108 / 2,840
皇紀、ドライブ Ⅲ
しおりを挟む
「俺が子どもの頃に病気ばっかりしてたのは、前に話したよな」
「はい、聞きました。今からだと想像もつきませんが」
「俺もそう思うよ。だけどな、病気ばっかりしてたから、免疫力が高まった、ということもあるんだと思うぞ」
「そうなんですか」
「ああ、スポーツで身体を鍛えるのと同じよな。だから今でも過剰反応のようなものはある」
「過剰反応?」
「うん、ちょっとカゼをひいても、40度くらいの熱がでるんだよ」
「大丈夫なんですか?」
「全然へいき」
「アハハハ」
「そういうわけで、子どもの頃は入院ばかりしていたんだけど、ある時、静馬くんという高校生と一緒になったんだ。ちょうど皇紀と同じ小学5年生だったよな」
「へえー」
「その静馬くんはものすごく頭のいい人で、俺にいろいろなことを教えてくれた。その時に、ニーチェの話も聞いたんだ」
「そうだったんですね」
俺たちは外堀通りから新宿通りに入っていた。
「本当にいろいろなことを知ってる人だったんだけど、特にニーチェに心酔していて、ニーチェの言葉を暗誦してたんだ。ドイツ語でもな。俺は毎日のように、それを聞かせてもらってた」
「ドイツ語ですかぁ」
「当時、高校まで行く人って、いまよりもずっと少なかったんだよ。だから行く人はエリートよな。中でも、静馬くんが通ってた高校は優秀な高校だったからなぁ」
俺は、静馬くんとの短い日々を皇紀に話してやった。
チョウさんのエロ本の話は、大爆笑だった。
車は青梅街道に入った。もう家は近い。
俺は高層ビル群の中で車を停め、外に出て、ベンチに座って皇紀と話し続けた。
「ニーチェが何で偉大なのかと言うと、近代で人間がダメになることを予見し、その解決法を示唆したからなんだよ」
「すいません、全然分かりません」
「中世までは神が中心だった。そこから人間中心の近代に移った、という話はしたよな」
「はい、覚えています」
「それと、映画『十戒』を見せた時に、人間は常に自分の上の存在が必要だ、という話をしたよな」
「ああ! そう繋がっているんですね」
「そうだ。人間は近代以降、宗教、神を喪ってしまい、自分の上の存在がなくなってしまったんだ。そのことを逸早く気付き、警鐘を鳴らした人々がいる。当時のインテリたちだな」
土曜日で出勤していた人なのか、近くのベンチで若い女性がスマホを見ていた。
「ニーチェがその中でも圧倒的なのは、非常に具体的に近代の崩壊原因を述べたことにある」
「どう言ったんですか?」
「有名な言葉だよ。「神は死んだ(Gott ist tot)」という言葉だ。ゴット・イスト・トート、というな」
「何か怖いですね」
「そうだな。そしてニーチェは、その神が死んだ前提で、思想を語りだすんだ」
ベンチの女性が、こちらをチラチラと見ていた。
まあ、普通の話じゃないし、話してる相手は小学生だからなぁ。
「そのニーチェは、実は大変敬虔なキリスト教者だったんだよ」
「え、そうなんですか」
「うん。父親が牧師だったんだよな。だから小さい頃からキリスト教への深い信仰があった。それを捨てたわけだ。そして
そのことは、ニーチェを生涯苦しめ続けた」
「はぁー」
ベンチの女性が近づいてくる。俺は話を止めた。
「あのぅ」
「はい」
「先ほどからすごいお話が聞こえてきて、よろしければ一緒に聞かせていただいてよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。面白いかどうかは知りませんけど」
皇紀がきょとんとしている。
「いいえ、非常に興味深いお話でした。是非お願いします」
俺と皇紀は少し移動し、女性が座るスペースを空けた。
「「神は死んだ」というのは、『ツァラトゥストラかく語りき』という著作の中に出てくる。この本は、山の中で思索を重ねたツァラトゥストラが、人の町に降りて宗教道徳をメッタ切りにする、というな」
「どんな宗教の道徳も、「神は死んだ」という事実の前では基盤を喪ってしまうんだ」
「ああ、それは前に聞いた、人間のすべての善悪や価値が宗教によって規定されていた、ということなんですね」
「その通りだ」
女性が驚いた顔で皇紀を見る。
「それが人間中心の思想になった近代の大混乱を示していることは分かるよな」
「はい」
