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幻想空間

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 みんな風呂に入り、俺は子どもたちのためにホットミルクを作った。
 ポットを俺が持ち、子どもたちに各自好きなマグカップを持たせて屋上へ案内する。

 階段を上がって屋上に出ると、高さ2.5メートルほどの天面も側面もすべてガラスに囲まれた通路がある。
 それは建物の左右に伸び、中心からまた前後に幅2メートルで伸びている。
 十字になっているのだ。
 中心は5メートル四方の空間になっていて、そこに白い丸テーブルがある。
 テーブルの上にはガレのライトが優しく灯っている。
 山中のこの別荘の周囲は闇に溶け、星空が見える。
 小さな灯りだけのガラスの空間は幻想的だ。
 子どもたちは黙っている。
 圧倒的な雰囲気に呑まれている。

 俺たちはテーブルの椅子に座り、俺が飲み物を注いでやる。
 しばらく俺たちは雰囲気に酔う。
 幼い双子たちにも伝わっているようだ。

 「人間にとって、最も重要なことは何か知っているか?」
 そう問いかける俺に、四人は少し黙ったままでいる。

 「優しさでしょうか?」
 亜紀ちゃんが言った。
 「確かに優しいことは大事だ。人間は自分以外のために生きるということが大前提だからな」
 みんなまた黙ってしまった。

 「人間にとって、最も重要なことはな、これなんだよ」

 俺の顔を見つめ、黙ったまま言葉の続きを待っている。

 「それはロマンティシズムというものだ」

 子どもたちは、驚いた表情を見せた。

 「ここに入って何か感じただろう。何とも言えない雰囲気に呑まれただろう。それはな、人間が決して辿り着けない領域なんだ。その「何とも言えない」という場所に向かい続け、追い求めることが、本物の人生というものなんだよ。それを「ロマンティシズム」と言う」


 「タカさん、僕、今日はここで寝ます!」
 皇紀が立ち上がった。
 「ここでか? 朝晩は大分冷えるからやめておけよ」
 一応タイルカーペットを敷いているが、床の保温性は度外視している。
 「いいです! ロマンティシズムです!」
 「お前、言えばいいってもんじゃねぇんだぞ」
 俺たちは笑った。


 俺は持ってきた小さなラジカセで音楽を流した。
 ここには、「空間」だけしかないのだ。
 それ以上のものを置かないようにしていた。
 今日は特別だ。
 ベートーヴェンの『月光』と、ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』を用意した。
 満月ではないが、十分な光度を持った月明かりに、幻想空間は一層際立っていく。
 音は決して良くはないが、それも雰囲気だろう。

 俺は月の話を始める。



 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



 病弱だった子どもの頃の俺は、外へ出ることを禁じられることが多かった。
 熱が下がっても、数日はおとなしく家の中にいるように命じられた。
 しかし元気になれば暴れまわるのが俺だ。
 どうしても家の中にはいられない。

 だから、深夜にそっと抜け出すことを覚えた。

 夜には太陽がない。
 だから全ては日常の存在を消し、月光がその影だけの世界にする。
 俺は夜が好きだった。誰もいない、影だけの領域を愛した。

 ≪ 夜は来ぬ  今や  ほとばしり来るなべての泉 澄みし音高めぬ ≫
 
 静馬くんから教わったニーチェの詩を口ずさむようになったのは、後年だ。
 月は良い。

 アポロはなんで月に行こうとしたのか。
 月に行って、石ころだらけの世界だって、どうして言ったのか。
 そんなものは「月」ではない。
 月はもっと遠くて深くて美しくて尊いものなのだ。
 人間ごときが決して到達できない世界。
 地球の美しいものが流した一粒の涙。
 太陽が消えた無慈悲な世界を、泣きながら照らそうとする優しい存在。
 闇の中で、それに抗おうとするものこそが偉大なのだ。

 「絶望かぁ……」

 真の憧れは、絶望の中からしか生まれない。
 俺はそれを知っていた。
 「生きたいよな」
 お袋を泣かせたくない。
 それが俺の唯一の憧れだった。
 俺には無理だと分かっているからこその、「憧れ」だった。

 月はそれを照らしてくれた。



 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



 「大学時代の親友がいるんだ。夏休みにそいつの実家へ遊びに行って、夕暮れに庭で音楽を流してくれた。それがこの『ベルガマスク組曲』なんだよ」

 子どもたちは黙って聞いている。

 「ちょっと甘ったるい曲で、本来は俺の好みじゃないんだけどな。でも、あの日あの庭でこの曲を聴いて、以来大好きな曲になった」

 「ロマンティシズムですね」
 皇紀が言う。
 「黙れ、エロ野郎!」
 みんな笑った。
 「でも、その通りなんだよ。皇紀の言う通りだ。好き嫌いなんて、実は大したものじゃないんだよ。「思い出」と繋がれば、なんでも美しいものになる」
 亜紀ちゃんが、じっと俺を見つめていた。

