!」

 支払いの時に、俺が財布を出すと、奈津江に止められた。


 「実はね、お兄ちゃんにお金を預かって来たの」
 「なんだってぇー!」
 「高虎だと、ここの支払いはきついだろうって」
 「おい!」
 「だから大丈夫よ?」
 「おい!」
 「なによ」
 「だったら最初に言ってくれ」

 「なんで?」
 「もっと喰えば良かったぁー!」
 「なんだ、我慢してたの?」
 「そうだよー!」

 奈津江が笑い、店の人も笑った。




 7月の半ばから、俺たちは働き出した。
 俺は服装は何でもいいと言われた。
 ジーパンで構わない。
 一応紺のスラックスと、ワイシャツで行った。
 奈津江は制服を貸してもらえる。

 朝の9時にデパートの社員用出入り口から入り、バッジをもらって地下へ降りた。
 二人で履歴書を用意していた。
 俺たちが東大生だと知り、驚かれた。
 改めて自己紹介をし、社長が富田さんで、店長の木原さんと従業員の若い吉田くんと望月くん。
 奈津江は奥さんに機械の扱いを教わった。
 俺は別に簡単なことだ。
 朝に野菜を冷蔵庫から運び出して店に並べ、それを売りながら補充する。
 奈津江も機械の扱いをすぐに覚えた。

 社長も店の人たちも、いい人ばかりだった。
 八百屋は、夕方に混雑する。
 次々と野菜の値段が下がるからだ。
 大勢の客が押し寄せる中で、俺は楽しんだ。
 本当に忙しいと、こんなにも人間は楽しいものか。
 奈津江も、しょっちゅう客が並んで大変なことになっていた。
 今日は奥さんが一緒だったから良かったが、一人になったらどうしようと言っていた。
 
 「あなた! 今日の売り上げはいつもの3倍よ!」
 「そうかぁ!」
 「奈津江ちゃんがいたからよ! 綺麗なもんだから、みんな買いに来てくれて!」

 奈津江が喜んだ。

 「石神くんもなー。みんなお客さんが石神くんに行くんだよ」
 「やっぱりねー!」

 奈津江が怖い顔をした。

 俺も奈津江も、すぐに仕事に慣れた。
 オレンジの箱は、一つ20キロある。
 奈津江では運べないので、俺が時々様子を見に行って、倉庫から運んだ。
 行列が出来ている時も、俺が行って手伝った。
 奈津江は俺と一緒にいるのが嬉しくて、呼び込みを一生懸命にやった。

 俺は知らない野菜も多く、社長や店長たちに教えてもらいながら、自分でもちょっとずつ買って料理してみた。
 毎回奈津江にも試食を頼んだ。
 奈津江は喜んだ。
 俺もお客さんへの説明が上手く出来るようになった。
 野菜の見分け方も教わる。
 ただ、あまりそれをお客さんにやると、売れ残りが出てしまう。
 いろんなことを覚えた。
 前の魚屋の人たちとも仲良くなり、他の店の学生のバイトたちとも仲良くなって行った。

 休憩は奈津江と一緒に取らせてくれた。
 それが何よりも嬉しかった。
 昼の1時間の食事休憩と、午後の30分の休憩。
 向かいのビルにある社員食堂で割安のランチを二人で食べたり、時には俺が弁当を作って来た。
 たまに銀座のオシャレな喫茶店に入り、奈津江と楽しんだ。





 奈津江と最も一緒にいた時期。
 毎日、奈津江と一緒にいられ、奈津江と話し、奈津江と笑い、奈津江と楽しんだ。
 俺の最も大事な時期。


 俺たちの最も幸せな時期。
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