三界の棲家

影燈

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 どう声をかけたらいいのかわからなかった。
 こんなことは初めてかもしれない。これまで、云いたいことをいい、好きにやってきた。でも、紅の気持ちを慮ってしまうと、なんと話しかけてよいのかうまい考えが浮かばないのだった。
 緑の深い場所だった。荘厳な雰囲気がしていて、石灯籠が鉄壁のように外界から畑を守っているように見えたはずだった。けれどその鉄壁の守りも完璧ではなかったのだ。
 石灯籠のいくつかは倒され、またいくつかは破壊されて死体のように横たわっている。
 畑の土はぐちゃぐちゃに荒らされていて、いくつかの石の玉は割られてその場に散乱していた。その石の玉は、紅や半助のかつての仲間の魂であったものだ。
 紅は、白狐のものだろうか、一つの石を抱きしめて、その場にへたりこむように座っていた。
 言葉もなく、涙さえながさずただただじっと荒らされた畑を見つめている。その背の小さいこと。
 彩は木の陰に隠れたまま、紅との間にあいた距離を埋められないでいる。
 私にできることは、何もないのだろうか。
 紅は否定していたが、心があればだれだって、こんな目に遭えば死にたくなる。
 紅は、死のうとしていたのかもしれない。
少なくとも、死んでもいいとは思っていたのだろう。
それを考えると、彩の胸の中がえぐられたように痛むのだった。
 妖狐が何年生きるのかはわからない。もう千を超えるときを生きてきた紅にとって、これからの道は長いのか短いのか。
 でも、紅が恐れているのはその長さだけではないのだ。
 紅がもっとも恐れているのは――。
「いつまでこそこそしてやがる」
 彩はぎくりとして、木の陰から歩み出た。
「気づいてたんだ」
「人間の匂いはすぐわかる。私の半径一キロ以内に入れば気づかれていると思え」
「一キロって、どんだけ」
「ここへ来い」
 紅がそういうので、ためらっていた足を動かして彩は紅の隣にしゃがみこんだ。
 畑は見るも無残な有様だ。それが墓なのだと思えば、どれほど罰当たりな行いか。
「神様は何してんだろうね」人が妖狐に願い事をするなら、妖狐は誰に願えというのだろう。
「私たちの神は、山神様だ。山神様はただそこにあり、我々を見守ってくれる」
「でも、与えられた仕事があるんでしょ。こんな大変な仕事、押し付けるだけ押し付けて、あとは知らんぷりなんてひどいじゃん」
「おまえ、何故役目のことを知っている」
 紅は怪訝な顔をした。
「白狐から聞いた。それから、夢に見た」
「夢?」紅の眉間の皺が更に深くなる。
「そう、夢だよ」誤魔化しても紅は誤魔化されないだろう。彩は観念して、夢のことを話した。
 紅はさほど驚いてはいなかった。
「そうか。夢か……」
「うん。紅が半助に襲いかかってチューしてた」
「ばっ。その云い方はやめろ! ていうか、そんなところまで見てたのか」
 急に慌てる紅がなんだか可愛い。
「そのあともばっちりみたよ」
「や、やめろ、忘れろそんなことは。なんなら今すぐ妖術で記憶を消してやる。そこになおれ」
「いでででででで。やめれやめれ!」
 紅が本気になって彩の髪をつかんだので、慌てて嘘だということを明かすと頭を一発殴られた。この乱暴なところがなければほんとうにいいやつなのに。
「っていうか、あれ事実だったの?」
 紅はためらいがちに肯く。
「そういうことは、確かにあった」
「それじゃあ、あの後はどうなったの」
「あの後は――って、そんな誘導尋問にひっかかるか。それより、なんでおまえにそんな能力がある。それは千里眼だぞ」
「千里眼って、遠くのものがみえるってやつ?」
「ああ。いや、だがそうするとその時のものが見えなければおかしい。おまえは霊感が強い。だから近づいた私の霊体を感じ取ってその記憶を見たのか、いやいや、そんな能力はきいたことがない。霊体にひっかかって、私のことが見えたのには違いないだろう。ならば、過去のことを見たのはどうしてだ。時を遡って見ることができるなんて――」紅ははっとしたような顔をして彩を見た。
