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半助の姿が林の奥へ消えていった頃、彩の身体は動くようになった。頽れそうになるところを、すかさず己之吉が抱き留めた。
「大丈夫かい」
己之吉はそう優しげに声をかけたが、彩は答える気になれなかった。それまで己之吉が村人の中に混じっていたことに気づかなかった。
「顔色が悪いね。無理もない。怪妖に襲われたのだからね、かわいそうに。家で休んだほうがいい。私が送っていこう」
彩は己之吉にもたれかかりながらも、首を振った。
「どうしたんだい。もう大丈夫だよ。悪い怪妖は去った。東狐様にも報せを出しておいたからね。きっと見回って退治して下さるよ」
「やめて」
彩は絞りだすような声で言った。声を出せば、情動が溢れて涙が止まらなくなった。
「可愛そうに。よほど怖かったのだね」
己之吉が言うと、皆も勘違いして口ぐちに半助を罵る言葉を吐いた。彩は唇を噛んだ。
悔しかった。違う、と声を大きくして言いたい。でもそれをすることは、半助の好意を無にすることだ。それは、したくない。でも、このまま半助を悪者にしておくのは、耐え難いほどに心苦しい。
「大丈夫さ。もう心配いらない。私がついているからね」
己之吉がやさしく肩を抱いてくれた。背中を叩いてくれる。
かつてはそれが彩の癒しになっていたのに、今はどこかぎこちない。己之吉のほうに問題があるのか、それとも自分のほうか。己之吉に触れていたくなかった。
「お騒がせしてすみません。帰ります」
彩は己之吉からさっと離れて、村人の前を走り去って家の中へ駆け込んだ。玄関へ入って後ろ手に戸を閉めると、力が抜けてそのまま土間に泣き崩れた。
――辛い。
まさか半助があのような行動に出るとは思わなかった。そこまで人間に気を遣う怪妖がいるなどとは思いもしなかった。
半助に爪をつきつけられたとき、初めはやはり怪妖は怪妖なのだと失望した。けれど、そうではなかったのだ。すべて、自分たちのために半助は汚名を着てくれたのだ。しかもそれだけではなく、半助はこの村のために何かしようとしてくれている。いや、彼ならきっと何とかしてくれるだろうという気がした。
それなのに、何故彼が憎まれなければならないのか。あんなに、人の良さそうな彼が。
腰を抱えられた。片腕で。華奢だと思っていたのに、いとも簡単に自分を持ち上げられた。
思い出すと、顔が熱くなった。
驚いたけれど、嫌ではなかった。むしろ、まだ彼のぬくもりがそこに残っているような気がする。忘れがたい、温かさだった。
彩は別れ際の半助の姿を思い出そうとした。笑っていた。彩に心配をさせないように。だけど、額からは血が流れていた。
自分から礫に当たるなんて、愚かな……。血はかなり多かったようだが、大丈夫だろうか。またどっかでのたれてしまうのではないだろうか。考えると、心配で心配でたまらなくなってきた。心配しなければならないことは、他にあるのに。でも、その心配は半助を信ずることによって薄くなっているのだ。
半助がもし本当に雨を降らせてくれたら、自分は狐の嫁にならずとも済む。だけどそのときは、己之吉の嫁になるのだ。
彩は気が重くなった。
あんなに己之吉が婚姻の儀を先延ばしにしていたことに腹が立っていたのに、今ではどこかそうならないほうがいいと思っている。
自分は我儘だ。
狐の嫁にも、己之吉の嫁にも、なりたくなどない。でも、どうしようもない。
雨が降れば彩は己之吉の嫁に、降らねば狐の嫁に、彩はなる運命なのだ。
彩はむせび泣いた。袖の重くなるほど涙を流していると、兄がやってきた。
おもむろにかまちへ腰かけると、義範は言った。
「俺は、お前のしがらみにはなりたくないと言ったはずだ」
彩は顔をあげて兄の顔を見た。
彼の言葉はいつも唐突だ。人の気持ちを読んで、先回りして言うのだ。
彼の目は閉じているものの、その瞳はしっかりと彩のことを見ているような気がした。そして、兄はわかっているのだと思った。自分のことを、自分よりも兄はわかっている。
「別に、そのようになど思っておりませぬ」
彩は口だけで言った。兄ははなからその言葉を信じていない。
