上 下
48 / 2,806

しおりを挟む
 「花岡、まいりました」
 入れという声に従い、花岡栞は院長室へ入った。
 「おう、座れ」
 ソファを進められ、そこへ腰掛ける。

 「どうだった、一週間の停職は?」
 「その節は、大変ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません」
 花岡は立ち上がり、深々と頭を下げた。

 「もう、戻ってはだめだぞ」
 蓼科はニヤニヤして言った。
 「そんな、人を刑務所を出た犯罪者のように言わないでください」
 花岡が蓼科の冗談に対して軽く返す。

 「え、だってお前は本当に犯罪者だろう?」
 「院長、お願いです。それ、本当に辛いので」
 器物破損に暴行傷害未遂、公務執行妨害。
 蓼科らの力で、器物損害だけの書類送検になり、示談成立ということでそれも無くなった。
 幸いにして、蓼科により徹底した緘口令が敷かれ、病院内で知るものはほとんどいない。

 「まあ、いい勉強だったな」
 「その一言で片付きますか」
 「あ? じゃあ、詳細に話し合うか?」
 「勘弁してください。私が間違ってました」

 「ああ、コーヒーでも飲むか。石神を呼んで、エスプレッソを煎れさせよう」
 花岡の身体が固まる。
 「なんだ、飲みたくないか。じゃあ普通のお茶を」
 「院長、まだ私は責められなければならないでしょうか」
 花岡の抗議に、蓼科は反応しない。
 辞職を考えるほどに悩んだことは知っている。
 実際、辞表が提出されたが、それを蓼科は受理しなかった。
 花岡栞も、蓼科文学院長という人間が、見た目に反して非常に優しい人物だと知っていた。


 「お前、石神のことが好きなんだろう」
 突然の蓼科の言葉に、花岡は絶句する。
 「院長、なにを……」
 搾り出すように言葉を紡ごうとする花岡を、蓼科はまたしても無視した。

 「何も隠さなくてもいい。誰が見たって、お前が惚れてるのは見え見えだ」
 花岡は何も言わない。
 「お前もなぁ、難儀な奴に惚れ込んだなぁ。あいつのことはよく分かっていると思うが、尋常な相手じゃねぇぞ」
 分かっている。だけど理屈で動ければどんなに楽か。

 「院長命令だ! 花岡栞、お前は石神と結婚しろ!」
 「ひゃい?」
 花岡は驚いて、思わずまた立ち上がってしまう。
 「安心しろ、石神の方は俺がなんとかするから」
 そう言われ、花岡は泣きそうな顔になった。
 「院長、そこまでにしてもらえませんか」
 搾り出すように言う花岡に、蓼科は笑い出した。

 「ああ、そうか、お前がそう言うのなら、ちょっと待つか」
 人の気持ちを、と思う花岡だったが、院長の真意は何となく分かった。

 「はい、院長がおっしゃるとおり、私は石神先生をお慕いしています」
 そう言い切った花岡の表情は明るかった。



 「やっと二日酔いから醒めたかよ。お前もいい加減面倒くさい女だったんだな」
 「はい、その通りだったようです」
 「正気に戻ったお前に、今度は本当に命令する! 紺野奈津江という女について、洗いざらい説明しろ!」
 恐ろしいほどの威圧を込めて、蓼科は迫った。
 「やはり、そのお話ですか」
 花岡は、覚悟を決めて、奈津江のことを蓼科に話し出した。



 「そうか、分かった。俺があの日観たものがすべて分かった」
 蓼科が何を分かったのか、花岡は知るすべもない。

 「ところで花岡、石神と寝たことはあるか?」
 「そ、そんなことは、一切ありません!!!」
 「ああ、言い方を間違えた」
 花岡は呆れ、院長を睨んだ。

 「お前は石神の裸を見たことがあるか?」
 言い直した蓼科の言葉は、先ほどと何も変わらないように思えた。
 花岡は混乱の極みにいた。

 「俺はあるんだよ」
 「エェー!」
 思わず叫ぶ花岡を、蓼科は手で制する。

 「お前、何か誤解してないか?」
 「だって院長が爆弾発言……」
 「お前なぁ、別に俺が石神と寝たわけじゃねぇぞ。ふざけんな」
 花岡は何とか落ち着こうとし、話の流れを理解した。
 