「おまえの親は妖怪なんじゃないか」
 彩は何を云いだすのかと、首をすくめた。
「そりゃないね。私のおっかさんとおっとさんは、バリバリ人間だったから」
「しかし覚えてないんだろ、生まれたときから十二歳のときまでのことを」
「まあね。でも、私が半妖だなんてことはないよ」
 彩が云うと、紅は少し考えた素振りで肩頬を上げた。
「そうだな。おまえ人間臭いもんな」
「その人間臭いってなんなの。一体どんな匂いすんのよ」
「石鹸の匂いとか」
「なんだ、いい匂いじゃん」
「キムチの匂いとか」
「え、それって一昨日食べたやつじゃん。まだにおうの」
「におうにおう」
「て、そもそも人間関係なくない? くったもんの匂いじゃんか」
「そうだな」
「そうなんかい!」
「おまえ――」
 紅は急に黙って彩の顔を見つめた。
「なに」
「もしかして励まそうとしてるか」
「え。別に?」
「テンションがおかしい」
「いつもこんなテンションだし。なにいうとるねん」
 紅は目を細めた。
「やめたほうがいい。空回りしてるぞ」
 彩はムカッときて立ち上がった。
「なんなのその云い方! 人が気い使ってやってんのに」
「それが気い使ってる態度か」
「今まで気い使ってたでしょうが」
「余計なお世話だ」
「むっかー。もう二度とあんたになんか気いつかってやんないから」
「ああ、結構。そんなことされたらむずがゆくてたまらん」
「マジかわいくない!」
「おまえもな。おまえ、おっさんみたいだぞ」
「はあ!? それだけはあんたに云われたくないんだけど。自分だっておっさんのくせに」
「妖怪は齢をとっても白髪が増えるだけで容姿はかわらん。白髪も今はいいカラー剤が売っているしな」
「なにそれ卑怯だし! っていうか、そういう問題じゃないし。あんたは男みたいだっつってんの」
 思いがけずその言葉は紅に引っ掛かったようだった。
「半助を差し置いて突っ走るし、おまえは私が守る、みたいな? あれじゃ半助立つ瀬ないっつうの」
 ここぞとばかりにまくしたてた彩だったが、気づけば紅は黙ってうつむいてしまっている。
「ご、ごめん。言いすぎたかな」
「いや、おまえの云う通りだ」
「え」そんなふうに素直に受け止められるとこっちが焦る。
「私は、半助の気持ちをなにも考えていなかった。ただ、半助には生き延びてもらいたいと、それだけしか考えず……」
 彩は再び紅の隣にしゃがみこんだ。
「あの、その話、詳しく知りたいんだけど。半助、病気か何か?」
「いや」と、紅は苦笑する。
「寿命だ」
 笑みの残った顔を、紅は悲しげに歪めた。
「寿命――」
 今更、気づいた。
 白狐の白い毛。紅の死に近づいたときに白くなった髪。
 妖狐は、死に近づくほど毛が白くなるものか。
「妖が濃いか人が濃いかでも違うが、普通半妖でも二千年は生きられる。だが半助はその能力故、これまで寿命を縮めてきたんだ」
「え、なに、どういうこと」
「半助は、ひとに時を与えることができるんだよ」
「時を与えるって、何。よくわからないよ」
「鵺と反対だと思えばいい。鵺はひとの寿命を喰らい、半助はその反対にひとに寿命を与えるんだ」
「そんなことが――」彩ははっとした。「もしかして、その与える寿命が、自分の寿命を削ったものなの」
 紅は静かに肯いた。
「じゃあ、半助はひとに自分の寿命を与え続けてきたっていうの。千年分も?」
「そうさ。あいつは、お人よしだからな。胎児の寿命を奪われちゃ黙っていられないのさ」
「でも、白狐が死ぬとき、寿命は定められているものだって」
「そうさ。けど、寿命は長さというより量なんだよ」
「量?」
 首をかしげる彩に、紅は両手に土を一杯すくって見せた。
「この掌の上にある土が寿命さ」
 紅はすこしずつ土をこぼしていった。
「こうして少しずつ減っていくものを、半助は他のものに与えることができるんだ」
 紅は彩に手を出すように云い、その上に自分の掌の上にある土を半分のせた。
「与えられる土の量は決まっていても、この土をどう使うかは本人次第なのさ。まあ、普通は全部自分で使うけどな」