「ならば聞きたい。いつからお前はそんなに大人しい娘になった。何故だ。友がいじめられていると知れば、たとえ相手が筋骨隆々の大男であろうと立ち向かい、病の者に薬草が必要とあらば怪妖も恐れず山へ入り、溺れている子犬がいると見れば冬の川へもためらいなく飛び込んで、それがお前という女子ではなかったのかな」
彩は顔を赤くした。
「いずれも幼き頃の話ではございませぬか」
いつしか成長して、彩は兄のために裕福な御家へ嫁がねばならぬと思うようになった。父母の残してくれたものはあれど、いつ底をつくかわからない。まして、兄は目が見えぬ。共に面倒を見てくれるような、懐の温かいお方に嫁ぐためには、乱暴者、のままではいかぬと思い極めて行儀をよくしようとこれまで努力してきたのだ。そのかいあってか、村一の美男子と噂される己之吉に見染められて許嫁となることができた。己之吉は肝煎りであるし、舅となる源右衛門も彩に優しくしてくれた。これ以上の相手はいなかった。いないのだ。だから、彩は己之吉の嫁になることを迷ってはいない。
はずだった。
なのに、この胸の中のわだかまりはなんだろう。
「幼き頃は皆、宝をもっておるものだ。それを、大人になれば人は見失ってしまう。何故か。邪念が混じるからだ」
「邪念――」心外だ。彩は腹を立てて言い返した。
「では、お兄様は私が今まで美しい女性になろうと心身を労してつとめてきたことをすべて愚かなことであったと仰せになるのですか」
「そうとは言っていない。乱暴はよくない。それを直そうと思うのはよいことだ」
「では、一体何がいけないと言うのですか」
「すべて大事なるは動機であろう」
「どうき?」
「そうだ。今までお前の眼は曇っていた。そんなものならば、ないほうがましだと俺は思うていた。真実の見えぬ目など、持っているだけ邪魔なだけだろう。だが、目が覚めたんじゃないのか。善悪は、種で判じられるものか? 人間ならば善で、怪妖ならば悪なのか?」
彩は首を振った。
「違います」半助は少なくとも、悪ではない。だけど、人間だって生きていかなければならない。自分たちだって、この村で生きていくために、怪妖の味方をするわけにはいかない。そう思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
「これまでにも何度言ったことかわからないが、俺はお前の足かせにはなりたくない。お前はお前の思うように生きてもらいたい。言うなればそれが俺の幸いだ」
兄が、嗚咽する彩の背に手を触れて言った。そうされると、気持ちが安らいでいく。
「俺のことは気にしなくていい。お前はお前の信じた通りにやれ。心のままに」
信じた通りに。心のままに。
その言葉がすっと胸に染み入る。奥につかえていたものがとれたような気がした。息ができて、清々しい。
「お兄様。私、半助さまの後を追いたい」
兄は黙って肯いた。やはり、彩よりも彩のことを義範はわかっていたのかもしれない。
「水のこと、何かして頂けるのであれば、お任せしたきりにしておくわけにはいきませぬし。それに……」この気持ちは、何と言ったらよいのだろうか。心配、といえば心配なのだが。それだけではなく、どうしてだかもう一度会いたいと思う。
何と説明しようかと考えているうちに、義範は波紋のごとく静かにほほ笑んで言った。
「言葉を探す暇があるのなら、早く行って半助を見つけてこい。賢くないものがいくら考えても答えなど見つからぬぞ」
「まあ、あんまりにございます」
彩は憮然としたが、義範の言うことも最もだ。自分には、考えるよりも動くほうが向いている。
義範は笑うのをやめて、懐から金の鈴を取り出して彩に渡した。
「悪鬼避けの鈴だ。村を出れば、西狐の目を盗み人を襲ってくる怪妖もいるかもわからない。くれぐれも気をつけよ」
彩はその鈴を受け取って、胸が熱くなるのを感じた。兄とて、彩のことが心配なのだ。だが、その自分の心配を解消したいがために彩を束縛しようとしないところが兄の懐の深いところだ。いけないことはいけないと厳しくたしなめる兄だが、何が最も彩にとってよいことかを、兄はいつだって考えてくれていた。
「ありがとうございます」ぐすりと鼻をすすると、兄の大きくて温かい手が頭にのった。
「もう泣くな。泣けば涙で眼が曇るぞ」
彩は涙を拭って肯いた。見える者よりも、兄には見えているのだろう。きっと。大事なことが。彩は鈴を握りしめた。
