上 下
434 / 2,806

四度目の別荘 Ⅷ:プリンのおじちゃん

しおりを挟む
 蓼科文学は東大医学部を卒業後、港区の大きな病院に入った。
 大学での成績は優秀で、病院でもかなり期待されてはいた。
 しかし、それ以上の成果を文学は上げていく。
 研修期間を終え、中堅の先輩医師の立ち合いの下、最初に施術したのは重度の胃潰瘍の患者だった。
 既に穿孔があることが予想され、緊急手術となった。

 立ち会った先輩医師が見たのは、驚くべきものだった。
 文学はレントゲンで確認された穿孔よりも、胃の裏側を先に確認する。

 「蓼科、まず穴を塞げ」
 そう指示する先輩医師に、蓼科は患者の胃の裏側を見せた。
 腫瘍があった。
 オペは即座に腫瘍摘出に切り替わり、さらに発見されていない十二指腸の穿孔も塞がれた。
 患者は一命を取り留めた。

 文学の活躍は、次第に大きく評価され、難手術もまかされていく。




 30代になってすぐのことだった。
 救急搬送された6歳の子どもの緊急手術が行われた。
 マンションの5階のベランダから落ち、折れた肋骨が脊髄に突き刺さっていた。
 更に別な肋骨が、心臓の冠動脈に刺さっている。
 幸いに動脈は破れてはいないが、いつ貫通するか予断を許さない。
 12時間の長時間オペにより、心臓の骨片は取り除かれ、脊髄も神経を傷つけることなく骨を切り離した。
 オペを終えて手術室を出た文学は、状況を説明すべき相手がいないことを知った。

 「母親が搬送に同伴していましたが、用事があると言ってすぐに帰られました」
 「なんだと?」
 受付をしたナースから、金髪に髪を染めた派手な化粧の女性だったことを聞く。
 翌朝、文学が出勤すると、昨日救急搬送された子どもの母親が来たと知らされた。

 文学は病室に行った。



 「あー、先生ですかぁ? ありがとうございました。息子はすぐに引き取りますんで」
 上下ジャージ姿の女性が言った。
 自己紹介もない。
 ナースに聞いた通り、金髪に派手な化粧だった。
 右目に殴られた痕があった。
 青黒く内出血している。

 「〇〇さん。無茶言ってはいけません。息子さんは絶対安静です。動かせば命に関わります」
 「そんなこと言ったって、主人に言われてますから。それに、入院費用を支払えませんよ?」
 「何言ってるんですか! 息子さんの命に関わるんですよ!」
 「ちゃんと大事に運びますって。ほら聡、帰るから起きな!」
 文学は子どもを揺する母親を止め、追い返した。
 警備の人間に連れ出される時、母親が言った。

 「入院費は出せませんって、ちゃんと言ったからな!」

 (どす黒い色だ。あんな奴は滅多に見ない)
 文学は自分が見た色を思い、背筋が寒くなった。

 

 聡の入院中、母親も父親も一切見舞いに来なかった。
 経理から手術費用と当座の入院費用の請求が行ったが、それに対する連絡も無かった。
 ある日、文学が聡の病室に行くと、昼食を食べていた。
 最初は他の子どもが動かしてはいけないと、個室であったが、今は4人部屋に移っている。
 聡の経過は良好で、介護器具は使うが、すでに自分で歩行できるようになった。
 搬送時の状態を考えれば、あり得ないほどの治癒経過だった。

 「聡くん、調子はどうかな?」
 「先生! はい、いいです」
 素直な子どもだった。
 同室の子どもは文学の顔を見ると怯えることもあったが、聡はいつもニコニコと迎えてくれる。
 食事にプリンがついていた。
 食事は終わっているが、まったく手が付けられていない。

 「聡くんはプリンが嫌いなのかな?」
 「ううん。最後にね、楽しみにとってたの。食べたいのをがまんすると、食べたときにうれしいの」
 「そうかぁ」
 文学は笑って聡の頭をそっと撫でた。

 その日、上司の外科部長と経理の人間とに呼ばれた。

 「〇〇聡の件だけどな」
 上司が言った。

 「どうも親が費用を支払う気が無いらしい。督促状も数度送ったが、無視されている。これ以上は病院でも預かるわけにはいかないんだ」
 「でも部長! 患者はまだ快癒したわけではありません。しばらくは治療と経過観察が必要です!」
 文学は即座に反対した。

 「分かっている。しかし我々も慈善事業ではないのだ」
 「部長、患者は虐待を受けているかもしれません」
 「何?」
 「身体に複数のあざがありました。それにあの異常な痩せ方は……」
 「やめろ。あざは落下の時のものだろう。それに証拠がないことは何もできん」
 何度も撤回を求めたが、聡の退院は決定された。
 連絡を受けて、翌日母親が来た。

 「どーもお世話に! でもあんたらが勝手にやったことだからね。お金は払えないよ!」
 それだけを言って、出て行った。
 経理の人間が追いかけていったが、邪険に無視された。

 裁判で請求するらしい。
 文学はそれよりも、聡のことを考えていた。




 休日に、聡の住所を調べた文学は、六本木に向かった。
 医者としては違法に近い行為だったが、文学は止まれなかった。
 一応サングラスとマスクで変装はしていた。
 古いマンションだった。
 エレベーターもないので階段を上がり、5階の部屋へ向かう。
 チャイムを押しても誰も応答が無い。
 何度か押して、留守なのかと思った。
 