 掌の土は湿って、重かった。けれど、温かい。そうして土をもっていると、なんだか本当にその土が命のような気がしてくるから不思議だった。
「もう半助には、少ししかない」
 紅は、掌の土をほとんどこぼしてしまった。掌に残るわずかな土を、紅は握りしめた。もう一粒もこぼしまいとするように。
「妖力を使えば土は減る。ひとに与える寿命なんてもうないはずなのに、きっとまた胎児の命を奪われた者を見つければ、自分の寿命をやってしまうのさ」
「大切なひとに、置いていかれるのは辛いもんね」
 云いながら、紅の気持ちなど彩にはわかりっこないと思っている。だって、彩が大切に思った人などいないから。でも今は、紅の気持ちに寄り添いたい。できるだけ、わかってやりたいと思った。
「でも、」
 紅は、目に滲んだ涙を誤魔化すように空を見た。
「死にたかった訳じゃないんだ。本当に」
「白葉を吸っていなかったこと?」
「ああ」
「それじゃあ、」どうして。と問いかけて、彩はわかった。「半助に与えようとしたんだね」
「無駄なことだけどな」紅は苦笑する。
「無駄?」
「普通妖力は妖怪それぞれによって違う。親子で共有できても、他人とは共有できないものだ」
「それじゃあなんであんなに貯めてたの」
 紅はすぐには答えなかった。目は、青い空を見つめていた。
「になれば、共有できると思っていたからさ」
 紅は少し頬を赤らめていた。
「妖力が交わると霊体の性質が変わることがある。そうならば、私の稼いだ白葉を半助が使えるかもしれない。それができたら、半助の寿命を延ばすことができるかもしれないと考えてたんだ」
 紅は自嘲した。
「そんなこと、あるはずもないのにな」
 何一つ、彩は気の利いたことが云えなかった。云えるはずもない。今まで生きることに真剣にならなかった彩に、どれだけ長く生きても命を尊ぶことのできる者の心がわかるはずもない。
 すべてのむちは、罪なのだ。
「さて」
 と、紅は立ち上がった。
 風が吹いて、紅の真紅の髪がなびいていた。
 雨はしとしとと止むことを知らぬように振り続けている。紅は空を見つめていた。
「決着をつけねばな、この雨が止む前に」
 彩も立ち上がって、空を見上げた。
 蒼穹に降る雨はなんだか、歯がゆく感じる。
「これからどうするの」
「飯を食う」
 紅は、それをごくごく重要なことのように云った。彩は半ば呆れたが、確かに食べることは大切なことなのかもしれない。
「だが困ったことに食糧は全部土の中だ」
 結界が破れ、鵺に破壊されてしまった穴蔵は完全に土の中に埋まってしまった。掘り起こせば食べられないこともないだろうが、そんなことをしていたら何日かかるかわからない。
「じゃあ、どうするの」
「買い物に行く」
 紅はそう云うと、取り出した白い葉を手の中で揉むと一万円札に変えた。
「すごい! 手品みたい」
「手品じゃない。本物の金だ」
「そうなの?」
「大事な妖力をこんなことには使いたくないがな。山で食べられるものも限られているからな、仕方ない。行くぞ」
「行くぞって、」
 紅はさっさと森の中へ向かって歩き出してしまっている。
「ねえ、待ってよ。半助はいいの」
「あいつは寝てるだけだ。半可と半鵺に後を任せてある。心配ない」
「でも、もしまた鵺がきたら」
「昼間のうちは半可の張った結界で十分防げる。夜になればわからんがな」
 紅がさっさと行ってしまうので、彩は仕方なく後を追い掛けた。すると、いくらもいかないうちに小さな神社が見えた。これまでいくら歩いてもそんなところは通りかからなかったのに。
「こっちだ」
 社の横の開けた場所に降りてきた二人は、社の前を通って鳥居をくぐり、石段を降りていく。ところどころ苔むしていて、用心していないとすべって転びそうだ。と思っている側から彩は滑って尻もちをついてしまった。
「いでええ」
「ドジ」と紅は心配の欠片も見せずにさっさと彩を置いていく。
「ちょっと! 大丈夫? とか云えないの」
「尻もちくらいでガタガタ云うな。ほら、さっさとしろ」
「もう」まったく優しいんだか優しくないんだかわからない。
 階段を降りきってしまうと、防災倉庫があって、その向かいには手水場があったが水は枯れて苔に覆われていた。