 「俺は若いからそんなことなねぇんだが、理事たちっていうのはジジィ共ばかりだからなぁ。いろいろと考えることが旧いんだよ」
 蓼科は理事会のことを掻い摘んで花岡に話す。
 「理事は外部の人間が多い。むしろ俺や石神のように、病院内で就任することが稀だ。理事の仕事は、政治だからな。実際に政治家相手や、傘下の病院またうちは上は東大病院だよな。そういう相手とのスムーズな遣り取りをするための理事が多い」

 「はぁ」
 「旧い、と言ったのは、何かと昭和的だということだ。料亭での会食や旅行に行くこともある。俺も石神もそういうのは嫌いなんだが、仕方なく付き合ってはいる」

 「話が逸れたが、一緒に熱海の温泉へ出掛けたことがある、という話だ。そこで一緒に風呂に入り、俺は石神の裸を見た」
 花岡は、まだ蓼科が何を話そうとしているのか分からない。
 「いや、別にあいつのサイズが尋常じゃない、という話じゃねぇから」
 「そんなこと、聞いてません!」
 花岡は赤くなって、少し微笑んでいた。
 何となく、ズボンの膨らみで分かってはいた。
 「あいつの身体は傷だらけだ」

 「……」

 「お前も多少は知っているようだな」
 学生時代、夏場などの薄着のときに、シャツがまくれたりして少しばかり見たことはある。
 腹部に大きな傷跡があった。心配になるほど深い傷だったと思う。
 「喧嘩三昧の奴だから、傷はあってもおかしくはねぇ。またガキの頃は病弱でしょっちゅう入院してたそうだしな」
 「聞いたことはあります」


 「あいつの身体には、少なくとも三箇所の銃創があった」


 蓼科が何を言っているのか、咄嗟に理解できなかった。
 「銃で撃たれた経験がある、ということだよ」
 「!」
 「石神は俺たちと一緒に風呂に入るのを嫌がった。だから俺が見たのは偶然だ。朝方に酔い覚ましに行ったら、そこに石神がいた、というな。俺が入ると、観念したように一緒に話もした」
 「何の傷だったかお聞きになったんですか?」
 「いや、聞けなかった。石神が話したがらない話題だったのは当然分かったからな。裸を恥ずかしがるような奴じゃない。あの傷のことに触れて欲しくなかったんだろうよ」
 花岡は、その通りだと思った。見るも無残なあの腹部の傷だけでも、普通の人間はショックを受けるかもしれない。

 「紺野奈津江は見ていたのだろうか」
 「いいえ、そういう関係になる前に亡くなったと思います。奈津江は何でも私に話してくれましたから。もしも石神くんとそういうことになったのなら、きっと話してくれました」
 蓼科はしばらく考え込んだ。

 「そうか」
 そう蓼科は呟いた。

 「まったくもって、あいつの闇はまだまだ深いなぁ」
 「闇なんですか」
 「そうだとも。花岡、銃痕なんだぞ? この日本で一体何があれば、そんなものが出来ると思うんだ? しかも一発じゃない。俺がちょっと見ただけでも、何発も喰らっていた」

 花岡は黙る。
 蓼科の言う通りだ。普通ではありえない。恐ろしい理由がそこにあるようにも思える。

 「もしも、何かの事件に巻き込まれたのであれば、あいつは隠したりはしない。そうだろう。しかしあいつは隠している。だったら、それは闇なんだよ」
 「それでも……」
 「お前の気持ちは分からんでもない。でも」
 「それでも私は石神くんを信じています。石神くんを愛しています。たとえどんな悪魔だったとしても!」
 花岡の叫びを、蓼科は黙って聞いていた。



 「花岡、落ち着け。あいつがどんなに信頼できる奴なのか、どんなに良い奴なのか、どんなに愛されることが当然な奴なのか。俺はお前と同じだ。そう思っている。俺が闇と言ったのは、それがあいつをずっと苦しめているという意味だ」
 「院長……」
 「今日、お前から聞いた奈津江という女性、それが石神を縛り上げる呪いであることは確かだ。しかしそれだけではない、ということを言いたかったんだよ」
 「石神くん……」
 「だからな、花岡。お前は石神を救え。俺が最初に言ったことは冗談ではないんだ。お前が石神を変えられる女だと、俺が見込んだからだ」
 花岡は蓼科を見て、次の瞬間うずくまって嗚咽をもらす。

