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別荘の日々: レイも一緒 Ⅳ
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「僕が一番印象が残っているのはですね」
明彦は、ある男性の話をした。
「その人は子どもの頃に親を亡くして、親戚に引き取られたんです。でもそこで酷くいじめられて。ろくに学校も通わせてもらえずに、畑仕事や家事をさせられていたそうです」
中学を卒業し、ある会社に就職したが、給料のほとんどを親戚の家族に奪われた。
子どもの頃から入れられた庭の作業小屋に住まわされ、また仕事先でもみんなに虐められた。
「毎日死にたいと思っていたそうですが、特にその人に酷い虐め方をする上司がいて。ある時に人から聞いた呪い方を実行したそうです」
「どんな?」
「靴の中に相手の名前を書いた紙を敷いて履くんです」
「ああ」
聞いたことがある。
「ある時、和田社長が道ですれ違ったその人の手を掴んだそうです。そして有無を言わさずに近くの定食屋に連れてって、説教したんですよ」
和田社長はすぐに男が何をしているのかが分かったそうだ。
今すぐに靴の中のものを捨てて、二度とやるなと言った。
男は驚いた。
「それはな。確かに相手を呪う。だけど、あなたはもっと酷い目に遭うんだぞ」
「え?」
「あなただけじゃない。あなたを見守ってくれている人たちも酷い目に遭う」
「?」
「心配して心配して、今もあなたの後ろでお二人がおろおろされている。だからな」
男は理解して泣き出した。
虐められてきた思いと共に、そんな自分をいつも心配して見ていてくれた両親への思いだ。
男はそれまでの自分の人生を和田社長に話した。
和田社長も大粒の涙を流して話を黙って聞いていた。
「あなたはよく頑張った。俺に任せろ。必ずなんとかしてやるから」
和田社長はそのまま男の親戚の家に行き、玄関が開かれると即座に怒鳴った。
「この鬼畜共めがぁ! 俺が来たからにはきっちりと償いをさせるからなぁ!」
そう言って、男の小屋から荷物を一緒に持ち、自分の家に連れ帰った。
会社も辞めさせ、自分の会社で働かせた。
男は非常に真面目に働き、和田社長が事業の一部を男に分けて独立させた。
明彦は、時々会社に来る、その人からそういう話を聞いた。
「俺は和田社長に一生返し切れない恩義を頂いたんだ」
明彦は嬉しかった。
また、そういう人が他にも何人もいた。
直接は来なくても、いろいろな場所でそういう恩義を抱く多くの人がいることを知って行った。
和田社長が亡くなって会社が困っている今、その男が一番支えてくれているとのことだった。
俺は明彦の仕事の内容も知るようになり、幾つか他愛ないアドバイスをした。
明彦は元気に退院し、その後もよく手紙をくれ、盆暮れには必ず何か贈ってくれるようになった。
「石神さんに教わった通りにしたら、会社が持ち直しました」
そう言ってくれるが、そこまでのことはしていない。
明彦と和田社長を慕う人たちが頑張ったのだ。
ある日、明彦から結婚式の招待状が届いた。
俺は他に呼ぶべき人も多いだろうと思い、遠慮した。
その代わりに、東郷青児の絵を送った。
若い夫婦には似合うだろうと思った。
後日、明彦から電話が来た。
病院へ掛けてきたのは初めてだった。
まず、素敵な絵をという礼を述べられた。
「石神さん、仕事場までお邪魔して申し訳ありません」
「いいよ。結婚するんだってな! おめでとう!」
「ありがとうございます。ところで、式にはいらしていただけませんか?」
「いや、俺なんかが行ってもなぁ」
「とんでもありません。石神さんに来て欲しくて、一番いい式場を予約したんですから」
「えぇ?」
「石神さんってダンディの極みじゃないですか。だからいらしていただくなら、それなりの式場じゃないとと思って」
「明彦、何言ってんだよ?」
「ご都合が悪いのなら、日程を変えますから」
「おい、何言ってんだ!」
俺は驚き、式には行くと答えた。
明彦はとても喜んでいた。
式場は八芳園だった。
チャペルを借り切って、大きな会場を借りての披露宴だった。