 また鳥居と、石灯籠が左右対称に並んでいてそこを抜けると住宅街に出た。田舎だと思っていたが、意外と真新しい建物が多い。坂を下っていくと、大通りを車が横切って行く。交通量は少なく、歩いている人も見かけない。
「ここは街の外れのほうだからな。大抵の人間はこの時間街へ出ている」
「へえ。そんな過疎化しているとこに、食糧買うところなんてあるの」
「今どきどこでもコンビニくらいはあるもんだ」
「そうなんだ。じゃあ、あんまり歩かなくてすみそうだね」
 紅はスタスタ歩いて行ってしまうので、ついていくのが大変だ。
「いや。そこでは用が足りない」
 云いつつ、紅はコンビニを横目に通り過ぎていく。
「用足りないって、最近のコンビニは結構品揃えいいんだよ」
「必要なものがあるんだ。あの店にはそれが売ってない」
 紅は深刻そうにそう云うと、またスタスタと歩き始めてしまった。
 そうまで云うなら仕方ない。大事な妖力をお金に変えてまで必要なものなのだ。きっとよほど重要なものに違いない。
「なにが必要なの」訊いてみた。
「スパイス」
「すぱいす?」彩は顔をしかめた。
「私は、イエローカレーが食べたいんだ」
「……は?」ちょっとあ然とする。
「イエローカレーって、エスニックカレーのあのイエローカレーですか」
「そうだ」と、紅は当然のようにそう云う。
「それ……別にどうしても必要じゃないんじゃないの」
「どうしても必要なものではないが、どうしても食べたいんだ」
「いみわからん! そんなもののために遠くまで行くのなんてヤダし」
「こっから引きかえすのも結構距離があるぞ」
「ぬ」
 引きかえして疲れるくらいなら、目的地まで行って疲れたほうがマシだ。
 仕方ない。
 彩は黙って紅についていったが、住宅街を抜けると今度はどこまでも続く農道を歩きはじめた。開けた場所なので、行きあたりは見えるのだがその距離は恐らく数キロはある。
そしてその農道を抜けた先にも、民家が立ち並ぶだけで店などある気配がしないのだ。
 もう歩きたくない。
「ちょ、ちょっと紅」
 彩は額の汗をぬぐいながら先へゆく紅を呼び止めた。
「なんだ。急がねば日暮れに間に合わないぞ」
「間に合わないって、どこまで行く気」
「だから街のほうだ」
「街って、あとどのくらいあんの」
「あと、十キロくらいだな」
「十キロって、バカじゃないの!」バカだバカだ大バカだ!
「さっさと歩けばすぐに着く」
「あんたと一緒にすんなっつの。私はか弱い人間なんだよ!」
「か弱い人間は自分のことをか弱いなどと云わんもんだ」
「うっさいな! とにかく無理だっつの。そんなに歩けない!」
「仕方ない」
 紅は彩に向かい合ったかと思うと、いきなり手に大うちわを出した。
「なに」祭りのときに神輿をかつぐ人を仰ぐ、あのうちわによく似ている。だってうちわの中央にはなぜか、祭りと書いてある。
「ナンプラーと砂糖と鶏肉とココナッツミルクを大量に買ってこい。残りはおまえの采配に任せる」
「は? え?」
 彩が戸惑っているうちに、いきなり躰が宙に浮いた。かと思うと、彩はものすごい速さで空を飛んでいた。というか、弾き飛ばされたような感覚だった。逆バンジーなどしたら、きっとこんな感じなのだろう。だが長い。
「ぎょひいいいいいいいいいいいいいいいいっいいいいいいいいいいいいいい」
 悲鳴も息継ぎをしなければならないほどだった。
「ずがこーん!」
 彩は臭い山の中に落っことされて、我に返った。
「くっせ。くっせ」
 彩は慌ててビニール袋の山からはいずり出る。薄暗い中には、彩のうずもれていたのと同じようなビニール袋がいくつも積み重ねられ、他には段ボールや瓶などがひとまとめに置いてあった。
「どうみてもゴミ捨て場じゃんか」
 呻いたところへ、丁度ドアが開いた。ファーストフード店の制服を着た女の子が顔を覗かす。その子が彩を見て、「きゃっ」と短い悲鳴を上げた。その隙をみて、
「あ、どうもごめんあそばしっ」
 彩はするりと外へ出た。
