蛇逃の滝

影燈

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四畳半の小部屋で三味線片手に浅酌低唱に興じていた。日も高くなりつつあるが、の小袖着流し姿のまま、杯酒に喉を潤した。
いつもは障子をしめても日差しに明るい部屋が、今日は薄暗い。曇っているのだろう。けれど、雨は降らない。雨が降らなければ、田畑は枯れる。これから夏まで日照りの続くようなことがあれば、しまいには井戸も枯れて村人は生きていけなくなる。
だが、もはやどうでもよいこと。
己は隠居の身だ。妻も一昨年亡くし、昨年倅が己の後を継いでからは、日がなこうして三味線ばかりを弾いている。ベンッと、音を鳴らしてみるが、苦笑が浮かぶ。我ながら下手である。世辞に訪れる者はその三味線の音色を褒めていくが、己で上手と思っていないものをおだてられても嘲笑が込み上げるだけ。しかし――。
「物悲しげな情愛のこもった音色でございますなあ」と、いつだったか誰かがそう言った。いつも決まりの返しを投げようと思っていた源右衛門は俄に戸惑ったものだ。その言葉が正鵠を得ていたからだ。
 源右衛門は撥を置いて、三味線を愛おしげに撫でた。胸が詰まるような心持がする。人の世を五十年も生きてみても、心の痛みというものは消えやしない。むしろ一層悲しみは深まるばかりのような気がして――。
 源右衛門は首を振った。
 武士は良い。然るべき死に場所が与えられているのだから。しかし肝煎りにそんなものはない。庄屋は情感に浸ることなどせず、ただ淡々と村と自らの繁栄のため働けばよい。その点、倅は向いている。若いころの己によく似ている。そして彼は若いだけに迷いがなく、だが若いくせに老獪じみたところがある。全て、己の見せた背によるものであろう。
 倅はうまく立ち回っている。強者には八方で言い顔をして、だが弱き者は捻じ伏せ己の地位を巧みにたもっている。金子は、面白いように手に入る。実際彼はそれが面白くて仕方ないのだろう。己にも覚えのあることだ。金など、欲しいと念ずればいくらでも手に入るもの。だが、そのとき他に失うものがあるということを己は知らずにいた。そして、倅も知る由もない。実際人は失ってみなければそのものの大切さなど気づきもしないのだ。
 だが、今そのことを諭したとして、彼の耳には入らぬであろう。いや、諭したこともある。その結果、隠居の身に追いやられた。耄碌したとされて、した覚えもないが、もはやそのふりするのも
悪くはないと思える。
 もう、疲れた。
 何も考えず、何にも関心を持たず、ただただこの三味線を愛でて過ごす日々は、己にとって必要な時であるように思える。この静かな時の中では、否応無しに己を振り返らせられる。
 源右衛門は再び撥を取った。
 ベンッ。
物悲しげな情愛のこもった音色。
それは、己が出すのか、お前が出すのか。そのどちらでもあるのなら、わしはやはりただこうして三味線を弾き続けるしかできぬのであろうな。
 源右衛門が一曲奏でようと撥を振り上げたそのときだった。
「何故わたくしを嫁に出してもよいなどと仰せになられたのです」
 母屋の方から女の声がした。大層怒っているようだが、何事であろうか。源右衛門は眉をひそめて、窓を開けた。寒さを感じる冷たい空気が流れ込んできた。耳を澄ましていると、一匹の黒猫が土塀の上を駆け抜けていった。
 不吉な――。
 源右衛門は顔をしかめた。迷信を信じる訳ではないが、やはり不吉の象徴とされている黒猫を見れば気分のいいものではなかった。黒猫は母屋の方へ向かったようだった。台所に残飯でもあさりに来たのだろう。
 源右衛門は再び窓を締めきって、撥と三味線を手にとった。だがもう弾く気はしなかった。代わりに、あの猫のことが妙に気にかかっている。
 ただの黒猫であろうに。だが――。
 源右衛門ははっとして三味線に目を落とした。この三味線の皮も、黒猫のものであったと思い出す。
「まさか」源右衛門は己を励ますように独りごちて、わざと声をたてて苦笑した。
 まさか。そんなことありはしない。黒猫などどこにでもいる。あの子がこの家に帰ってくる訳がないのだ。
 それでも源右衛門は気づいたら部屋を出ていた。離れから母屋へ続く廊下を抜けて、そこまで来ると言い争う人の声が聞こえた。気配を感じて振り向くと、いつのまにか屋敷の周りに野次馬どもが集まって中を何か何かと覗いているではないか。
 下世話な連中め。
 源右衛門は唇をかみつつ、野次馬には気づかぬふりをして母屋へ入り、中庭に面した客間へ向かった。
 襖を開けると、思った通り、彩が訪れていた。二人とも立ち上がっていて、そっぽを向いたままの倅に彩が詰め寄っているところであった。
「ちゃんとご説明なさってください、己之吉さん」
 二人は源右衛門が部屋に入ってきたことに気づいていない。庭への窓は開け放たれていて、先程の黒猫が松の枝によじ登ってこちらを見ていた。どことなく、油断なく見張っているような気配である。
「狐に聞いたのであろう。その通りだよ」
「私は貴方様の口から聞きたいのです」
「そんな酷なことを言わないでおくれよ」己之吉が困った顔で彩を振り返り、源右衛門のいることに気づいて眉をひそめた。
「お父様。どうしてここへ」
「隠居したとはいえここはわしの家じゃ。わしがどこにいようと構わんだろう」
「それはそうですが。お父様が離れから出てくるのは珍しかったものですから」
 倅は己を閉じ込めておきたいのだ。己が倅にとって目の上の瘤であることなど百も承知。
