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タンデムの女
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2月中旬の金曜日の晩。
子どもたちと映画鑑賞会を終え、俺は庭に出てドゥカティの洗車を始めた。
明日は六花と一緒に流す予定だ。
寒いので、温水を掛けると、当然だが湯気がたつ。
ちょっとドゥカティを風呂にでも入れてやったようで嬉しい。
亜紀ちゃんが来た。
「どうした?」
「ええー、お風呂のお誘いに。エヘヘヘ」
俺は笑いながら、今日は一人で入れと言った。
他の子どもたちは風呂を済ませてから映画を観たが、亜紀ちゃんは俺が入らなかったのでまだだ。
「待ってますよ。梅酒会もありますしね!」
「最近、すっかり梅酒じゃねぇじゃんか」
「アハハハハ!」
一時は「七面鳥会」とか言っていたが、外聞を考えてかまた「梅酒会」に戻った。
まあ、梅酒を飲む時もあるのだが。
亜紀ちゃんは自分もブラシを持って、ドゥカティのタイヤを洗う。
二人で掛かったので、早く終わった。
ワックスを塗り、磨き上げるとうっとりするような赤が輝いた。
俺は満足して、リングシャッターを降ろす。
亜紀ちゃんと風呂に入り、上がってからジン・トニックを作った。
亜紀ちゃんに好きな酒を飲めと言うと、自分にも作って欲しいと言う。
「自分も覚えろよな」
「はい!」
二人でつまみを作る。
鴨肉があったので、炒めてハニーマスタードを塗る。
亜紀ちゃんは豆腐とカイワレでサラダを作った。
ちょっと小腹が減ったので、厚切りのハムを炒め、ピーマン、千切りの人参を軽く炒めて乗せた。
包丁で一口サイズにカットする。
亜紀ちゃんも、薄くスライスしたバゲットに、多めのツナを盛った。
「明日は六花さんと走るんですね」
「ああ。本牧あたりを流そうって言ってるよ」
「いーなー! 私も行きたいなー」
「六花が泣かなきゃな」
「そうなんですよねぇ」
六花は、俺とバイクのツーリングは自分だけの特権(「お仕事」と彼女は言っている)と思っている。
前に亜紀ちゃんや子どもたちを乗せたら泣いた。
理屈ではない。
六花の本能というか、純粋なあの女の大事なものなのだ。
「折角タカさんにライダースーツを作ってもらったのに」
「風花にあげろよ」
「うーん、ちょっと考えます」
俺たちはつまみを食べながらゆっくりと飲んだ。
俺の早いペースで飲むと、亜紀ちゃんもついてくる。
大酒呑みにはしたくない。
もう遅いかもしれんが。
「タカさんの後ろに乗っても、六花さんは許しませんもんね」
「そりゃ、一層だろうよ。出来るのは響子くらいだ」
「あー!」
六花に黙っているという発想は俺たちには無い。
俺も亜紀ちゃんも、六花が大好きなのだ。
「タカさんは昔から誰も乗せなかったんですか?」
「まあ、そうだな。やっぱりバイクは独りで乗るのが最高だよな」
「一人も?」
「そんなことはないよ。緊急時もあったし、例外的に、数人はタンデムで出掛けたりもしたよな」
「それ! 教えて下さい!」
「なんだよ」
「なんか、またいいお話の匂いがします!」
俺は笑って、一人の女の話をした。
「杉本という、小学校の同級生の女の子がいたんだ」
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
小学校6年生の時、俺は知子ちゃんと特別な関係になり、知子ちゃんの親友の杉本とも仲良くなった。
よく休み時間には三人で話していた。
他の女子も集まって来る。
「おい、石神!」
俺は算数の教師の猪俣に呼ばれた。
いきなり殴られる。
「うるせぇんだよ、てめぇは!」
よくそんなことがあった。
猪俣は俺を目の敵にする教師の筆頭だった。
毎日のように殴られる。
うるさい、なまいき、言うことを聞かない。
理由はどうでもいいことで、とにかく俺を殴った。
職員室や、他の教師がいる場ではやらない。
校舎裏に呼び出され、殴られ蹴られることも多かった。
俺は、それを他の教師に言ったことは無い。
俺がうるさくて生意気で言うことを聞かない人間だったからだ。
引っ越して最初の頃、俺は猪俣に可愛がってもらっていた。
算数のことは自分で何とか出来たが、それ以上の高等数学に興味を持っていたからだ。
よく、猪俣に高校程度の数学の質問にも行った。
しかし、俺が微積分をマスターし、アインシュタインの相対性理論に取り掛かる頃から、猪俣の態度が変わった。