料理も素晴らしい。
相当な費用が掛かっているはずだ。
俺は明彦の会社の社長、そして明彦が話していた和田社長に助けられて独立した男と一緒のテーブルだった。
賓客のテーブルだ。
「あなたが石神先生ですか!」
社長と名刺交換をした。
独立した男とも同様に挨拶する。
「ずっとね、明彦があなたのことばかり話すんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。自分は和田と石神先生のお二人に助けられたって」
「いや、私などは」
「会社が持ち直したのは、石神先生のお陰ですよ。あなたのアイデアと明彦の頑張りで何とかなったんです」
「そんなことは。皆さんと明彦が頑張ったせいでしょう」
俺はずっと二人から礼を言われ、感謝され続けた。
俺は何もやっていないが、明彦は確かに頑張ったらしい。
会社も順調になり、明彦も出世して高級取りになった。
だからこんな豪華な結婚式も出来るのだろう。
みんなに祝われ、非常にいい結婚式だった。
俺はみなさんに挨拶し、帰ろうとした。
「石神さん! 是非うちに寄って下さいませんか?」
「何言ってるんだよ。これから二次会だろ?」
「それは後日にしているんです。ですから、どうか!」
新婦もウェディングドレスのまま、俺に懇願する。
困ったが、あまりにも頼まれるので、少しだけ新居を見せてもらうと言った。
そのつもりで二次会も延期しているのだから断りにくかった。
タクシーで新居に行った。
品川のいいマンションで、6LDKの広い部屋だった。
「いいマンションだなぁ」
「ありがとうございます!」
居間に通された。
見覚えのある絵が一番いい場所に掛けられている。
傍に行くと、金のプレートが脇にあった。
「敬愛する石神高虎様よりの結婚祝い 東郷青児『〇〇〇』 平成〇〇年〇月〇日」
わざわざ作ってくれたらしい。
「あ! 素敵な絵をありがとうございました」
「いや、こんなプレートまで作ってくれたのか」
「はい! もう嬉しくて嬉しくて」
奥さんも笑っていた。
「以前に主人の怪我を治して下さったそうで」
「ああ、別に仕事でやったことだから」
「いいえ。本当は足が動けなくなるはずだったと。それを石神先生が懸命に手術で治してくれたと聞きました」
「そんなことはないよ。明彦の運が良かったんだ」
俺はコーヒーをご馳走になった。
「石神先生に言われた、おもちゃの輸出が本当に当たって。あれで会社は倒産を免れたばかりか、以前にもまして順調で」
「だからそれは明彦たちが頑張ったんだって」
「いいえ! それ以降もいろいろアドバイスしていただいたお陰です」
「主人から、毎日石神先生のお話を伺っているんです。楽しそうに話すんですよ、この人!」
気のいい若い二人で、俺も楽しくなり長い時間話した。
「奥さん、俺は嫁ぐ女性に毎回言っていることがあるんだ」
「まあ、なんですか?」
「それは、「小出しにしろ」ということなんだよ」
「どういうことでしょう?」
「新婚の女性は、みんな一生懸命に大好きなご主人のためにいろいろやろうとする。でもそれも出し切っちゃって疲れちゃって、段々手を抜くようになるんだ」
「なるほど!」
「男の側からすると、女房の愛情が薄れたと感じる。結婚前や新婚の頃はあれこれやってくれたのに、と。おまけにその記憶があるんで、こいつは自分にベタ惚れだと思って、つい甘えるようになり、また自分が偉い、スゴイと勘違いしている」
「アハハハハ!」
「だからな。最初から飛ばさないで、ゆっくりとやるように、ということだ。愛情はあるんだろうけど、それはちゃんと示しながらもやり過ぎないようにな。段々愛を育てて、二人で大きくしろよ」
「分かりました!」
「な! 石神さんはいいだろう!」
「はい!」
夕飯をご馳走するということになり、俺も手伝わせてもらった。
しきりに遠慮されたが、三人で祝おうと俺が言うと、承諾してくれた。
慣れない二人だったので、ほとんど俺が作った。
「美味しい!」
二人とも喜んでくれた。
「石神さん。僕が石神さんに本当に感謝しているのは」
「よせよ! 俺は大したことはしてないよ」
「いいえ! あの日、母に会わせてもらったことは、決して忘れません!」