この村のために。兄のために。自分のために。
「行って参ります」
「大丈夫かい」
己之吉はそう優しげに声をかけたが、彩は答える気になれなかった。それまで己之吉が村人の中に混じっていたことに気づかなかった。
「顔色が悪いね。無理もない。怪妖に襲われたのだからね、かわいそうに。家で休んだほうがいい。私が送っていこう」
彩は己之吉にもたれかかりながらも、首を振った。
「どうしたんだい。もう大丈夫だよ。悪い怪妖は去った。東狐様にも報せを出しておいたからね。きっと見回って退治して下さるよ」
「やめて」
彩は絞りだすような声で言った。声を出せば、情動が溢れて涙が止まらなくなった。
「可愛そうに。よほど怖かったのだね」
己之吉が言うと、皆も勘違いして口ぐちに半助を罵る言葉を吐いた。彩は唇を噛んだ。
悔しかった。違う、と声を大きくして言いたい。でもそれをすることは、半助の好意を無にすることだ。それは、したくない。でも、このまま半助を悪者にしておくのは、耐え難いほどに心苦しい。
「大丈夫さ。もう心配いらない。私がついているからね」
己之吉がやさしく肩を抱いてくれた。背中を叩いてくれる。
かつてはそれが彩の癒しになっていたのに、今はどこかぎこちない。己之吉のほうに問題があるのか、それとも自分のほうか。己之吉に触れていたくなかった。
「お騒がせしてすみません。帰ります」
彩は己之吉からさっと離れて、村人の前を走り去って家の中へ駆け込んだ。玄関へ入って後ろ手に戸を閉めると、力が抜けてそのまま土間に泣き崩れた。
――辛い。
まさか半助があのような行動に出るとは思わなかった。そこまで人間に気を遣う怪妖がいるなどとは思いもしなかった。
半助に爪をつきつけられたとき、初めはやはり怪妖は怪妖なのだと失望した。けれど、そうではなかったのだ。すべて、自分たちのために半助は汚名を着てくれたのだ。しかもそれだけではなく、半助はこの村のために何かしようとしてくれている。いや、彼ならきっと何とかしてくれるだろうという気がした。
それなのに、何故彼が憎まれなければならないのか。あんなに、人の良さそうな彼が。
腰を抱えられた。片腕で。華奢だと思っていたのに、いとも簡単に自分を持ち上げられた。
思い出すと、顔が熱くなった。
驚いたけれど、嫌ではなかった。むしろ、まだ彼のぬくもりがそこに残っているような気がする。忘れがたい、温かさだった。
彩は別れ際の半助の姿を思い出そうとした。笑っていた。彩に心配をさせないように。だけど、額からは血が流れていた。
自分から礫に当たるなんて、愚かな……。血はかなり多かったようだが、大丈夫だろうか。またどっかでのたれてしまうのではないだろうか。考えると、心配で心配でたまらなくなってきた。心配しなければならないことは、他にあるのに。でも、その心配は半助を信ずることによって薄くなっているのだ。
半助がもし本当に雨を降らせてくれたら、自分は狐の嫁にならずとも済む。だけどそのときは、己之吉の嫁になるのだ。
彩は気が重くなった。
あんなに己之吉が婚姻の儀を先延ばしにしていたことに腹が立っていたのに、今ではどこかそうならないほうがいいと思っている。
自分は我儘だ。
狐の嫁にも、己之吉の嫁にも、なりたくなどない。でも、どうしようもない。
雨が降れば彩は己之吉の嫁に、降らねば狐の嫁に、彩はなる運命なのだ。
彩はむせび泣いた。袖の重くなるほど涙を流していると、兄がやってきた。
おもむろにかまちへ腰かけると、義範は言った。
「俺は、お前のしがらみにはなりたくないと言ったはずだ」
彩は顔をあげて兄の顔を見た。
彼の言葉はいつも唐突だ。人の気持ちを読んで、先回りして言うのだ。
彼の目は閉じているものの、その瞳はしっかりと彩のことを見ているような気がした。そして、兄はわかっているのだと思った。自分のことを、自分よりも兄はわかっている。
「別に、そのようになど思っておりませぬ」
彩は口だけで言った。兄ははなからその言葉を信じていない。
「ならば聞きたい。いつからお前はそんなに大人しい娘になった。何故だ。友がいじめられていると知れば、たとえ相手が筋骨隆々の大男であろうと立ち向かい、病の者に薬草が必要とあらば怪妖も恐れず山へ入り、溺れている子犬がいると見れば冬の川へもためらいなく飛び込んで、それがお前という女子ではなかったのかな」
