53 / 2,898
大河
しおりを挟む
「どうだ、信じられないか?」
院長は長い話を終えた。
俺はこの蓼科文学という人間のことをよく知っている。
真面目という言葉では足りないくらい、常に真剣に人に対し、物事に対し、世界に対して向き合っている。
他の人間が話したのなら、俺は信じなかったかもしれない。
自称心霊医師や呪い師の話なら聞いたこともある。
だが、蓼科文学が言うのなら、それは真実だ。
「もちろん信じますよ」
「そうか」
院長は内線で二人分の紅茶を指示し、カツ丼を二人前注文した。
「お前も食っていけ」
「はい、ご馳走になります」
カツ丼を豪快に掻き込みながら、院長は俺に尋ねた。
「お前はどうして俺の話を信じるんだ?」
「院長ですから」
箸を置いて、院長は頭を掻いた。照れているときの癖だ。
「でも、突拍子もない話だったろう」
「ええ、でも、院長の実績を考えれば、すべて納得できるお話でした」
「そうか」
「私からも伺っていいですか?」
「なんだよ」
「どうして私に?」
2分でカツ丼を平らげた院長は、まだ足りないという顔をしていた。
俺はその10秒後に食い終わった。
俺たちの食事は非常に早い。その気になれば20秒で食い終われる。
常に緊急時に備える、外科医の性癖だ。
3分後、食器を下げに院長の秘書たちが入ってきた。慣れたものである。
お茶を置いて、秘書たちは部屋を出た。
「最初はお前にも同じ力があるんじゃねぇかと踏んでたんだ」
「あるわけないでしょう」
「そうだな」
院長は茶をすすりながら、少し間を置いた。
「俺がそう思ったのは、あのロックハート響子の手術だ」
「……」
「あれは絶対に成功しないはずのものだった、そうだろう」
「……」
「お前が普通の医者であったのなら、あの手術をやったのは、自分の手でロックハート響子を終わらせる、という意味しかねぇ。お前、そうだったんだな」
院長の言う通りだ。俺はそのつもりでいた。
しかし、オペの準備を進めるうちに、俺の中で何かが変わっていった。
何が、ということは俺自身にも分からない。
ただ、「終わる」という考えが徐々に薄れていった、としか言いようがない。
俺は、自分が大きな流れの中に組み込まれたような感覚でいた。
オペの最中、数え切れないほどの危機があった。
想定はしていたが、響子のバイタルは数十回に亘って消え、そのたびに俺たちは死力を尽くした。
その時、俺の脳裏には裸で抱き合った、あの日の響子の温もりが甦った。
俺は自分が考えていたこと、そしてその考えを上書きするような不思議な体験があったことを、そのまま院長に話した。
恐らくは誰にも話さなかったことを、俺に話してくれたことへの礼、いや恩義のためだった。
「そうかよ、なるほどなぁ」
院長は腕を組んで目を閉じて聞いていた。
「お前は、俺とは違う何かがあるんだろうよ。これまでのお前の実績は、俺に劣るとはいえ、大したもんだ。だからロックハート響子のことを除いても、もしやという思いはあったんだよ」
「なぜ院長は誰にも話さなかったのですか?」
「なぜって、誰も信じねぇだろうよ、こんな与太は」
院長は笑って言った。
「それにな、絶対に他人に話しちゃいけねぇ、そんな確信があったんだよ」
「親友にも、世話になった上司にも、惚れ込んだ女にも、兄貴には一度だけ話したか」
「その兄貴は30を俟たずに死んだ。まあ、俺の話を聞いたから、とは思いたくもねぇわな」
院長は、どこか寂しげに笑った。
院長が自分の兄を神のように敬愛しているのを、俺は知っていた。
「じゃあ、どうして自分に」
「絶対にお前には話さなきゃいけない、と確信したからだよ」
院長は鋭い眼光で俺を睨んでいる。
「お前も体験したようだが、俺たちは自分の存在を超えた大きな何かの中にいるんだよ。宇宙は人間が動かしてるんじゃねぇ。当たり前だろう。だったら、人間を超えた流れがあるなんて、当たり前のことだ」
「……」
「俺はその流れに従って話さなかったし、話した。それだけのことだ」
俺たちは茶を飲み終わり、仕事へ戻れと言う院長の言葉に従った。
俺は院長室のドアを閉じ、深々と礼をして廊下を歩き出した。
俺たちは大河の中で流されている。
その院長の言葉が心に残った。
でも、俺の生き方は変わらない。
俺は自分の好き勝手に、やるべきことをやるだけだ。
響子の顔を見に行こう。
俺は響子の部屋へ向かった。
院長は長い話を終えた。
俺はこの蓼科文学という人間のことをよく知っている。
真面目という言葉では足りないくらい、常に真剣に人に対し、物事に対し、世界に対して向き合っている。
他の人間が話したのなら、俺は信じなかったかもしれない。
自称心霊医師や呪い師の話なら聞いたこともある。
だが、蓼科文学が言うのなら、それは真実だ。
「もちろん信じますよ」
「そうか」
院長は内線で二人分の紅茶を指示し、カツ丼を二人前注文した。