最も大きな原因は分かっていた。
俺が、大神田先生という若い女性の先生から可愛がられるようになったことだ。
「石神くんはカッコイイよね!」
よくそう言われ、身体にも触られた。
猪俣は、大神田先生が好きだった。
ある日、給食費の盗難があった。
昔は、子どもたちが毎月学校に給食費を持って来ていた。
朝礼で担任に渡すことになっている。
それが、担任が用事で朝礼に出ず、そのまま体育の授業でみんな着替えて校庭に行った。
戻って来ると、ほとんどの給食費が盗まれていた。
昼休み。
猪俣が俺の教室に来て、俺を黒板前まで引きずって行った。
最初は頬を平手で殴って行く。
「石神! お前が盗んだんだろう!」
「やってません」
言った俺を、拳で殴り始める。
「貧乏なお前がやったに決まっている! 白状しろ!」
俺の顔は見る間に腫れ上がり、右目が見えなくなった。
俺は一切抵抗せずに殴られていた。
「お前ら! 石神が盗んだのを見ているだろう!」
怒鳴る猪俣に、同級生は恐れおののいた。
「全員座って見ていろ! 石神がやったことは分かっているんだ!」
杉本が走って教室を出て行った。
教頭や担任を呼んでくる。
「猪又先生! 何をしているんですか!」
「杉本! てめぇ!」
走り寄って杉本を殴ろうとする猪俣の前に俺が立ち、俺がまた殴られ、蹴られた。
「猪又先生!」
教頭と担任の島津先生が猪俣を押さえつけ、連れ出した。
俺は床に崩れた。
「石神くん!」
叫ぶ杉本に無理に笑顔を作った。
「ありがとう、杉本」
それだけ言って、俺は意識を無くした。
今であれば大問題だが、教師が生徒を殴るのは日常的な時代だった。
流石に猪俣から頭を下げられたが、それで終わりだった。
後日、ある同級生が犯人であることが分かった。
駄菓子屋で大量に買い食いをし、仲間にも盛大に奢っていた。
それを不審に思った駄菓子屋の店主が学校へ連絡し、給食費を盗んだことを白状した。
その後知子ちゃんは引っ越し、杉本も引っ越した。
俺は杉本への感謝を忘れたことは無かった。
あんなに恐ろしい猪俣に逆らって、俺のことを助けてくれた。
猪俣は俺に恐怖で認めさせようと考えていたのだろうが、俺は嘘の告白をすることは無かっただろう。
結果的に、俺は何かの障碍を負ってかもしれないし、もしかしたら死んでいたかもしれない。
杉本は恩人であり、俺が敬愛する人間になっていた。
子どもたちと映画鑑賞会を終え、俺は庭に出てドゥカティの洗車を始めた。
明日は六花と一緒に流す予定だ。
寒いので、温水を掛けると、当然だが湯気がたつ。
ちょっとドゥカティを風呂にでも入れてやったようで嬉しい。
亜紀ちゃんが来た。
「どうした?」
「ええー、お風呂のお誘いに。エヘヘヘ」
俺は笑いながら、今日は一人で入れと言った。
他の子どもたちは風呂を済ませてから映画を観たが、亜紀ちゃんは俺が入らなかったのでまだだ。
「待ってますよ。梅酒会もありますしね!」
「最近、すっかり梅酒じゃねぇじゃんか」
「アハハハハ!」
一時は「七面鳥会」とか言っていたが、外聞を考えてかまた「梅酒会」に戻った。
まあ、梅酒を飲む時もあるのだが。
亜紀ちゃんは自分もブラシを持って、ドゥカティのタイヤを洗う。
二人で掛かったので、早く終わった。
ワックスを塗り、磨き上げるとうっとりするような赤が輝いた。
俺は満足して、リングシャッターを降ろす。
亜紀ちゃんと風呂に入り、上がってからジン・トニックを作った。
亜紀ちゃんに好きな酒を飲めと言うと、自分にも作って欲しいと言う。
「自分も覚えろよな」
「はい!」
二人でつまみを作る。
鴨肉があったので、炒めてハニーマスタードを塗る。
亜紀ちゃんは豆腐とカイワレでサラダを作った。
ちょっと小腹が減ったので、厚切りのハムを炒め、ピーマン、千切りの人参を軽く炒めて乗せた。
包丁で一口サイズにカットする。
亜紀ちゃんも、薄くスライスしたバゲットに、多めのツナを盛った。
「明日は六花さんと走るんですね」
「ああ。本牧あたりを流そうって言ってるよ」
「いーなー! 私も行きたいなー」
「六花が泣かなきゃな」
「そうなんですよねぇ」
六花は、俺とバイクのツーリングは自分だけの特権(「お仕事」と彼女は言っている)と思っている。
前に亜紀ちゃんや子どもたちを乗せたら泣いた。
理屈ではない。
六花の本能というか、純粋なあの女の大事なものなのだ。
「折角タカさんにライダースーツを作ってもらったのに」
「風花にあげろよ」
「うーん、ちょっと考えます」
俺たちはつまみを食べながらゆっくりと飲んだ。
