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アビゲイル・ロックハート まざー・ふぁっかー

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 コンサートの翌朝、俺が出勤すると、俺の部屋に誰かいる。
 勝手に誰かを部下が入れるわけがないのだが。
 「部長、おはようございます!」
 部下たちが全員立ち上がって挨拶してきた。
 「ああ、おはよう。一江、あれは誰だ?」
 俺は部屋の中にいる人間を指して尋ねた。

 「昨日食堂に来てた女の子ですよ」
 ロックハート響子だった。
 パジャマではなく、私服を着ていたので気付かなかった。
 響子は俺の椅子に腰掛けていた。
 だから身長も最初は分からなかったのだろう。

 「あ、石神せんせー、おはようございまちゅ」
 ちょっと噛んだ。

 「おはようございまちゅ。どうしたんだよ、こんなとこで」
 「せんせーにおはようを言いたかったの」
 カワイイ。
 開いたままのドアの後ろで、ついにロリ領域まで制覇したよ、とかの声が聞こえた。
 俺はどこも制覇したことはねぇ。

 響子は、その後もたびたび俺の所へ遊びに来た。
 小児科長を呼んで、どうしたことかと問い詰めた。
 「申し訳ありません。あの子はちょっと特殊でして」
 「特殊も何も、あんなに病棟を抜け出していいわけねぇだろう!」
 カワイイんだが。
 「実は、アメリカ大使館の参事官のお孫さんなんです」
 大物じゃねぇか。
 俺の病院のすぐ近くには、幾つもの大使館がある。
 アメリカ大使館もその一つだ。
 俺は今の院長になってから、積極的にそれらの大使館へアプローチしていた。
 大使館員の囲い込みだ。
 ホテル・オークラで定期的に開かれる「大使夫人会」に参加し、気に入られ。
 病院での技術交流を持ちかけ。
 定期健診を申し出た。
 どうも、響子はうちの病院の技術の高さを信頼してくれ参事官が、日本まで呼び寄せたらしい。
 俺が小児科講習会を行なうにあたって読んだ資料には無かった。
 本当に、特殊な事情があるのだろう。
 母親が日本人だったため、日本語も話せるということらしい。
 
 ちょっとどうしたものかと考えている間も、響子はますます俺に懐き、今も俺の膝の上に乗っている。
 俺の机の上にうず高く積まれた本の山を、バランスを取りながら揺らしていた。
 窓の向こうで部下たちが、下を向いて笑いを堪えているのが見える。

 食堂で、花岡さんと一緒になった。
 「あらあら、ロリ魔王の石神先生」
 嬉しそうな顔で俺にそう言った。
 大学時代から友人同士の俺たちは、顔を会わせれば、一緒に食事をとることに自然になっていた。
 注文の食事のトレイを受け取って、先に食べ始めている俺の向かいに花岡さんは座る。

 「ねぇ、石神くん」

 花岡さんは、昔からの呼び方で話しかけてきた。
 「ずい分と噂になってるわよ。あの女の子のこと」
 「ええ、なんか懐かれちゃって」

 「あれよね、石神くんが女性に手を出さないのは、ちっちゃい子にしか興味を持てなかったからだって」
 「そんなこと、あるわけないじゃないですか」

 「そうかしら」
 花岡さんは笑いながらそう言った。

 「そういえば、奈津江もペッタン系だったものね」
 「いや、その話はもう……結局見れなかったし……」
 「あら、そうなの」
 花岡さんはどこか嬉しそうに言った。

 「でもね、ちょっと気をつけないとまずいと思うよ。大使館の参事官って、どうも孫にべったりだそうだから」
 「そうですか。でも俺もどうも困ってしまって。邪険に追い返せないんですよ」
 「あら、いつもの石神くんだったら、どうにでもしてるでしょうに」
 「いやその、カワイくって、強いことも言えないんですよ」
 「やっぱりロリコンじゃん!」
 花岡さんは早々に食事を切り上げ、出て行ってしまった。



 恐れていたことが起きた。
 今、俺は院長室のソファに座り、目の前にサー・アビゲイル・ロックハート参事官が足を組んで座っている。
 院長は俺の隣に座り、さっきから俺の横腹を思い切り衝いている。
 痛ぇ。

