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静馬くん

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 帰りの車の中で、皇紀が聞いてきた。
 
 「タカさんって、ニーチェが好きですよね」
 「ああ、そうだな」

 「いつからだったんですか?」
 「ああ……」








 小学二年生のとき、突然、体温計で計れないほどの高熱がでた。
 最初はただのカゼだろうと思われていた。

 三日後、俺は血を吐いた。



 お袋が慌てて病院へ連れて行ったが、原因はわからない。
 吐血は胃からのものだった。

 42度以上の高熱はずっと続いていた。
 毎日、洗面器の底を浸すほどの吐血。

 医者は原因がわからず、なんにしても助からないと宣告した。


 一ヵ月後、俺の熱は下がり、日常に戻った。

 医者もわけが分からず、最終的に、三週間後に全身に出た水疱により「みずぼうぞう(水痘・帯状疱疹ウイルス(VZV)感染」とされた。


 以来、俺はずっと毎月40度以上の熱を出し、寝込むようになった。


 その他の喧嘩の怪我によることもあったが、俺は毎月のように入院した。
 短くて三日、長いと一週間程度。

 俺は近所の病院のお得意になり、医師や看護婦、また長期入院の患者たちと親しくなった。


 小学五年生の夏。
 俺は同室となった高校生・静馬くんと仲良くなった。

 病床の空きがなく、静馬くんとの二人部屋だった。
 静馬くんは、いつも本を読んでいた。
 枕元には、十冊を超える本が、つねに積まれていた。

 俺も本が好きだった。
 入院してしばらくは起き上がることもできず、俺も本を読んでいた。

 二日目のことだった。
 静馬くんが俺のベッドへ呼びかけた。

 「君は何の本を読んでいるの?」
 「『悲の器』です」

 静馬くんは驚いたと言い、それをきっかけに読書の話になり、俺たちは急速に仲良くなった。

 静馬くんの顔はずっと青白く、端正な顔立ちと相俟って、儚げな美貌を持っていた。
 右の胸からチューブが伸びていたので、今から思えば重度の気胸だったのかもしれない。

 長く話していると、静馬くんが咳き込みだし、そこで俺たちの楽しい会話は終わった。


 「石神くんは『悲の器』をどうして読んでいるの?」
 小学五年生が読むには早いのではないか、ということだったろう。

 「別に、手当たり次第です。家が貧乏なんで、手に入った本を読んでいるだけで」
 「そうなんだ」

 静馬くんも前に読んだことがあるということで、二人でこの本の話で盛り上がった。

 「愛ゆえに罪となる、なんてすごい話ですよね」
 「そうだよね。『往生要集』からの引用だけど、非常に冷徹だよね。でも、僕はその「冷徹」「冷酷」が、実は人間を救うんじゃないかとも思うんだ」

 静馬くんが語る言葉は、俺の心を惹き付けた。

 「僕はね、長いこと入院してる。医者は、僕の病気は非常に難しいと言ったよ。手術しても、助かる見込みは10%だって。今は腕のいい医者を探しているんだ。冷酷な話だよね。でもそれは科学的な話なんだ。だから僕はその「正しさ」によって、僕自身の心を決められる。これは有難いことだと考えてる」

 科学は正しいから冷酷で、だからこそ人間を迷わせない。
 愛は曖昧で優しいから、人間を悪に染めることもある。

 俺の中で、静馬くんと高橋和巳の言っていることが繋がった。



 「石神くんが本が好きなら、ここからいつでも持って行ってよ。一緒に読んで一緒に話そう」
 静馬くんはそう行ってくれた。


 俺たちは本を読み、語り合った。
 本以外にも、静馬くんはクラシック音楽の話をしてくれた。
 静馬くんは時折、小さなラジカセで音楽を流して聞いていた。


 静馬くんは滅多に動けなかったが、俺は徐々に回復し、いつものようにくだらないことを始めた。

 「ほら、静馬くん、パンツ丸見えだよ!」

 俺は部屋に入ってきた看護婦のスカートをめくって、静馬くんに見せた。

 「コラ! トラちゃん!」
 俺は病院内では「トラちゃん」と呼ばれていた。名前からだが、ケダモノのような悪戯小僧だったからだろう。

 俺は床に倒され
 「あ、パンツみえる」
 と言うと顔を踏まれた。
 
 「ふぎゅー」

 「静馬くん、何も見てないよね?」
 看護婦が言うと、
 「見てません」
 と静馬くんが言う。



 回復してきた俺は、静馬くんに仲良しの入院患者を紹介していった。

 「ほら、この人がエロ魔人のチョウさんだよ」
 チョウさんは、俺が静馬くんのことを本好きだと話したら、一抱えのエロ本を持って見舞いに来てくれた。

 「おい、じゃあ、これをやるから、ゆっくり読めよな!」
 「あ、ありがとうございます」

 翌日、静馬くんのベッドの下に大量のエロ本を見つけ、看護婦が悲鳴を上げていた。




 長期入院患者はストレスが溜まる。
 彼らは時折夜に病院を抜け出し、目の前の居酒屋で酒盛りをする。
 当時は病院側も、そうした違反を見ない振りをしてくれた。

 俺も毎回誘われて、居酒屋に行った。
 元気になると、病院食だけでは足りなかった。
 居酒屋で腹いっぱい、美味いものをご馳走してもらった。

 「静馬くん、焼き鳥持ってきたよ」
 「ありがとう、あとでいただくよ」

 静馬くんは嬉しそうに言い、また俺たちはいろんな話をした。
 その焼き鳥は手付かずで、翌朝、看護婦によって片付けられた。




 「ニーチェはさあ、すごいんだよ!」
 静馬くんが一番興奮して話すのは、ニーチェのことだった。

 静馬くんは多くのニーチェの言葉を暗誦しており、俺に語って聞かせてくれた。
 中にはドイツ語で覚えているものもあり、俺は必死で覚えた。

 「あいにく、今は家にあるんでね。ああ、石神くんにも読んで欲しいなぁ」

 今度持ってきてもらうと、静馬くんは言った。
 俺はとても楽しみだった。



 ある明け方、静馬くんはベッドで苦しんでいた。
 俺はすぐにナースコールを押した。

 看護婦が駆けつけ、すぐに当直医師が呼ばれた。
 
「もう大丈夫だから、トラちゃんは寝なさい」
 看護婦がそう言った。
 静馬くんは薬を注射され、苦しまなくなっていた。


 目が覚めると、静馬くんはいなくなっていた。
 積み上げられてた本は、昼過ぎに片付けられた。












 俺は、静馬くんが遠くの病院へ転院したことを教えてもらった。
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