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九重の銀三 Ⅱ

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 第一次世界大戦で、欧州が混乱していた時代。
 銀三は20歳前で、大親分「稲妻の蓮司」の下で修業していた。
 蓮司親分は大勢のスリや盗賊の元締めであり、その勢力は警察も抗えない程だった。
 銀三は蓮司親分から気に入られ、直弟子の「黒雲の弥平」に鍛えられていた。
 
 ある日、弥平が銀三を遊郭へ連れて行った。

 「お前もそろそろ、女の味を覚えろ」
 「はい!」

 子どもの頃から蓮司親分に引き取られ、盗みの修業をさせられていた。
 色恋などにはさっぱり縁が無い。
 それでも、男女が何をするのかは知っている。
 初めてのことだが、信頼する弥平に付き従うだけだった。

 遊郭で、弥平はさっさと女と部屋へ行った。
 残された銀三は、座敷で酒を出された。
 間もなく若い女が入って来て、酒の盆を持って銀三について来るように言った。

 綺麗な女だった。
 化粧は濃いが、元々の顔立ちが良いのは分かった。
 女は部屋に入ると、襦袢姿になった。
 銀三に酒を勧める。

 「あんた、綺麗だな」

 思った通りの言葉を口にした。
 女が銀三を見ていた。

 「そうですか?」
 「ああ。あんたみたいな綺麗な人は見たことない」

 女は薄く笑った。

 「こういう場所はよく?」
 「いや、初めてだ。宜しく頼む」
 「まあ!」

 女は嬉しそうに笑った。
 床を敷き、銀三を横たわせる。
 銀三の着物を分け、素肌に自分の肌を重ねた。

 なずがままに、銀三は初めての経験を終えた。
 温かく、幸せな気分になった。

 「ありがとう」
 「え?」
 「今まで味わったことのない幸せな気分だ」
 「!」

 女が自分の名を告げた。

 「セツ」
 「銀三だ」

 


 次の日から、また厳しい修業だった。
 薄刃の鋸で屋根を切り開き、屋敷に忍び込む。
 歩き方や勘働きのやり方。
 全てを徹底的に覚えさせられる。
 弥平はものの数秒で屋根を切り開いた。
 音も一切無い。
 銀三も同じことが出来るように言われた。

 修行の合間に、銀三はセツのことを思い出していた。
 会いに行くことは無かった。
 ただ、思い出した。



 「おい、遊郭へは行っているか?」

 ある日、弥平に問われた。

 「いいえ」
 「そうか」

 弥平は満足そうだった。

 「お前が女に嵌ればそれまでだった。そういう奴は、いずれ大きな失態を犯す。お前はまだ先があるな」
 「ありがとうございます」

 セツを思い出すことは言わなかった。

 弥平に連れられ、また遊郭へ行った。
 別な場所だった。
 銀三はまた女に任せて終わった。
 セツの時のような、幸せな気分は無かった。
 ただ、自分の中に溜まっていたものが外に出た。
 それだけのことだった。

 「〇〇楼のセツを知っているか?」
 「ああ、最近売れてるみたいだねぇ」

 女はセツを知っており、そう言った。

 「でもねぇ。ろくでもない奴が身請けしたがってるらしいよ」
 「そうか」

 銀三にどうすることも出来ない。
 苦界の女に幸せなどあろうはずもない。
 銀三はまた修行に明け暮れた。
 弥平はその成長ぶりと真面目さを蓮司親分に報告した。

 「弥平。お前が見守って銀三にやらせてみろ」
 「はい」

 銀三は初めての「仕事」を任された。
 難なく、銀三は仕上げた。




 幾つかの「仕事」をこなし、銀三は独り立ちを認められた。
 「仕事」の成果は全て蓮司親分に預け、見合った金が銀三に渡される。
 銀三はその金で、セツのいる遊郭へ行った。

 「セツはいるか?」
 「はい。ですが身請けが近いので、もう御客を取ることはありませんよ」

 銀三はそう聞かされ、店を出た。




 その夜。
 銀三はセツの楼に忍び込んだ。
 高い三階建ての屋根に上り、屋根を切り拡げて中へ入った。
 「勘」でセツの部屋を探した。
 足音は無音。
 気配も無い。
 誰も銀三に気付く者は無かった。

 セツの部屋が分かった。
 戸を開き、中へ入る。
 布団にセツは寝ていた。

 「セツ」

 銀三が声を掛けると、セツがすぐに目を覚ました。
 その口に手を置く。

 「静かに。俺と一緒に来い」
 「銀三さん?」
 「お前を外へ連れ出してやる」
 「!」

 セツは頷き、銀三と部屋を出た。
 銀三は軽々とセツを担ぎ、屋根に出てそのまま路地を抜けた。
 セツは自分の重さを感じないような銀三の足に驚いた。

 町を出て、広い草原に出た。

 「銀三さん!」
 「セツ、お前は身請け先に行きたいか?」

 セツは首を振った。

 「ならば俺と来い」
 「はい!」

 

 二人で歩き出した先に、誰かが立っている。
 銀三は懐から小刀を出して身構えた。
 近づいて来る。

 「弥平の兄貴!」
 「銀三、バカな真似をしたな」

 弥平は刀を担いでいた。

 「お前か女を斬らなきゃならん。さて」
 「兄貴! 俺を斬ってくれ!」
 「分かった」

 弥平は鞘を抜き、そのままセツを斬った。

 「セツ!」

 セツを抱き、銀三は倒れる身体を支えた。
 袈裟斬りにされたセツは、もう喋ることも出来なかった。
 精一杯の微笑みを銀三に向けた。
 そのまま息絶えた。

 銀三は抱き締めて泣いた。

 「お前は見張られていたんだ。まだまだ半人前だからな。半人前のうちは、困ったこともやる。早く一人前になれ」

 そう言って弥平は銀三を峯で打った。
 意識を喪った。



 銀三は激しい折檻を受けた。
 だが、痛みは銀三を苦しめなかった。
 銀三の苦しみは一つだけだった。

 三日も責められ、布団に寝かされた。
 目覚めると、枕元に一房の髪があった。
 誰のものか、問う必要も無かった。
 銀三はその髪を握り、また泣いた。



 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



 「兄さん。この世は苦界よ。まあ、兄さんはそのことをよく知ってるみたいだがな」

 話し終えた銀三さんが、そう言った。

 「俺らは地獄から来て、また地獄にいるのよ。だけどなぁ、兄さん。地獄だからって鬼になるこたぁねぇ。そうだよな」
 「はい」
 「地獄だったらよ、そうじゃねぇもんに縋って憧れて。そうやって生きるのもいいもんだ」
 「はい」

 「苦しいのは当たり前。そういうことだからな」
 「はい」

 銀三さんは、俺の肩に手を置いた。

 「銀三さんは、弥平さんを憎くはないんですか?」
 
 銀三さんは笑って俺の肩を叩いた。

 「弥平の兄貴にはそりゃあ世話になった。どうしようもねぇのは、弥平の兄貴だって同じだ。俺が憎いのは、地獄よ。俺はこの年まで、その地獄と戦って来た。そういうつもりだ」


 《 君のいない天国ではなく、君のいる地獄を選ぼう 》


 「なんだい、それは?」
 「スタンダールの言葉です」
 「兄さんは面白いな」

 銀三さんは高らかに笑った。 
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