明彦が退院してしばらく後。
俺は明彦を銀座の風月堂に呼んだ。
明彦の中で、未だに燻っていた思い。
それは自分の両親への気持ちだった。
自分を捨て、一度も会わずに今まで来た。
今更恨みなどはないが、捨てられたという思いはずっと残っていると、ある日寂しそうにそう言っていた。
俺は明彦の母親に会った。
泣いて本心を打ち明けられた。
その気持ちを手紙にして明彦へ送ってくれるように頼んだ。
その一月後。
俺は母親を連れて明彦に会ってもらった。
店に入るなり、明彦は泣き叫んで駆け寄って来た。
言葉にならず、明彦は母親を抱き締めた。
あの日和田社長に言われ、自分が必ず立ち直らせるので、大人になるまで会わないように言われた。
連絡もしない。
その約束を、明彦のために頑なに守った。
気持ちが押さえられずに、何度か会いに行った。
その度に和田社長から断られ、ただ真面目にやっていると言われた。
恐らく、和田社長は真面目に働く明彦を見て、そろそろ会わせるつもりだったに違いない。
しかし、その前に急逝された。
俺は店の人に、事情で会えなかった親子が久しぶりに再会したのだと話した。
ご迷惑を掛けるが、少しこのままにして欲しいと頼んだ。
やがて明彦も落ち着き、母親の気持ちを知って自分が大きな勘違いをしていたと話した。
母親も泣いた。
明彦が結婚を決めたのは、そのすぐ後だったらしい。
自分の生い立ちを思い、自分は家庭など築けない男だと思い込んでいた。
「ですからね、石神さん。私が明彦さんと結婚できたのは、石神さんのお陰なんですよ」
「そんなことはないよ」
奥さんの言葉を否定した。
明彦のような優しい男ならば、結婚もしていただろう。
引き留められながらも、無理に帰った。
タクシーを呼んで、二人にマンションの前まで見送られた。
「じゃあ、二人とも幸せにな」
「大丈夫ですよ」
奥さんが言った。
「明彦さん、いつも言うんです」
「なんて?」
「石神さんに、奥さんを幸せにしろと言われたって」
「あ?」
「「アハハハハハハ!」」
二人が明るく笑った。
なんだか、大丈夫そうだ。
俺も笑ってタクシーに乗り込み、手を振って帰った。
明彦は、ある男性の話をした。
「その人は子どもの頃に親を亡くして、親戚に引き取られたんです。でもそこで酷くいじめられて。ろくに学校も通わせてもらえずに、畑仕事や家事をさせられていたそうです」
中学を卒業し、ある会社に就職したが、給料のほとんどを親戚の家族に奪われた。
子どもの頃から入れられた庭の作業小屋に住まわされ、また仕事先でもみんなに虐められた。
「毎日死にたいと思っていたそうですが、特にその人に酷い虐め方をする上司がいて。ある時に人から聞いた呪い方を実行したそうです」
「どんな?」
「靴の中に相手の名前を書いた紙を敷いて履くんです」
「ああ」
聞いたことがある。
「ある時、和田社長が道ですれ違ったその人の手を掴んだそうです。そして有無を言わさずに近くの定食屋に連れてって、説教したんですよ」
和田社長はすぐに男が何をしているのかが分かったそうだ。
今すぐに靴の中のものを捨てて、二度とやるなと言った。
男は驚いた。
「それはな。確かに相手を呪う。だけど、あなたはもっと酷い目に遭うんだぞ」
「え?」
「あなただけじゃない。あなたを見守ってくれている人たちも酷い目に遭う」
「?」
「心配して心配して、今もあなたの後ろでお二人がおろおろされている。だからな」
男は理解して泣き出した。
虐められてきた思いと共に、そんな自分をいつも心配して見ていてくれた両親への思いだ。
男はそれまでの自分の人生を和田社長に話した。
和田社長も大粒の涙を流して話を黙って聞いていた。
「あなたはよく頑張った。俺に任せろ。必ずなんとかしてやるから」
和田社長はそのまま男の親戚の家に行き、玄関が開かれると即座に怒鳴った。
「この鬼畜共めがぁ! 俺が来たからにはきっちりと償いをさせるからなぁ!」
そう言って、男の小屋から荷物を一緒に持ち、自分の家に連れ帰った。
会社も辞めさせ、自分の会社で働かせた。
男は非常に真面目に働き、和田社長が事業の一部を男に分けて独立させた。