「耄碌したじじいとて、たまには外の風を浴びたいと思うこともある」
 源右衛門は猫に目を向けた。猫は身じろぎもせず、こちらを見つめている。
 やはり、ただの猫であったか。苦笑が浮かぶ。どうやら本当に耄碌したらしい。
「そうでしたか。ですが今取り込み中で」
「嫁がどうのと聞こえたが」源右衛門は己之吉を振り返った。表情は隠しているが、鬱陶しく思っているに違いない。冷ややかな、そういう目をしていた。だが、嫁になるはずの可愛い彩の目が赤く涙に腫れているのを見ては放っておくわけにもいかない。
「どういうことか、わしも聞かせてもらいたいものだな」
「……わかりました」
 己之吉が薄い唇を歪ませて答えると、彩が胸の前で手を組んで、覚悟を決めたような眼差しを彼に向けた。
それから逃れるように、己之吉は縁の方へ歩んだ。細い眼を更に細めて、庭を眺めるふりをしているが、声を外へ聞かせるようにしようと言うのだ。その魂胆を見抜いているのは恐らく己だけであろう。
 初めは、言い争う声が外にだだくさに洩れていることをみっともないことと思ったが、それも倅の考えのうちなのだ。
「実は暁の頃、東狐様の使いの狐が家へ現れたのです。私はまだ眠っておりましたのですが、狐様が枕元へ立たれて私をお起こしになられたのでございます。そして、こう告げられました」
 この旱魃は、人のもたらした災異であると。そして、その災異を払うためには狐の嫁入りの儀式をするしかないとのこと。狐の嫁入りでは必ず雨が降ります。そうすれば、雨の苦手な旱魃の悪鬼はそれ以上その場所にとどまることはできずに去るであろうというのです。
 そしてその婚姻の相手に、東狐様は彩をお選びになられたのです。
 私は悩みました。私は、何ものにも代えがたく彩のことを想っております。ですが、私は心を鬼にして東狐様の申し出を受け入れることにしたのです。
 それが村の為、皆のためなのです。
 無論、心を痛めました。たとえ東狐様であろうと、彩を他の者に渡すなど、身の引き裂けるような心持です。
しかし、それで村人が救われるのであれば、私は喜んでわが身を捧げます。私一人が我儘を言ってはいけないのです。
己之吉は恍惚とした表情で語った。芝居がかった物言いに、シラけているのは源右衛門だけだ。野次馬どももまんまと騙され、己之吉を悲劇の勇者だと尊敬のまなざしを向けている。
愚かしいことよ。身を捧げるのは己之吉ではない。彩だ。痛い思いをするのは彩だけで、美味しい思いをするのは己之吉だけだ。結局のところ、彩を捧げたところで村が助かるとは思わない。
源右衛門は溜息を呑みこんで己之吉を眺めた。
語りはまだ続いている。
「それにこれは、彩のことを想えばこそのことなんだよ。東狐様の嫁にやるのが彩の幸せと思い――」
「私は狐の嫁になどなりたくはありませぬ」
 彩は泣きながらも、きっぱりと言い切った。源右衛門は、この娘の裏表のないところが好きだった。少々扱いにくいところはあるが、まっすぐで憎めない。幼いころから知っているし、己にもよくなついてくれていた。
両親がいない彩たちのために、時には親代わりに世話をすることもあって、それなりの愛情もある。その彩だけが気の毒だった。
 己之吉は泣き崩れる彩の肩を優しく抱く様にして言い聞かせた。
「人とは、知らぬことが怖いものだ。けれど、東狐様は立派なお方だよ。この村をいつだって守ってくだすっているんだ。お前だって嫁に行けばきっとよくしてもらえる。今よりずっと贅沢な暮らしもできよう。お前の心配していた兄様だって、ひきとって面倒をみてくれるに違いないよ。もしかしたら、目だって見えるようにしてくれるかもしれない」
「兄は見えなくてもいいと本心で言っています。贅沢な暮らしなんてできなくていい。怪妖の嫁になどなりたくない」
 彩はどうしようもなくなって、ただただ泣いていた。己之吉は励ますような笑顔をそんな彩に向けている。
 源右衛門は冷めた目でそれを見ていた。
 彩の為、村の為、己が犠牲になるようなことを言ってはいるが、恐らく他にもいい条件をもらっているのだろう。金子か地位か、いずれにしろ己之吉という男は己の利益のためにしか動かぬ男だ。
 そして、こう言ってしまえば彩が断れぬこともよくわかっている。可愛そうに――。源右衛門は彩の泣き腫らした顔に目を向けるこ
とができなかった。
 いくら気の毒に思っても、己にできることなど何もない。
 源右衛門がいたたまれなくなってその場を去ろうとしたとき、視界の端を黒いものが動いた。見れば、枝の上にいた黒猫が、ぴょんと縁側へあがってくるところだった。
 何かと見ていれば、黒猫はおもむろに口を開いたかと思うとこう言った。
「あの、水のことならば私が何とか致します」
 源右衛門は驚愕して、しばらく開けた口を閉じることさえ忘れていた。
そこにいた皆が同じように固まっていた。
だが、俄にざわつく気配があって、塀をよじのぼって中を覗きこんでいた野次馬の村人が「おい、猫がしゃべったぞ」と言うのを皮切りに「怪妖だ、怪妖だ」と周囲が騒ぎ始めた。
 どうしたものかと考える間もなく彩が目の前を横切り、黒猫を手に抱えるや二人に頭だけさげてそそくさと部屋を出て行った。玄関の方とは反対へ向かったところを見ると、裏から屋敷を出るつもりなのだろう。
彩は、猫の正体を知っているのかもしれない。そう思うと、源右衛門は何故か少しほっとした。
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