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緑子、移籍。 Ⅱ

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 俺は新しい病院へ移った。
 蓼科文学医師に誘われてのことだった。

 緑子とはよく一緒に食事をしたり、飲みに行った。
 俺が病院を変わる話をすると、興味も無さそうに言った。
 「へぇー」

 まあ、別に祝って欲しいわけでも、おめでとうの言葉もいらなかった。
 ただ、報告しただけだ。




 俺たちが飲むのは、必ず新宿だった。
 最初に出会った、俳優の卵たちが集まる店ではなかったが、その周辺で飲むことが多かった。
 別に緑子がいる下北沢でも良かったし、俺が一人暮らしを始めた中野でも良かった。
 なぜか新宿、しかもあの店の周辺だった。

 「あんたはいいわよねー、安定した道があってさ」
 「どうだ、いいだろう!」
 緑子のパンチが飛ぶ。

 「ねぇ、私が失敗したら養ってよ」
 「やだよ」
 「あんた冷たいわよ!」
 「そうだけど?」
 緑子のパンチが飛ぶ。

 
 「俺は多分、結婚しないよ」
 「そんな」
 「分からないってか? その通りだよ」
 「……」


 「お前、分かった人生を生きてぇのかよ」
 「だって」

 「俺はご免だよなぁ。そんなつまらねぇ人生なんか」
 緑子はビールのグラスを傾けた。

 「安定、安心、安全、保証。そんなもの、お前欲しいのか?」
 「だって」

 「お前、なんで女優になりたいって思ったんだよ」
 「そんなの、今じゃもう」

 「だからお前はダメなんだよ!」
 緑子のパンチが飛ぶ。



 「石神は強いからさ」
 緑子は目に涙を浮かべて言った。
 
 「もし俺が強いとしたらよ。ただ決めてるだけだかだと思うぞ」
 緑子は泣いている。

 「戦前のさ、日本人の芸術家。まあ画家でも文学でも、大体二十代、三十代で死んでるよな。みんな結核か肺炎よ」

 「要は栄養失調だ。人間ってさ、食えなくなると痩せ細って、段々体力、気力がなくなる。その先はどんどん弱っていって、最後は心肺機能を維持するために、免疫機構を閉じる。そこで大体感染症で死ぬのな」

 「ちょっと頭のある人間は、食えなくなったら稼ごうとするよ。だけど、そのために芸術は捨てなきゃならん。捨てなかった連中が野垂れ死ぬわけだ」

 「お前はそういう人間を否定するか?」
 「……」

 緑子はグラスを飲み干した。



 「あたしはやっと研究生になったけど、この先もずっと競争よ。手を抜けば簡単に追い落とされる。そうじゃなくても、あたしより優秀な人間が出てくれば同じことよ」
 「そうだよな」
 「でも、辞められない。ねぇ石神、決めたら悩まなくていいの?」

 「そんなわけねぇだろう。野垂れ死んだ芸術家だって、偶然生き延びた芸術家だって、みんな一生悩んでるじゃないか」
 「そうか」
 「辛くねぇ人生はないんだよ、ヘッポコ!」
 緑子のパンチが飛ぶ。


 俺たちは店を出た。
 店の中では気付かなかったが、外は土砂降りの雨だった。
 二人とも傘はない。

 「ほらな。人生は辛いんだって」
 緑子の蹴りが飛んだ。


 「なあ、俺のマンションへ来いよ」
 「あんたねぇ、気が弱ってる女を連れ込もうとして!」
 「だって、お前。やると元気でるじゃん」
 「ぶっ殺す!」
 殴りかかる緑子から逃げて、俺たちはずぶ濡れになった。
 
 そのまま、歩いて俺のマンションへ向かった。






 「お前、また安定を求めてるのかよ」
 緑子のパンチが飛ぶ。


 「やっと思い出したわよ! あんたが嫌な奴だってことをね!」


 「じゃあ、子どもたちと遊んでやってくれよ。ああ、化粧は直してな」
 緑子のパンチが飛んだ。





 「ねぇ」
 「あんだよ」
 「あの日の後のことも覚えているでしょうね」
 「おう! 任せろ!」





 緑子はちょっとだけ笑顔を見せて階段を上がって行った。
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