明彦は、時々会社に来る、その人からそういう話を聞いた。
「俺は和田社長に一生返し切れない恩義を頂いたんだ」
明彦は嬉しかった。
また、そういう人が他にも何人もいた。
直接は来なくても、いろいろな場所でそういう恩義を抱く多くの人がいることを知って行った。
和田社長が亡くなって会社が困っている今、その男が一番支えてくれているとのことだった。
俺は明彦の仕事の内容も知るようになり、幾つか他愛ないアドバイスをした。
明彦は元気に退院し、その後もよく手紙をくれ、盆暮れには必ず何か贈ってくれるようになった。
「石神さんに教わった通りにしたら、会社が持ち直しました」
そう言ってくれるが、そこまでのことはしていない。
明彦と和田社長を慕う人たちが頑張ったのだ。
ある日、明彦から結婚式の招待状が届いた。
俺は他に呼ぶべき人も多いだろうと思い、遠慮した。
その代わりに、東郷青児の絵を送った。
若い夫婦には似合うだろうと思った。
後日、明彦から電話が来た。
病院へ掛けてきたのは初めてだった。
まず、素敵な絵をという礼を述べられた。
「石神さん、仕事場までお邪魔して申し訳ありません」
「いいよ。結婚するんだってな! おめでとう!」
「ありがとうございます。ところで、式にはいらしていただけませんか?」
「いや、俺なんかが行ってもなぁ」
「とんでもありません。石神さんに来て欲しくて、一番いい式場を予約したんですから」
「えぇ?」
「石神さんってダンディの極みじゃないですか。だからいらしていただくなら、それなりの式場じゃないとと思って」
「明彦、何言ってんだよ?」
「ご都合が悪いのなら、日程を変えますから」
「おい、何言ってんだ!」
俺は驚き、式には行くと答えた。
明彦はとても喜んでいた。
式場は八芳園だった。
チャペルを借り切って、大きな会場を借りての披露宴だった。
料理も素晴らしい。
相当な費用が掛かっているはずだ。
俺は明彦の会社の社長、そして明彦が話していた和田社長に助けられて独立した男と一緒のテーブルだった。
賓客のテーブルだ。
「あなたが石神先生ですか!」
社長と名刺交換をした。
独立した男とも同様に挨拶する。
「ずっとね、明彦があなたのことばかり話すんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。自分は和田と石神先生のお二人に助けられたって」
「いや、私などは」
「会社が持ち直したのは、石神先生のお陰ですよ。あなたのアイデアと明彦の頑張りで何とかなったんです」
「そんなことは。皆さんと明彦が頑張ったせいでしょう」
俺はずっと二人から礼を言われ、感謝され続けた。
俺は何もやっていないが、明彦は確かに頑張ったらしい。
会社も順調になり、明彦も出世して高級取りになった。
だからこんな豪華な結婚式も出来るのだろう。
みんなに祝われ、非常にいい結婚式だった。
俺はみなさんに挨拶し、帰ろうとした。
「石神さん! 是非うちに寄って下さいませんか?」
「何言ってるんだよ。これから二次会だろ?」
「それは後日にしているんです。ですから、どうか!」
新婦もウェディングドレスのまま、俺に懇願する。
困ったが、あまりにも頼まれるので、少しだけ新居を見せてもらうと言った。
そのつもりで二次会も延期しているのだから断りにくかった。
タクシーで新居に行った。
品川のいいマンションで、6LDKの広い部屋だった。
「いいマンションだなぁ」
「ありがとうございます!」
居間に通された。
見覚えのある絵が一番いい場所に掛けられている。
傍に行くと、金のプレートが脇にあった。
「敬愛する石神高虎様よりの結婚祝い 東郷青児『〇〇〇』 平成〇〇年〇月〇日」
わざわざ作ってくれたらしい。
「あ! 素敵な絵をありがとうございました」
「いや、こんなプレートまで作ってくれたのか」
「はい! もう嬉しくて嬉しくて」
奥さんも笑っていた。
「以前に主人の怪我を治して下さったそうで」
「ああ、別に仕事でやったことだから」
「いいえ。本当は足が動けなくなるはずだったと。それを石神先生が懸命に手術で治してくれたと聞きました」
「そんなことはないよ。明彦の運が良かったんだ」