 しばらく他愛ない話を時々し、俺たちは幻想のひと時を過ごした。








 皇紀は布団を自分で運んで、一晩ここで過ごした。
 翌朝、俺は朝食の準備をしていた。
 皇紀が俺が呼ぶ前に食堂に来た。
 「どうだったよ?」
 俺は笑いながら尋ねる。
 そこへ他の子どもたちもやってきた。

 「夜は最高だったんです、夜は」

 俺はにこにこして言葉を待つ。
 「でもですね、朝は最悪です。陽が昇ると、もう眩しいし暑いし。それに周辺が全部見えるし、なんかバカみたいでした」
 俺は大笑いした。
 亜紀ちゃんも双子も笑っている。
 「ロマンティシズムへの道は遠いよなぁ」
 俺は皇紀の頭をなでた。

 「結局な、ずっと良いことなんていうのは無い、ということなんだ。だけどちょっとだけ、一瞬でも、それは確かにある。だからそういうものを大事にしなければいけないんだ」
 俺は朝食を食べながら話す。
 「出会いというものへの感謝だよな。人生は辛いことの方がずっと多い。だけどな、素晴らしいことが確かにあるんだよ」
 周囲が林になっているため、鳥や蝉の鳴き声が盛んにする。
 子どもたちはその中で沈黙している。
 「本当に美しいものがこの世にはある。それは時には自分を変え、前に突き動かす力になることもある、ということだ」
 俺は話を終わり、子どもたちも朝食に戻る。

 「ああ、俺もな、前にやったんだよ。バカみたいだと朝に思った!」
 みんな笑った。



 別荘から戻り、ほどなくして子どもたちはそれぞれ新しい学校へ通い始めた。
 俺は前の夜の夕食の席で言った。
 「ちょっとみんな緊張しているだろう。まったく新しい学校だしな。でもそれはしょうがない。まあ、普通にやれ!」
 子どもたちはちょっと笑った。
 「いいか、一番重要なことは、何度も言っているように勉強だ。それを忘れなければ大丈夫だぞ。やるべきことをちゃんとやれば、人間はそれでいいんだからな」
 「友だちなんかいなくてもいいんだぞ。他の人間と仲良くする必要なんて全然無い。役目のことだけ考えればいいんだ」
 みんな、ちょっとギョッとする。

 「まあ、別に友だちを作ろうとしなくても、優秀になれば自然にできるよ。だから心配するな。皇紀、ぼっちでいいんだぞ!」
 みんな笑った。
 「友だちって、必要なんじゃないんですか?」
 亜紀ちゃんが手を挙げる。
 「友だちは大事だよ。だけどな、友だちになったら、大事な人間、という順番だ。一番いけないのは、他人の評価を求めることだ。無理に相手に合わせて、仲良くしてもらおうなんて考えるな」
 玻璃が手を挙げる。
 「みんなと仲良くしちゃいけないんですか?」
 「いけない、と思っておけばいいよ」
 俺がニコニコしてそう言うと、他の三人は「えっ」という顔をする。

 「みんなで、みんなと、というのは間違いだ。何かやるなら、「自分が」と思えばいい。みんなでやろう、なんて言う奴はダメだな」
 「!」
 「人間はみんな違うんだよ。だから合う人間、合わない人間がいて当たり前なんだ。それでいいんだ。それで、何かをやろうとするのは自分なんだから、他の人間は関係ない。自分がやればいいんだよ」

 亜紀ちゃんがまた手を挙げる。
 「誰かを嫌ってもいいということですか?」
 「当たり前だよ! 俺だって好きな人間と嫌いな人間がいる。反対に俺のことを好きな人間がちょっとはいるし、嫌いな人間は膨大にいるぞ。それでいいんだ。それ以外の状態なんて、人間にはできないことだよ」

 俺は、職場での人間関係を話してやった。



 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



 院長に呼ばれて、話し込んだ。
 だから食堂はギリギリの時間で、俺は慌てて食事を注文する。
 「すいません、遅くなっちゃって。急いで食べますから」
 「ああ、石神先生、大丈夫ですよ、ゆっくり召し上がってください」
 他にはほとんど人はおらず、五人ほどのあまり会話したことのない医師たちがお茶を飲んで何やら話していた。
 それが聞こえてくる。

 「インディアンって、禿げはいないじゃないですか!」
 一人の男性がそう言っていた。
 たしかに、とか相槌も聞こえる。
 「そこでインディアンがどうやって髪を洗ってるのかを研究した男がいるんですよ。その人が開発したのが、この「インディアン・シャンプー」なんです!!」
 「「「「オオーゥ!」」」」
 男性たちが感嘆をもらす。