俺の早いペースで飲むと、亜紀ちゃんもついてくる。
大酒呑みにはしたくない。
もう遅いかもしれんが。
「タカさんの後ろに乗っても、六花さんは許しませんもんね」
「そりゃ、一層だろうよ。出来るのは響子くらいだ」
「あー!」
六花に黙っているという発想は俺たちには無い。
俺も亜紀ちゃんも、六花が大好きなのだ。
「タカさんは昔から誰も乗せなかったんですか?」
「まあ、そうだな。やっぱりバイクは独りで乗るのが最高だよな」
「一人も?」
「そんなことはないよ。緊急時もあったし、例外的に、数人はタンデムで出掛けたりもしたよな」
「それ! 教えて下さい!」
「なんだよ」
「なんか、またいいお話の匂いがします!」
俺は笑って、一人の女の話をした。
「杉本という、小学校の同級生の女の子がいたんだ」
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
小学校6年生の時、俺は知子ちゃんと特別な関係になり、知子ちゃんの親友の杉本とも仲良くなった。
よく休み時間には三人で話していた。
他の女子も集まって来る。
「おい、石神!」
俺は算数の教師の猪俣に呼ばれた。
いきなり殴られる。
「うるせぇんだよ、てめぇは!」
よくそんなことがあった。
猪俣は俺を目の敵にする教師の筆頭だった。
毎日のように殴られる。
うるさい、なまいき、言うことを聞かない。
理由はどうでもいいことで、とにかく俺を殴った。
職員室や、他の教師がいる場ではやらない。
校舎裏に呼び出され、殴られ蹴られることも多かった。
俺は、それを他の教師に言ったことは無い。
俺がうるさくて生意気で言うことを聞かない人間だったからだ。
引っ越して最初の頃、俺は猪俣に可愛がってもらっていた。
算数のことは自分で何とか出来たが、それ以上の高等数学に興味を持っていたからだ。
よく、猪俣に高校程度の数学の質問にも行った。
しかし、俺が微積分をマスターし、アインシュタインの相対性理論に取り掛かる頃から、猪俣の態度が変わった。
最も大きな原因は分かっていた。
俺が、大神田先生という若い女性の先生から可愛がられるようになったことだ。
「石神くんはカッコイイよね!」
よくそう言われ、身体にも触られた。
猪俣は、大神田先生が好きだった。
ある日、給食費の盗難があった。
昔は、子どもたちが毎月学校に給食費を持って来ていた。
朝礼で担任に渡すことになっている。
それが、担任が用事で朝礼に出ず、そのまま体育の授業でみんな着替えて校庭に行った。
戻って来ると、ほとんどの給食費が盗まれていた。
昼休み。
猪俣が俺の教室に来て、俺を黒板前まで引きずって行った。
最初は頬を平手で殴って行く。
「石神! お前が盗んだんだろう!」
「やってません」
言った俺を、拳で殴り始める。
「貧乏なお前がやったに決まっている! 白状しろ!」
俺の顔は見る間に腫れ上がり、右目が見えなくなった。
俺は一切抵抗せずに殴られていた。
「お前ら! 石神が盗んだのを見ているだろう!」
怒鳴る猪俣に、同級生は恐れおののいた。
「全員座って見ていろ! 石神がやったことは分かっているんだ!」
杉本が走って教室を出て行った。
教頭や担任を呼んでくる。
「猪又先生! 何をしているんですか!」
「杉本! てめぇ!」
走り寄って杉本を殴ろうとする猪俣の前に俺が立ち、俺がまた殴られ、蹴られた。
「猪又先生!」
教頭と担任の島津先生が猪俣を押さえつけ、連れ出した。
俺は床に崩れた。
「石神くん!」
叫ぶ杉本に無理に笑顔を作った。
「ありがとう、杉本」
それだけ言って、俺は意識を無くした。
今であれば大問題だが、教師が生徒を殴るのは日常的な時代だった。
流石に猪俣から頭を下げられたが、それで終わりだった。
後日、ある同級生が犯人であることが分かった。
駄菓子屋で大量に買い食いをし、仲間にも盛大に奢っていた。
それを不審に思った駄菓子屋の店主が学校へ連絡し、給食費を盗んだことを白状した。
その後知子ちゃんは引っ越し、杉本も引っ越した。
俺は杉本への感謝を忘れたことは無かった。
あんなに恐ろしい猪俣に逆らって、俺のことを助けてくれた。
猪俣は俺に恐怖で認めさせようと考えていたのだろうが、俺は嘘の告白をすることは無かっただろう。
結果的に、俺は何かの障碍を負ってかもしれないし、もしかしたら死んでいたかもしれない。
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