俺はコーヒーをご馳走になった。
「石神先生に言われた、おもちゃの輸出が本当に当たって。あれで会社は倒産を免れたばかりか、以前にもまして順調で」
「だからそれは明彦たちが頑張ったんだって」
「いいえ! それ以降もいろいろアドバイスしていただいたお陰です」
「主人から、毎日石神先生のお話を伺っているんです。楽しそうに話すんですよ、この人!」
気のいい若い二人で、俺も楽しくなり長い時間話した。
「奥さん、俺は嫁ぐ女性に毎回言っていることがあるんだ」
「まあ、なんですか?」
「それは、「小出しにしろ」ということなんだよ」
「どういうことでしょう?」
「新婚の女性は、みんな一生懸命に大好きなご主人のためにいろいろやろうとする。でもそれも出し切っちゃって疲れちゃって、段々手を抜くようになるんだ」
「なるほど!」
「男の側からすると、女房の愛情が薄れたと感じる。結婚前や新婚の頃はあれこれやってくれたのに、と。おまけにその記憶があるんで、こいつは自分にベタ惚れだと思って、つい甘えるようになり、また自分が偉い、スゴイと勘違いしている」
「アハハハハ!」
「だからな。最初から飛ばさないで、ゆっくりとやるように、ということだ。愛情はあるんだろうけど、それはちゃんと示しながらもやり過ぎないようにな。段々愛を育てて、二人で大きくしろよ」
「分かりました!」
「な! 石神さんはいいだろう!」
「はい!」
夕飯をご馳走するということになり、俺も手伝わせてもらった。
しきりに遠慮されたが、三人で祝おうと俺が言うと、承諾してくれた。
慣れない二人だったので、ほとんど俺が作った。
「美味しい!」
二人とも喜んでくれた。
「石神さん。僕が石神さんに本当に感謝しているのは」
「よせよ! 俺は大したことはしてないよ」
「いいえ! あの日、母に会わせてもらったことは、決して忘れません!」
明彦が退院してしばらく後。
俺は明彦を銀座の風月堂に呼んだ。
明彦の中で、未だに燻っていた思い。
それは自分の両親への気持ちだった。
自分を捨て、一度も会わずに今まで来た。
今更恨みなどはないが、捨てられたという思いはずっと残っていると、ある日寂しそうにそう言っていた。
俺は明彦の母親に会った。
泣いて本心を打ち明けられた。
その気持ちを手紙にして明彦へ送ってくれるように頼んだ。
その一月後。
俺は母親を連れて明彦に会ってもらった。
店に入るなり、明彦は泣き叫んで駆け寄って来た。
言葉にならず、明彦は母親を抱き締めた。
あの日和田社長に言われ、自分が必ず立ち直らせるので、大人になるまで会わないように言われた。
連絡もしない。
その約束を、明彦のために頑なに守った。
気持ちが押さえられずに、何度か会いに行った。
その度に和田社長から断られ、ただ真面目にやっていると言われた。
恐らく、和田社長は真面目に働く明彦を見て、そろそろ会わせるつもりだったに違いない。
しかし、その前に急逝された。
俺は店の人に、事情で会えなかった親子が久しぶりに再会したのだと話した。
ご迷惑を掛けるが、少しこのままにして欲しいと頼んだ。
やがて明彦も落ち着き、母親の気持ちを知って自分が大きな勘違いをしていたと話した。
母親も泣いた。
明彦が結婚を決めたのは、そのすぐ後だったらしい。
自分の生い立ちを思い、自分は家庭など築けない男だと思い込んでいた。
「ですからね、石神さん。私が明彦さんと結婚できたのは、石神さんのお陰なんですよ」
「そんなことはないよ」
奥さんの言葉を否定した。
明彦のような優しい男ならば、結婚もしていただろう。
引き留められながらも、無理に帰った。
タクシーを呼んで、二人にマンションの前まで見送られた。
「じゃあ、二人とも幸せにな」
「大丈夫ですよ」
奥さんが言った。
「明彦さん、いつも言うんです」
「なんて?」
「石神さんに、奥さんを幸せにしろと言われたって」
「あ?」
「「アハハハハハハ!」」
二人が明るく笑った。
なんだか、大丈夫そうだ。
俺も笑ってタクシーに乗り込み、手を振って帰った。
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