上 下
86 / 2,806

近代、ということ

しおりを挟む
 本当は、高尾山駅前で蕎麦を食べたかった。
 何軒か、本当に美味い蕎麦を出す店があるのだ。

 しかし参拝客で賑わい、大変な混みようで諦め、俺は八王子の蕎麦屋を目指した。
 何となく、蕎麦が食べたかったのだ。



 店に入り、子どもたちに好きなものを注文させる。
 メニューを見て、また一騒ぎだ。

 
 ようやく子どもたちは注文を決め、俺は別途、鮎の塩焼きを全員分、それにテンプラの盛り合わせをお任せで頼んだ。


 「さっき、お参りはお願い事をするなって言ったよな」
 子どもたちが俺を見る。

 「宗教の始まりというのは、すべてそうなんだよ。神様への感謝と褒め称えることしかなかった。これは中世まで、大体そうだったんだな」
 
 「初詣って、みんな一年の無事とか健康をお願いするものだと思っていました」
 亜紀ちゃんが言う。

 「そうだな。今はみんな、そういうものだと思っている。だけど、実際そんなものは通じるわけがねぇ」
 「神様だってきっと、「ふざけんな! 賽銭だけ入れてけ!」って言ってると思うぞ」
 みんな笑った。



 「ヨハン・セバスチャン・バッハは音楽の父と呼ばれている。バッハは知ってるか?」
 みんな知らないと言う。
 俺は『マタイ受難曲』の冒頭を歌ってやった。

 「バッハがなんで音楽の父なのかと言うと、バッハがバロック音楽を中心に、ヨーロッパの音楽を集大成したからなんだ。つまり、譜面にガンガン残していったのな」
 「なるほど」
 
 「でも、当時は電灯なんかねぇ。バッハは夜遅くまで蝋燭の火なんかで毎日やってたんだよ。その薄暗い中でずっとやってたものだから、バッハは失明してしまう。目を酷使し過ぎたんだよな」
 
 「かわいそー」
 ハーが言った。

 「うん。でもな、バッハはその時に神に感謝したんだ。自分を目が潰れるまで神のための音楽を書かせていただいて、ありがとうございます、ってな」
 「はぁー!」
 皇紀が感動する。

 「バッハは数多くの楽曲を自分でも作曲している。そのすべてが、神への感謝と褒め称える、寿ぎだな、それしかない」
 子どもたちは俺を見ている。
 
 「今の音楽は、自分がどうする、とか君が世界で一番の花だとか言ってるよ。偉大性が違うよなぁ」
 大爆笑。




 「じゃあ、どうして今は神様にお願いするようになったんでしょうか」
 亜紀ちゃんが俺に聞いてきた。

 「それは、宗教が弱った、ということだ。ニーチェは「神は死んだ」と言ったな」
 「どういうことですか?」
 皇紀が言う。

 「ルーとハーはまだ知らないかもしれないけど、世界史なんかを勉強すれば、中世という時代の後に近代がやってくることを知っているだろう。その中世と近代の違いはなんだ、亜紀ちゃん」

 「産業革命でしょうか」

 「まあ、10点だな」
 俺は笑い、亜紀ちゃんは残念がる。

 「それは、今言った宗教なんだよ。中世までは、神を中心とする思想だったんだな。だから人間の行動はすべて宗教によって規定されていた。ガリレオ・ガリレイは知ってるか?」
 「地球が丸いって言った人でしょうか」
 皇紀が言う。
 
 「まあ、地球が太陽の周りを回っている、と言った人だよ。「地動説」というものだな」
 俺は皇紀に指で丸をつくり、「零点」ということを示した。
 皇紀は悔しがっている。

 「今では地動説は当たり前になっている。でも、ガリレイの当時は教会がすべての上に立っているから。ガリレイの地動説は教会の教えに反するということで、否定された。ガリレイの本は禁書扱いになり、本人は謹慎処分だ。まあ、処分されてもずっと研究は続けたけどな」
 子どもたちが笑う。





 「とにかく、中世では神様がすべての上。そこから「人間を中心にしよう」という考え方に移行したのが近代、ということだ」
 亜紀ちゃんと皇紀は深くうなずく。

 「そうすると、大混乱が起きた。何かわかるか?」
 亜紀ちゃんも皇紀も悩んでいる。

 「何が正しいのか、分からなくなったんだよ」
 「「えぇー!」」

 「実は人間の正しさ、価値というものは、全部宗教が決めていたんだな。しょうがないよ、何万年も人間はそうやってきたんだから。宗教によってがんじがらめにされてはいたけど、人間はその中で、価値とか善悪を決めて守ってきたんだ」
 「そうなんですか」
 亜紀ちゃんは驚きを隠せない。