 一瞬外の眩しさに目を細めるが、すぐに慣れる。広いアスファルトの敷地に白線、そこに車が並んでいた。駐車場のようだ。とりあえずあてずっぽうに歩いてみると、駐車場は折れ曲がってまだ先にも続いている。進んでみる。すると、更に開けた場所に出た。
「なんか、ショッピングモールみたい」
 呟いてふと見上げると、ショッピングモールだった。
 彩は服の匂いをかいだ。幸い、悪臭は移っていなかった。それにしても、わざととしか思えない。紅はわざと彩をごみの山に放り込んだのだ。しかも買い物は人に押し付けて、自分はどこへ行ってしまったのか。まったく勝手なやつだ。
 大体、お金も渡さないで――と、いつのまにか彩は巾着を首からさげているではないか。これじゃあ、はじめてのおつかいにでるこどもみたいだ。彩は急いで巾着を首から外した。
茶色の革でできたような素材のその巾着は、紅が持っていた白葉が入っていたそれに似ている。
 中を開いてみて、彩は目を瞠った。なんと、その中には一万円札がぎっしりと詰め込まれていたのだ。
 彩は急いで巾着の口を閉じ、ショッピングモールの中にあるトイレへと駆け込んだ。
 巾着を開き、無雑作に入っている札を一枚一枚とりだしては伸ばして数えてみた。
「三十八……」
 彩はその三十八枚をトイレットペーパーでぐるぐる巻きにした。すでに百枚、ぐるぐる巻きにしているものもある。全部で、百三十八枚。百三十八万円もの大金を、紅は彩に託したのだ。
「どんだけイエローカレーくいたいんだよ」
 呟きつつ、そうじゃないとわかっている。
 巾着にはお金の他に、彩の名の保険証と鍵と地図が入っていた。
 地図は、市街のもので、紅い色で示された位置に「ここがおまえの新しい棲家だ」と達筆でメモ書きがされてあった。
「棲家って」彩は唇を噛んだ。
 彩は、よく追いだされたのだ。金をやるから出て行けということなのだ。
 と、前ならそう考えたかもしれない。けれど、今なら紅の隠された意図がわかる。紅は、危険に彩を巻き込まないために、彩を遠ざけたのだ。だが、保険証はなんなのだろう。確かに、あるにこしたことはないが、土に埋もれてしまった荷物の中にはもっと他にも必要なものがあった。なぜ、保険証だけなんだろうか。たまたまそれが出てきたのか。それより、携帯電話のほうが彩にとっては重要だった。と、そこまで考えてふと自分の中の違和感に気づく。
携帯などもはや必要ないではないか。
家族もいない彩にとって、連絡する相手などはいないし、したい相手もいない。唯一いるとしたら、祠の棲家で出会った半妖のみんなだ。紅や半助、半可に半鵺。だけど、みんなは携帯なんかもっていない。
 云いたいことがあれば口で云うしかないし、会いたければ会いにいくしかない。
「イエローカレーね。買えるだけ買ってってやるから」
 彩は勢いいさんでトイレから出た。
 広いショッピングモールだった。四階建てで、四回は屋上駐車場、二三階のフロアには洋服や雑貨などおしゃれなものが売っていて、食品売り場は一階だった。
彩は、輸入食料品店を見つけて、そこでナンプラーとココナッツミルクを店頭に並んでいる分だけ買い込もうとしたが、持ちきれない。
どうやって持って帰ろうか。きっとまた紅がなんとかしてくれる。一瞬そう考えて、紅はもう彩を呼び戻す気などないのだと思い出した。
それでも彩は、両手に一袋ずつ、持てる分だけ材料を購入した。呼ばれなくたって、帰ってやる。今までだってそうやってわがままに生きてきたのだ。遠慮する必要なんてない。
店を出ると、近くのカフェからはコーヒーのいい香りがしていた。けれど不意に気分が悪くなった。
 と、思う間に急激に腹部に痛みが走る。あまりの痛みに耐えきれず、彩はうずくまった。
 思わず手放した紙袋から、ココナッツミルクの缶が転がり出て行く。
 だめ。
 彩は必死で缶に手を伸ばした。
 帰るんだ、みんなのところに――。
 
 それからのことはよく覚えていない。警備員の制服を着た人がきて、救急車を呼ばれたのだと思う。
 気づいたときには、病院にいた。
 そして――医者に、妊娠を告げられた。



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