「お前も食っていけ」
「はい、ご馳走になります」
カツ丼を豪快に掻き込みながら、院長は俺に尋ねた。
「お前はどうして俺の話を信じるんだ?」
「院長ですから」
箸を置いて、院長は頭を掻いた。照れているときの癖だ。
「でも、突拍子もない話だったろう」
「ええ、でも、院長の実績を考えれば、すべて納得できるお話でした」
「そうか」
「私からも伺っていいですか?」
「なんだよ」
「どうして私に?」
2分でカツ丼を平らげた院長は、まだ足りないという顔をしていた。
俺はその10秒後に食い終わった。
俺たちの食事は非常に早い。その気になれば20秒で食い終われる。
常に緊急時に備える、外科医の性癖だ。
3分後、食器を下げに院長の秘書たちが入ってきた。慣れたものである。
お茶を置いて、秘書たちは部屋を出た。
「最初はお前にも同じ力があるんじゃねぇかと踏んでたんだ」
「あるわけないでしょう」
「そうだな」
院長は茶をすすりながら、少し間を置いた。
「俺がそう思ったのは、あのロックハート響子の手術だ」
「……」
「あれは絶対に成功しないはずのものだった、そうだろう」
「……」
「お前が普通の医者であったのなら、あの手術をやったのは、自分の手でロックハート響子を終わらせる、という意味しかねぇ。お前、そうだったんだな」
院長の言う通りだ。俺はそのつもりでいた。
しかし、オペの準備を進めるうちに、俺の中で何かが変わっていった。
何が、ということは俺自身にも分からない。
ただ、「終わる」という考えが徐々に薄れていった、としか言いようがない。
俺は、自分が大きな流れの中に組み込まれたような感覚でいた。
オペの最中、数え切れないほどの危機があった。
想定はしていたが、響子のバイタルは数十回に亘って消え、そのたびに俺たちは死力を尽くした。
その時、俺の脳裏には裸で抱き合った、あの日の響子の温もりが甦った。
俺は自分が考えていたこと、そしてその考えを上書きするような不思議な体験があったことを、そのまま院長に話した。
恐らくは誰にも話さなかったことを、俺に話してくれたことへの礼、いや恩義のためだった。
「そうかよ、なるほどなぁ」
院長は腕を組んで目を閉じて聞いていた。
「お前は、俺とは違う何かがあるんだろうよ。これまでのお前の実績は、俺に劣るとはいえ、大したもんだ。だからロックハート響子のことを除いても、もしやという思いはあったんだよ」
「なぜ院長は誰にも話さなかったのですか?」
「なぜって、誰も信じねぇだろうよ、こんな与太は」
院長は笑って言った。
「それにな、絶対に他人に話しちゃいけねぇ、そんな確信があったんだよ」
「親友にも、世話になった上司にも、惚れ込んだ女にも、兄貴には一度だけ話したか」
「その兄貴は30を俟たずに死んだ。まあ、俺の話を聞いたから、とは思いたくもねぇわな」
院長は、どこか寂しげに笑った。
院長が自分の兄を神のように敬愛しているのを、俺は知っていた。
「じゃあ、どうして自分に」
「絶対にお前には話さなきゃいけない、と確信したからだよ」
院長は鋭い眼光で俺を睨んでいる。
「お前も体験したようだが、俺たちは自分の存在を超えた大きな何かの中にいるんだよ。宇宙は人間が動かしてるんじゃねぇ。当たり前だろう。だったら、人間を超えた流れがあるなんて、当たり前のことだ」
「……」
「俺はその流れに従って話さなかったし、話した。それだけのことだ」
俺たちは茶を飲み終わり、仕事へ戻れと言う院長の言葉に従った。
俺は院長室のドアを閉じ、深々と礼をして廊下を歩き出した。
俺たちは大河の中で流されている。
その院長の言葉が心に残った。
でも、俺の生き方は変わらない。
俺は自分の好き勝手に、やるべきことをやるだけだ。
響子の顔を見に行こう。
俺は響子の部屋へ向かった。
1
お気に入りに追加
231
あなたにおすすめの小説

【完】お義母様そんなに嫁がお嫌いですか?でも安心してください、もう会う事はありませんから
咲貴
恋愛
見初められ伯爵夫人となった元子爵令嬢のアニカは、夫のフィリベルトの義母に嫌われており、嫌がらせを受ける日々。
そんな中、義父の誕生日を祝うため、とびきりのプレゼントを用意する。
しかし、義母と二人きりになった時、事件は起こった……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。

妻を蔑ろにしていた結果。
下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。
主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。
小説家になろう様でも投稿しています。

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる