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アベルさん

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 アベルさんは、俺の担当患者ではなかった。

 俺は院長命令で、「小児科講義」と呼ばれている、小児科の医師たちに講義と実践を不定期でしている。
 その日、俺は小児科の医師たちと一緒に子どもたちを病院の屋上で遊ばせていた。
 一人一人と話し、その会話の内容を医師たちに聞かせる。
 子どもとどう対峙し、どうやってストレスを見つけ、それを緩和するのか。
 基本は、子どもと対等に話すことだ。

 子どもたちの反応がいいので、俺は調子に乗って歌まで披露した。
 小林旭の『惜別の歌』を歌った。
 入院している子どもの前で、とも思ったが、出てきてしまったんだからしょうがねぇ。
 俺は適当な人間だった。

 「どうだ、小林旭に似てただろう!」
 「えー、全然知らない」
 「かぁー! だからお前らは病気になっちゃうんだぞ!」
 「石神先生、いくらなんでも」
 「あ、そうか。いや悪い悪い、今のナシ!」
 子どもたちが爆笑した。
 歌い終えて、また子どもたちと話していると、初老の入院患者の男性が近づいて来た。

 「すいません。先生のお話が面白くて、つい聞き入ってしまいました」
 その人は名前を名乗り、そう説明した。

 「先生が一人一人の子どもたちと真剣に話されているので、驚きました」
 「子どもがお好きなんですね」
 「はい」

 その人は伊豆大島に住んでおられ、土建屋をしていると言った。
 170センチくらいの身長で、筋骨たくましい、いかにも土建屋という男性だった。
 そして、話し方が優しい。
 子どもたちを小児科の医師たちに病室に戻させ、俺はその男性と話を続けた。

 男性はあるキリスト教系の新興宗教の信徒であることを言い、そこでの名「アベル」と呼んで欲しいと言った。
 
 「若い頃は喧嘩っ早くて。友人が宗教にはまったと聞いて、殴り込んだんですよ」
 「ああ、俺も喧嘩ばかりで、恥ずかしながら今も疼くバカなんです」
 俺たちは笑った。

 「でもね、先生。殴り込みに言ったら、逆に説教されまして。自分はシャベルカーで行って。ツルハシ持ってメチャクチャに壊そうとしてるのに、その人はにこやかに話し続けたんです」
 「なるほど」
 「それでいつの間にかその話に聞き入って。その場で入信したんです」
 「そりゃ、俺に劣らずバカですね!」
 アベルさんは嬉しそうに笑った。

 アベルさんとは、その後もよく話すようになり、親しくなった。
 アベルさんは「上顎洞がん」だった。




 院長から呼ばれた。

 「お前、○○さんという患者さんと親しくなったって?」
 「はい」
 俺は担当医からカルテを見せてもらったりもし、アベルさんと話すことの了承を得ていた。

 「あの患者さんは治療を拒否しているそうだ」
 「そうなんですか?」
 「ああ。手術すれば摘出できると何度も説明したが、本人が拒んでいる。お前、話してみてくれないか」
 「分かりました」

 アベルさんは検査入院でここに入ったが、先日悪性腫瘍が見つかった。
 まだステージは2で、しかも上顎洞がんだったので、比較的簡単なオペで摘出できる。
 しかし、本人は治療は必要ないと言ったらしい。

 「アベルさん。話は聞きましたよ。折角助かる命なのに、手術は必要ないっていうことで」
 「石神先生。わざわざその話で来て下さったんですか」
 「当たり前ですよ。アベルさんとは親しくなったんですから」
 「でもね、先生。申し訳ないんですが、もう自分はいいんです」
 「良かったら話してくれませんか?」
 アベルさんは、吶々と語りだした。

 アベルさんは結婚し、二人の女の子がいた。
 上は成人し、下は高校生とのことだった。
 家族仲は良かったが、アベルさんが新興宗教に入り、そこから上手く行かなくなった。
 一時は家族全員が入信したらしいが、奥さんが嫌気がさし、娘たちと一緒に辞めた。
 アベルさんも散々説得されたそうだが、信仰を捨てる気はなかった。

 家の中が段々険悪になり、奥さんと娘たちは家を出て行ったそうだ。

 「自分が若い頃に散々女房に迷惑をかけ、宗教に入って偉そうなことを言ってたんです。捨てられて当然ですよね」
 「そうだったんですか」

 決定的なことがあった。
 新興宗教で、アベルさんを非常に慕っている子どもがいた。
 中学生の彼はトランスジェンダーで、女性としてアベルさんを愛した。

 「最初は男性なのに女性としか思えないという、その子の悩みを聞いていたんです。それでもいいじゃないか、ここには信仰の仲間もいるし、自分だったらいつでも悩みを聞くよって。それが次第に自分に気持ちが向いてしまって」

 その後、大島のアベルさんの家に突然来て、肉体関係を迫った。
 それを奥さんに見つかり、翌日家を出て行かれた。

 「その子とはその後は?」
 「はい、説得して返しましたが、連絡は取り合っています。自殺をいつも考えている子なんで、放っておけないんです」
 「そうですか」

 「もう、自分は生きていてもしょうがないんですよ。唯一の心残りはその子のことですが、自分が死んだら新しい人生に進んでくれるかもしれません」
 そうは思えなかったが、アベルさんの苦しみは分かる。

 「石神先生は、やっぱり自分に手術を受けろとおっしゃいますか?」
 「それはアベルさんが決めればいいんですよ。人間はいつだって自分で決めるだけです。それでいいんですよ」
 アベルさんは俺の手を取って涙を流した。


 「ありがとうございます」


 俺はアベルさんに治療ではなく、痛みを緩和することはやらせて欲しいと言い、何かあったらすぐに自分に連絡をくれと言った。
 俺の個人の連絡先も教えた。
 治療の意志のないアベルさんは間もなく退院し、大島に帰って行った。

 その後も、俺とアベルさんは電話で時々話すようになり、俺はアベルさんの腫瘍の進行を何気ない会話の中から注意深く汲み取った。








 アベルさんは、じきに痛みを抑えきれなくなっていった。
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