「ニーチェはその大混乱を予見し、それを乗り越える道を示した。それが「超人」ということだ」
俺は「永劫回帰」や「超人」について、いくらか話してやった。
「つまり、自分のすべての喜びも悲しみも、全部を受け入れ、愛せ、ということが永劫回帰なわけだ」
「ああ、「運命への愛」アモール・ファーティですね!」
「そうだよな」
女性は目を丸くして皇紀を見る。
その後も俺は皇紀にニーチェの様々な言葉を説明し、1時間ほども喋っていた。
「今日はこのくらいにしようか。またいろいろ話してやろう」
「お願いします」
女性はぐったりとなっていた。
「すいません、今日はこれで帰ります」
「あ、はい。本当にありがとうございました」
「それでは」
「さよなら」
俺と皇紀はフェラーリに乗り込む。
エンジンをかけ、しばらく暖気してから走りだした。
女性はその間、ずっと俺たちを見ていて、走り出すときに、スマホで写真を撮ったようだ。
家に着いた。
「タカさん、今日は本当にありがとうございました」
「おう、また行こうな」
「是非!」
皇紀は階段を駆け上がった。
姉弟だよなぁ。
「はい、聞きました。今からだと想像もつきませんが」
「俺もそう思うよ。だけどな、病気ばっかりしてたから、免疫力が高まった、ということもあるんだと思うぞ」
「そうなんですか」
「ああ、スポーツで身体を鍛えるのと同じよな。だから今でも過剰反応のようなものはある」
「過剰反応?」
「うん、ちょっとカゼをひいても、40度くらいの熱がでるんだよ」
「大丈夫なんですか?」
「全然へいき」
「アハハハ」
「そういうわけで、子どもの頃は入院ばかりしていたんだけど、ある時、静馬くんという高校生と一緒になったんだ。ちょうど皇紀と同じ小学5年生だったよな」
「へえー」
「その静馬くんはものすごく頭のいい人で、俺にいろいろなことを教えてくれた。その時に、ニーチェの話も聞いたんだ」
「そうだったんですね」
俺たちは外堀通りから新宿通りに入っていた。
「本当にいろいろなことを知ってる人だったんだけど、特にニーチェに心酔していて、ニーチェの言葉を暗誦してたんだ。ドイツ語でもな。俺は毎日のように、それを聞かせてもらってた」
「ドイツ語ですかぁ」
「当時、高校まで行く人って、いまよりもずっと少なかったんだよ。だから行く人はエリートよな。中でも、静馬くんが通ってた高校は優秀な高校だったからなぁ」
俺は、静馬くんとの短い日々を皇紀に話してやった。
チョウさんのエロ本の話は、大爆笑だった。
車は青梅街道に入った。もう家は近い。
俺は高層ビル群の中で車を停め、外に出て、ベンチに座って皇紀と話し続けた。
「ニーチェが何で偉大なのかと言うと、近代で人間がダメになることを予見し、その解決法を示唆したからなんだよ」
「すいません、全然分かりません」
「中世までは神が中心だった。そこから人間中心の近代に移った、という話はしたよな」
「はい、覚えています」
「それと、映画『十戒』を見せた時に、人間は常に自分の上の存在が必要だ、という話をしたよな」
「ああ! そう繋がっているんですね」
「そうだ。人間は近代以降、宗教、神を喪ってしまい、自分の上の存在がなくなってしまったんだ。そのことを逸早く気付き、警鐘を鳴らした人々がいる。当時のインテリたちだな」
土曜日で出勤していた人なのか、近くのベンチで若い女性がスマホを見ていた。
「ニーチェがその中でも圧倒的なのは、非常に具体的に近代の崩壊原因を述べたことにある」
「どう言ったんですか?」
「有名な言葉だよ。「神は死んだ(Gott ist tot)」という言葉だ。ゴット・イスト・トート、というな」
「何か怖いですね」
「そうだな。そしてニーチェは、その神が死んだ前提で、思想を語りだすんだ」
ベンチの女性が、こちらをチラチラと見ていた。
まあ、普通の話じゃないし、話してる相手は小学生だからなぁ。
「そのニーチェは、実は大変敬虔なキリスト教者だったんだよ」
「え、そうなんですか」
「うん。父親が牧師だったんだよな。だから小さい頃からキリスト教への深い信仰があった。それを捨てたわけだ。そして
そのことは、ニーチェを生涯苦しめ続けた」
「はぁー」
ベンチの女性が近づいてくる。俺は話を止めた。
「あのぅ」
「はい」