 「大丈夫だ。俺がついている。お前はその心を貫けばいいんだ。絶対に悪いようにはしない。だから泣くな。お前だけが頼りなんだからな」

 花岡は落ち着きをとりもどすと、蓼科に差し出された手を握る。

 「はい、私は絶対に石神くんを守ります。絶対です」
 「頼むぞ」





 花岡が出て行ってから、蓼科は呟く。
 「石神、お前は本当に愛される人間だな」

 「でもなぁ。俺にはまったく羨ましいとは思えねぇ。お前を慕うのは、お前の傷が無残だからなんだよ。優しい奴ほど、それをなんとかしたいと思ってしまう。まったく悲しいよなぁ、おい」

 蓼科は電話をとり、内線で一江を呼んだ。 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

まさか、、お兄ちゃんが私の主治医なんて、、

ならくま。くん
キャラ文芸
おはこんばんにちは!どうも!私は女子中学生の泪川沙織(るいかわさおり)です!私こんなに元気そうに見えるけど実は貧血や喘息、、いっぱい持ってるんだ、、まあ私の主治医はさすがに知人だと思わなかったんだけどそしたら血のつながっていないお兄ちゃんだったんだ、、流石にちょっとこれはおかしいよね!?でもお兄ちゃんが医者なことは事実だし、、 私のおにいちゃんは↓ 泪川亮(るいかわりょう)お兄ちゃん、イケメンだし高身長だしもう何もかも完璧って感じなの!お兄ちゃんとは一緒に住んでるんだけどなんでもてきぱきこなすんだよね、、そんな二人の日常をお送りします!

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

双葉病院小児病棟

moa
キャラ文芸
ここは双葉病院小児病棟。 病気と闘う子供たち、その病気を治すお医者さんたちの物語。 この双葉病院小児病棟には重い病気から身近な病気、たくさんの幅広い病気の子供たちが入院してきます。 すぐに治って退院していく子もいればそうでない子もいる。 メンタル面のケアも大事になってくる。 当病院は親の付き添いありでの入院は禁止とされています。 親がいると子供たちは甘えてしまうため、あえて離して治療するという方針。 【集中して治療をして早く治す】 それがこの病院のモットーです。 ※この物語はフィクションです。 実際の病院、治療とは異なることもあると思いますが暖かい目で見ていただけると幸いです。

イケメンドクターは幼馴染み!夜の診察はベッドの上!?

すずなり。
恋愛
仕事帰りにケガをしてしまった私、かざね。 病院で診てくれた医師は幼馴染みだった! 「こんなにかわいくなって・・・。」 10年ぶりに再会した私たち。 お互いに気持ちを伝えられないまま・・・想いだけが加速していく。 かざね「どうしよう・・・私、ちーちゃんが好きだ。」 幼馴染『千秋』。 通称『ちーちゃん』。 きびしい一面もあるけど、優しい『ちーちゃん』。 千秋「かざねの側に・・・俺はいたい。」 自分の気持ちに気がついたあと、距離を詰めてくるのはかざねの仕事仲間の『ユウト』。 ユウト「今・・特定の『誰か』がいないなら・・・俺と付き合ってください。」 かざねは悩む。 かざね(ちーちゃんに振り向いてもらえないなら・・・・・・私がユウトさんを愛しさえすれば・・・・・忘れられる・・?) ※お話の中に出てくる病気や、治療法、職業内容などは全て架空のものです。 想像の中だけでお楽しみください。 ※お話は全て想像の世界です。現実世界とはなんの関係もありません。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 ただただ楽しんでいただけたら嬉しいです。 すずなり。

イケメン歯科医の日常

moa
キャラ文芸
堺 大雅(さかい たいが)28歳。 親の医院、堺歯科医院で歯科医として働いている。 イケメンで笑顔が素敵な歯科医として近所では有名。 しかし彼には裏の顔が… 歯科医のリアルな日常を超短編小説で書いてみました。 ※治療の描写や痛い描写もあるので苦手な方はご遠慮頂きますようよろしくお願いします。

処理中です...