 俺は思わず爆笑した。
 話を聞かれたと感じた五人が一斉に俺を睨み付ける。
 俺は無視して食事を終え、食堂を出て自分の部屋に戻る。

 「おい、一江!」
 俺はまだ残っていた一江を呼んだ。
 「なんですか?」
 「おう、さっきよ、第二外科の○○とか消化器科の□□とか五人が食堂にいたんだよ」
 「はいはい」
 一江が面白い話なのを察して寄ってくる。

 「あいつら、みんな禿げじゃない。どうも禿げ同士が集まって、会議をしてるんだよ」
 一江は笑いを堪えている。
 俺が「インディアン・シャンプー」の話を聞かせると大爆笑した。
 一江が教えてくれる。
 「私も前に見ました。定期的に集まって増毛の情報交換をしてるらしいですよ」

 「よし、あいつらを「ハーゲンダッテ」と名付ける。お前は拡散しろ」
 俺は有名なアイスクリームの名前をもじった。
 一江は身をよじって更に笑う。
 「分かりました! それにしてもいつも下らないことをする部長ですねぇ」
 「うるせぇ!面白いことは貴重なんだ」

 後日、俺はハーゲンダッテの面々に呼び出された。

 「石神先生、あなたは我々のことをあちこちでバカにしているそうですね!」
 ○○が俺に抗議する。
 ダサい連中だ。
 「はい、すみませんでした」
 「院長にも報告しますが、ヘンな噂は否定して欲しい。みんなに言って回ってください!」
 「え、あなた方がハゲではない、と?」
 ○○や他の四人が顔を真っ赤にして俺を睨む。
 俺は思わず笑い出してしまった。
 「もういい!! 我々は院長に正式に抗議します! 覚えておいてください!」

 翌日、俺は院長室に呼ばれた。

 「お前なぁ、なんで俺に面倒ばかりかけるんだ?」
 豪奢な院長室のでかい机に座っている院長・蓼科文学が切り出した。
 「ハーゲンダッテの件ですか」
 院長が必死に笑いを堪えているのがわかる。
 「お、おう。その件だ」
 非常に厳しい人間で、他の病院のスタッフたちからは大変恐れられている。
 実際、俺も数え切れないほど殴られた。

 「何か言うべきことはあるか?」
 「はい、是非お耳に入れたいことが」
 俺はまた「インディアン・シャンプー」の話を院長にした。
 院長は大爆笑した。

 その後、何とか威厳を取り戻し、俺に精一杯の怖い顔を向ける。
 「お前は本当に下らない、どうしようもないチンピラだ!」
 怒鳴って言うが、もう俺を本当に怒る気は無いのは分かっている。
 「まったく。いいか、人間の容姿なんてどうでもいいんだよ。でもなぁ、それに悩んでいる人間なら、その気持ちを察してやれ」

 「今、大爆笑した人がいる……」
 「うるせぇ!」

 それでも、もう表情を取り繕うつもりもなく、院長は笑顔で俺に言う。

 「まあ、○○が大真面目な顔で俺に泣きついてきたからなぁ。取りあえず、始末書を書け。まったく、うちの始末書ってお前のために補充しているようなものだぞ」
 俺は頭を下げ謝罪しながら、始末書を至急書くと言った。
 「もう連中とは揉めるなよ。あれでも仕事仲間なんだからな」

 「大爆笑した……」
 「出て行け!」



 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



 「ということがあったんだよ」

 みんな大笑いしていた。

 「それから、俺はどうも恨まれててなぁ。その後、俺を嫌う人間が集まって秘密結社みたいなのができた」
 更にみんな笑う。
 「一度なんて、本気で新興宗教に頼んで、俺を呪い殺そうとしたこともあったよ」
 「大丈夫だったんですか?」
 「うん、全然平気」
 また笑う。

 「一昨年前に俺は盲腸になったのな。虫垂炎、医学用語で「アッペ」というな。それで自分の病院で手術したわけだけど、どうせならと若い部下にオペをやらせたんだよ」
 「へぇー」
 「そうしたらなぁ。見事に失敗しやがった。腹を切らない「穿孔手術」という方法でやったら、俺の腹のぶっとい血管を切りやがった。お蔭で目が覚めたら腹が真っ黒よ。内出血でな」
 大笑い。
 「それを聞いた秘密結社の連中が、でかい酒場を借り切って、大パーティーをしたんだってよ」
 俺がやっぱり腹黒い男なんだと、大変盛り上がったらしい。
 「大丈夫なの?」
  心配そうに玻璃が俺を見上げる。
 「ああ、全然大丈夫だよ。さすがにちょっと熱は出たけど、すぐに収まった。まあ、あいつらの溜飲もちょっとは下がっただろうから、結局オーライだったんだよなぁ」
 俺は玻璃の頭を撫で、両頬を挟んでグリグリしてやった。
 玻璃が笑った。
 「そういうことでな。ああ、どういうことかよく俺も分からんが、心配するな。思い切り役目を果たすことだけ考えて行けばいいんだぞ!」

 みんないい返事をしながら各自の部屋に戻っていった。
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