彩は顔を赤くした。
「いずれも幼き頃の話ではございませぬか」
いつしか成長して、彩は兄のために裕福な御家へ嫁がねばならぬと思うようになった。父母の残してくれたものはあれど、いつ底をつくかわからない。まして、兄は目が見えぬ。共に面倒を見てくれるような、懐の温かいお方に嫁ぐためには、乱暴者、のままではいかぬと思い極めて行儀をよくしようとこれまで努力してきたのだ。そのかいあってか、村一の美男子と噂される己之吉に見染められて許嫁となることができた。己之吉は肝煎りであるし、舅となる源右衛門も彩に優しくしてくれた。これ以上の相手はいなかった。いないのだ。だから、彩は己之吉の嫁になることを迷ってはいない。
はずだった。
なのに、この胸の中のわだかまりはなんだろう。
「幼き頃は皆、宝をもっておるものだ。それを、大人になれば人は見失ってしまう。何故か。邪念が混じるからだ」
「邪念――」心外だ。彩は腹を立てて言い返した。
「では、お兄様は私が今まで美しい女性になろうと心身を労してつとめてきたことをすべて愚かなことであったと仰せになるのですか」
「そうとは言っていない。乱暴はよくない。それを直そうと思うのはよいことだ」
「では、一体何がいけないと言うのですか」
「すべて大事なるは動機であろう」
「どうき?」
「そうだ。今までお前の眼は曇っていた。そんなものならば、ないほうがましだと俺は思うていた。真実の見えぬ目など、持っているだけ邪魔なだけだろう。だが、目が覚めたんじゃないのか。善悪は、種で判じられるものか? 人間ならば善で、怪妖ならば悪なのか?」
彩は首を振った。
「違います」半助は少なくとも、悪ではない。だけど、人間だって生きていかなければならない。自分たちだって、この村で生きていくために、怪妖の味方をするわけにはいかない。そう思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
「これまでにも何度言ったことかわからないが、俺はお前の足かせにはなりたくない。お前はお前の思うように生きてもらいたい。言うなればそれが俺の幸いだ」
兄が、嗚咽する彩の背に手を触れて言った。そうされると、気持ちが安らいでいく。
「俺のことは気にしなくていい。お前はお前の信じた通りにやれ。心のままに」
信じた通りに。心のままに。
その言葉がすっと胸に染み入る。奥につかえていたものがとれたような気がした。息ができて、清々しい。
「お兄様。私、半助さまの後を追いたい」
兄は黙って肯いた。やはり、彩よりも彩のことを義範はわかっていたのかもしれない。
「水のこと、何かして頂けるのであれば、お任せしたきりにしておくわけにはいきませぬし。それに……」この気持ちは、何と言ったらよいのだろうか。心配、といえば心配なのだが。それだけではなく、どうしてだかもう一度会いたいと思う。
何と説明しようかと考えているうちに、義範は波紋のごとく静かにほほ笑んで言った。
「言葉を探す暇があるのなら、早く行って半助を見つけてこい。賢くないものがいくら考えても答えなど見つからぬぞ」
「まあ、あんまりにございます」
彩は憮然としたが、義範の言うことも最もだ。自分には、考えるよりも動くほうが向いている。
義範は笑うのをやめて、懐から金の鈴を取り出して彩に渡した。
「悪鬼避けの鈴だ。村を出れば、西狐の目を盗み人を襲ってくる怪妖もいるかもわからない。くれぐれも気をつけよ」
彩はその鈴を受け取って、胸が熱くなるのを感じた。兄とて、彩のことが心配なのだ。だが、その自分の心配を解消したいがために彩を束縛しようとしないところが兄の懐の深いところだ。いけないことはいけないと厳しくたしなめる兄だが、何が最も彩にとってよいことかを、兄はいつだって考えてくれていた。
「ありがとうございます」ぐすりと鼻をすすると、兄の大きくて温かい手が頭にのった。
「もう泣くな。泣けば涙で眼が曇るぞ」
彩は涙を拭って肯いた。見える者よりも、兄には見えているのだろう。きっと。大事なことが。彩は鈴を握りしめた。
この村のために。兄のために。自分のために。
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