 「聡くん! いないのかな!」
 薄いドアの向こうで、物音がする。
 ドアが細く開いた。

 「誰ですかー?」
 「僕はある人に頼まれて、聡くんの様子を見に来たんだ。顔を見せてくれるかな?」
 ドアが開いた。

 「あのね、絶対に出ちゃいけないって言われてるの。でも名前を呼ばれたから」
 「そうか。すぐに帰るから大丈夫だよ」
 聡は不安そうにしている。

 文学は中を見た。
 キッチンの他に奥に部屋がある。
 六畳間だ。
 ゴミ袋が散乱していた。
 閉め切った部屋の中に、微かな腐敗臭と共に男女の体液の臭いがする。
 聡はまた痩せたようだ。
 
 「聡くんは元気かな?」
 「うん」
 誰かと話してもいけないと言われているのだろう。

 「ほら、プリンを持って来たよ。聡くん、好きだろう?」

 聡の顔が明るくなった。
 文学はプリンなど買ったこともない。
 コンビニで買った。

 「うん!」
 「じゃあ、後で食べてね。ああ、食べ終わったら隠してね。僕はまた来るよ」
 「うん! ありがとう!」
 聡は笑った。



 毎週、文学は聡のマンションに通った。
 チャイムでは出ないが、文学が聡を呼ぶと、嬉しそうな顔で聡がドアを開いた。

 「プリンのおじちゃん!」
 聡は文学をそう呼んだ。
 毎回聡は痩せているように見えた。
 一度顔にあざがあり、聞くと聡は押し黙った。


 二か月後。


 学会があり、二週間ぶりで文学は聡のマンションに行った。
 しかし、文学が呼んでも、聡は出てこなかった。

 (出かけているのだろうか)

 チャイムを何度か押した。
 ドアを何度もノックした。
 隣の住人が顔を出した。

 「あ、すみません。うるさかったですかね」
 パーマに寝間着の中年の女性だった。

 「あんた、この家に用事があるの?」
 「はい」
 「警察の人?」
 「いいえ?」
 女性はため息をついた。

 「その家さ、先週事件があったのよ」
 「え!」
 「前から子どもを虐めてたんだけど、ついに殺しちゃったのよね。ベランダから放り出したんだって」
 「!」

 「あたしもさ、かわいそうじゃない。時々様子をみて、子どもに何か食べさせたりもしてたの。まあ、夜の仕事なもんであんまりはね」
 「……」
 「かわいそうだよ。あんな小さい子をなにもねぇ。保険金がらみだったらしいよ」
 文学は立っているのも辛かった。
 女性に礼を言い、去ろうとした。

 「そうえばさ。ちょっと前にあの子が言ってたわ。「プリンのおじちゃん」が来るんだって。毎週、そりゃもう楽しみだって言ってたよ。もしかして、あんたが持ってるのプリンなんじゃない? あんたがプリンの人なのかい?」

 文学は深々と頭を下げて、マンションを離れた。
 後ろから女性が大きな声で話しているのが聞こえた。

 「あの子さー! 毎週土曜日になるとずっとベランダであんたをまってたんだよー!」

 文学の目から涙が溢れた。



 その日、文学は生まれて初めて酒を飲んだ。
 自動販売機のビールを飲んだ。
 半分も飲まないうちに意識をなくした。



 気が付くと、病院のベッドにいた。
 自分の病院ではない。
 ナースコールのボタンを押すと、看護師が来た。

 「路上で倒れていたので運ばれたんですよ?」
 「御迷惑をおかけしました」
 「お財布もなくて、お名前も分からなくて」
 財布は誰かに盗まれたらしい。
 文学は名乗り、妻の静子に連絡してもらった。
 まだ気分が悪い。
 枕元に、プリンの入った袋が置いてあった。

 そしてまた文学は泣いた。






 タクシーで駆けつけて来た静子は、文学がベッドで泣いているのを見た。

 何も聞かずに、文学をそっと抱き締めた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

まさか、、お兄ちゃんが私の主治医なんて、、

ならくま。くん
キャラ文芸
おはこんばんにちは!どうも!私は女子中学生の泪川沙織(るいかわさおり)です!私こんなに元気そうに見えるけど実は貧血や喘息、、いっぱい持ってるんだ、、まあ私の主治医はさすがに知人だと思わなかったんだけどそしたら血のつながっていないお兄ちゃんだったんだ、、流石にちょっとこれはおかしいよね!?でもお兄ちゃんが医者なことは事実だし、、 私のおにいちゃんは↓ 泪川亮(るいかわりょう)お兄ちゃん、イケメンだし高身長だしもう何もかも完璧って感じなの!お兄ちゃんとは一緒に住んでるんだけどなんでもてきぱきこなすんだよね、、そんな二人の日常をお送りします!

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

こども病院の日常

moa
キャラ文芸
ここの病院は、こども病院です。 18歳以下の子供が通う病院、 診療科はたくさんあります。 内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc… ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。 恋愛要素などは一切ありません。 密着病院24時!的な感じです。 人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。 ※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。 歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

処理中です...