 「今日は、どのようなご用件でしょうか、サー・ロックハート様」

 流暢な英語で院長が尋ねる。
 見た目はゴリラだが、ものすごいインテリなのだ。
 ちなみに、俺は英語は話せないが、聞く方はできる。
 実際は話せるのだが、俺の英語はスラム街の連中も恥ずかしがるようなスラング英語だ。
 話していた連中が最低の奴らだったんだから、しょうがない。
 以前に「大使夫人会」で調子に乗って喋ったら、軽く退かれた。
 「ドクター・イシガミはそういうジョークも言うのね」
 とスペイン大使夫人がとりなしてくれて、事なきを得た。
 短い話なら、なんとかボロを出さずに済む。
 以来俺は、寡黙なサムライ・ドクターということで売り出すことになった。

 「うちの孫が、そこのドクター・イシガミにずい分とお世話になっているようで、今日は挨拶に参りました」

 参事官というのは、大使に次ぐような高い役職だ。
 場合によっては副大使より権力があったりもする。
 ロックハート文化参事官というのが、正式な役職のようだ。
 名刺にはそう書いてあった。

 俺は子ども病気の精神が及ぼす影響、またそれを小児科医に実際に示すためにやったことなどを、ロックハート参事官に説明した。
 拙い英語で申し訳ないと最初に謝り、できるだけ短いセンテンスで話す。
 最後に院長の指示で行なったことを付け加えておいた。
 おい、もう脇腹を衝くな、ゴリラ!

 「大変よく分かりました。小児科のドクターから、孫の数値が格段によくなったことは聞いています。ドクター・イシガミ、本当に感謝します」

 足を組んだまま、全然感謝してねぇように見える。

 「それはそれとして」

 ロックハート参事官は続けた。
 院長の攻撃が一瞬止まる。

 「こないだ孫に会いましたら、「イシガミセンセーと結婚したい」と申しましてな。まあ、驚いたのなんのと」
 院長が後ろに回していた手を戻し、ハンカチで額を拭う。
 「ドクター・イシガミ、どういうことかご説明いただけないでしょうか」
 なにをって?
 俺は僅かな英語の語彙を総動員して、高速思考していた。
 でも、あまりにも僅かすぎて、何も出てこなかった。
 「ロックハート参事官、孫が可愛いのはよく分かりますが、あなたはそうやって、孫に群がる雄を全部駆逐するんですか?」
 ファッキン・プリックスとかマス・マーダーとか、ちょっと混じった。
 「見敵必殺ですか? イエロー・マンキー・ジェノサイドですか?」
 「響子ちゃんは、一人の人間です。彼女の心は彼女だけのものです。まざー・ふぁっかー」

 ロックハート参事官は大笑いした。
 組んでいた足を大きく開いて座り直す。
 俺は握りつぶされるかと思った脇腹の肉をさすった。
 「いや、申し訳ない。おっしゃる通り、私はイエロー・マンキーごときが、大事な孫に触ることが死に至ると言いに来ました。でもサムライは違う。まあ、多少下品なようですが」
 笑いながら俺を指差す。
 「院長、私はこの男に孫の治療を任せたい。是非そうしていただきたい」
 「いえ、サー・ロックハート!」
 院長は慌てて言った。

 俺が外科医であること、響子ちゃんは専門医に任せた方が良いこと、石神はクレイジーであることを説明した。
 うんうんとうなずきながら話を聞いていたロックハート参事官は、俺に向かって言った。
 「それではサムライ・イシガミ。あなたに孫の友だちになっていただきたい。私の許可を得て、東京を案内してください。外へ連れ出し、キョウコを楽しませてやってください」
 はっきり言って、驚いた。

 「お願いします」

 土下座しやがった!
 テーブルの横に移動し、流れる動作で床に座り、両手をついた。
 「もうしわけない。キョウコは両親と別れて日本に独りで来ました。私もそうそう会いにも来れず、会っても私などでは話も面白くない」
 必死の院長は参事官をソファへ戻した。

 「先日、私はキョウコから電話で恋人が出来たと言われました。大変驚きましたが、話を聞くとドクター・イシガミがどういう人間かよく分かりました。どうかお願いです。キョウコのことを」
 「分かりました、ロックハート参事官」
 俺は一応、そこで一旦言葉を切る。

 「恋人としてちゃんとやっていきます」

 院長が、俺の腹に裏拳を見舞う。

 「いえ、恋人はまだ。手は出さない方向で」
 どこまで良いのだろうか。



 打ち解けた参事官に、俺たちは最終的にアメリカ大使館員のMRI検査の約束をとりつけた。
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