 「だから宗教の縛りをなくして、自分たちで好きなようにやろうと考えたら、何が正しくて、間違っているのか分からなくなった。まあ、そういうことで、宗教の形骸だけは残ったんだけどな」
 形骸ってなに、と聞くルーとハーに、亜紀ちゃんが教えてやる。

 「だけど、もう神は人間の上にはいない。今はもう、宗教というもの自体が時代遅れでまやかし、と考える人間も多い。そういうことで、何かしてくれるなら神社とか教会にも行きますよ、ってものが出来上がったんだよ。これを「ご利益宗教」と言う。まあ、こんなものは宗教でもなんでもねぇけどな」

 話している間に、注文の蕎麦が届いた。
 
 「じゃあ、みんないただこう」
 「「「「いただきます!」」」」

 「お行儀のいいお子さんたちですねぇ」
 お店の人が微笑んでいた。

 「ご飯をいただくことは、最も重要な感謝すべきことですから」
 俺が言うと、嬉しそうに笑った。
 
 「じゃあ、ごゆっくりしていってください」


 食事を終え、店を出る時に子どもたちが「ごちそうさまでした」「美味しかったです」と言うと、店の人がみんな出てきて手を振ってくれた。



 再び車に乗り込む。

 「じゃあ、今日は『十戒』でも観るか」
 「えいがー?」
 「ああ、そうだ」
 



子どもたちが喜ぶ。最近は映画鑑賞を本当に楽しみにしてくれて嬉しい。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

まさか、、お兄ちゃんが私の主治医なんて、、

ならくま。くん
キャラ文芸
おはこんばんにちは!どうも!私は女子中学生の泪川沙織(るいかわさおり)です!私こんなに元気そうに見えるけど実は貧血や喘息、、いっぱい持ってるんだ、、まあ私の主治医はさすがに知人だと思わなかったんだけどそしたら血のつながっていないお兄ちゃんだったんだ、、流石にちょっとこれはおかしいよね!?でもお兄ちゃんが医者なことは事実だし、、 私のおにいちゃんは↓ 泪川亮(るいかわりょう)お兄ちゃん、イケメンだし高身長だしもう何もかも完璧って感じなの!お兄ちゃんとは一緒に住んでるんだけどなんでもてきぱきこなすんだよね、、そんな二人の日常をお送りします!

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

双葉病院小児病棟

moa
キャラ文芸
ここは双葉病院小児病棟。 病気と闘う子供たち、その病気を治すお医者さんたちの物語。 この双葉病院小児病棟には重い病気から身近な病気、たくさんの幅広い病気の子供たちが入院してきます。 すぐに治って退院していく子もいればそうでない子もいる。 メンタル面のケアも大事になってくる。 当病院は親の付き添いありでの入院は禁止とされています。 親がいると子供たちは甘えてしまうため、あえて離して治療するという方針。 【集中して治療をして早く治す】 それがこの病院のモットーです。 ※この物語はフィクションです。 実際の病院、治療とは異なることもあると思いますが暖かい目で見ていただけると幸いです。

イケメンドクターは幼馴染み!夜の診察はベッドの上!?

すずなり。
恋愛
仕事帰りにケガをしてしまった私、かざね。 病院で診てくれた医師は幼馴染みだった! 「こんなにかわいくなって・・・。」 10年ぶりに再会した私たち。 お互いに気持ちを伝えられないまま・・・想いだけが加速していく。 かざね「どうしよう・・・私、ちーちゃんが好きだ。」 幼馴染『千秋』。 通称『ちーちゃん』。 きびしい一面もあるけど、優しい『ちーちゃん』。 千秋「かざねの側に・・・俺はいたい。」 自分の気持ちに気がついたあと、距離を詰めてくるのはかざねの仕事仲間の『ユウト』。 ユウト「今・・特定の『誰か』がいないなら・・・俺と付き合ってください。」 かざねは悩む。 かざね(ちーちゃんに振り向いてもらえないなら・・・・・・私がユウトさんを愛しさえすれば・・・・・忘れられる・・?) ※お話の中に出てくる病気や、治療法、職業内容などは全て架空のものです。 想像の中だけでお楽しみください。 ※お話は全て想像の世界です。現実世界とはなんの関係もありません。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 ただただ楽しんでいただけたら嬉しいです。 すずなり。

イケメン歯科医の日常

moa
キャラ文芸
堺 大雅(さかい たいが)28歳。 親の医院、堺歯科医院で歯科医として働いている。 イケメンで笑顔が素敵な歯科医として近所では有名。 しかし彼には裏の顔が… 歯科医のリアルな日常を超短編小説で書いてみました。 ※治療の描写や痛い描写もあるので苦手な方はご遠慮頂きますようよろしくお願いします。

処理中です...