「先ほどからすごいお話が聞こえてきて、よろしければ一緒に聞かせていただいてよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。面白いかどうかは知りませんけど」
皇紀がきょとんとしている。
「いいえ、非常に興味深いお話でした。是非お願いします」
俺と皇紀は少し移動し、女性が座るスペースを空けた。
「「神は死んだ」というのは、『ツァラトゥストラかく語りき』という著作の中に出てくる。この本は、山の中で思索を重ねたツァラトゥストラが、人の町に降りて宗教道徳をメッタ切りにする、というな」
「どんな宗教の道徳も、「神は死んだ」という事実の前では基盤を喪ってしまうんだ」
「ああ、それは前に聞いた、人間のすべての善悪や価値が宗教によって規定されていた、ということなんですね」
「その通りだ」
女性が驚いた顔で皇紀を見る。
「それが人間中心の思想になった近代の大混乱を示していることは分かるよな」
「はい」
「ニーチェはその大混乱を予見し、それを乗り越える道を示した。それが「超人」ということだ」
俺は「永劫回帰」や「超人」について、いくらか話してやった。
「つまり、自分のすべての喜びも悲しみも、全部を受け入れ、愛せ、ということが永劫回帰なわけだ」
「ああ、「運命への愛」アモール・ファーティですね!」
「そうだよな」
女性は目を丸くして皇紀を見る。
その後も俺は皇紀にニーチェの様々な言葉を説明し、1時間ほども喋っていた。
「今日はこのくらいにしようか。またいろいろ話してやろう」
「お願いします」
女性はぐったりとなっていた。
「すいません、今日はこれで帰ります」
「あ、はい。本当にありがとうございました」
「それでは」
「さよなら」
俺と皇紀はフェラーリに乗り込む。
エンジンをかけ、しばらく暖気してから走りだした。
女性はその間、ずっと俺たちを見ていて、走り出すときに、スマホで写真を撮ったようだ。
家に着いた。
「タカさん、今日は本当にありがとうございました」
「おう、また行こうな」
「是非!」
皇紀は階段を駆け上がった。
姉弟だよなぁ。
1
お気に入りに追加
228
あなたにおすすめの小説
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
NPO法人マヨヒガ! ~CGモデラーって難しいんですか?~
みつまめ つぼみ
キャラ文芸
ハードワークと職業適性不一致に悩み、毎日をつらく感じている香澄(かすみ)。
彼女は帰り道、不思議な喫茶店を見つけて足を踏み入れる。
そこで出会った青年マスター晴臣(はるおみ)は、なんと『ぬらりひょん』!
彼は香澄を『マヨヒガ』へと誘い、彼女の保護を約束する。
離職した香澄は、新しいステージである『3DCGモデラー』で才能を開花させる。
香澄の手が、デジタル空間でキャラクターに命を吹き込む――。
双葉病院小児病棟
moa
キャラ文芸
ここは双葉病院小児病棟。
病気と闘う子供たち、その病気を治すお医者さんたちの物語。
この双葉病院小児病棟には重い病気から身近な病気、たくさんの幅広い病気の子供たちが入院してきます。
すぐに治って退院していく子もいればそうでない子もいる。
メンタル面のケアも大事になってくる。
当病院は親の付き添いありでの入院は禁止とされています。
親がいると子供たちは甘えてしまうため、あえて離して治療するという方針。
【集中して治療をして早く治す】
それがこの病院のモットーです。
※この物語はフィクションです。
実際の病院、治療とは異なることもあると思いますが暖かい目で見ていただけると幸いです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
人形の中の人の憂鬱
ジャン・幸田
キャラ文芸
等身大人形が動く時、中の人がいるはずだ! でも、いないとされる。いうだけ野暮であるから。そんな中の人に関するオムニバス物語である。
【アルバイト】昭和時代末期、それほど知られていなかった美少女着ぐるみヒロインショーをめぐる物語。
【少女人形店員】父親の思い付きで着ぐるみ美少女マスクを着けて営業させられる少女の運命は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる