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ササメ 9
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●その、七日前
気をつかったわけじゃない。
少なくとも獻瑪はそのつもりだ。その夜は部屋には戻らなかった。
翌朝、日の出前に戻ってみると、布団には姫が一人で寝ていた。結局璃石は影に戻ったらしい。
「へたれめ」獻瑪は舌打ちをした。じれったいのだ、あいつを見ていると。昔からそういうところがあった。人のことを第一に考えるばかりに、自分が損をする部類の人間だ。だが、獻瑪はそういうところが気に入っていたし、そういう璃石だったからこそ今の獻瑪がある。でなければ、ずっと前にもう獻瑪の命は終わっていたかもしれないのだ。
窓に日差しを遮るものはなかった。日が昇ってきたらしく、部屋が明るく照らされ始めていた。
癒簾の影から、黒い頭がぬっと出た。そのまま風呂からあがるようにかげが出てきて、獻瑪と対面した。
「なにか、用かよかげ。自分から出てくるなんて珍しいんじゃねえのか」
「礼を言わねばと思ってな。昨夜は世話になった」
「ああ、」不意に昨日の璃石の変な顔を見て思いだし笑いしてしまった。今はまたいつもの覆面で顔を覆っている。
「気にすんな。あれぐらいどうってことない術だ」
「鬼導術といったな」
獻瑪は璃石を見た。いや、かげを。かげは、璃石であることを覚えてはいないのだろう。そうでなければ、獻瑪に気づかぬはずはないし、鬼導術に対してこんな言い方もしない。
鬼導術で誰よりも秀でていたのは、璃石本人なのだ。
「低級の鬼を追っ払うだけしか能のない術だよ」
「人を助ける術だ。素晴らしい術ではないか」
「人なんか助けらんねえよ。だけど、」
できない言い訳ばかりしてきた。それでも、璃石には会えたのだ。だが、璃石は何か隠している。獻瑪のことも、もしかしたら己の名さえも失ってしまっている。
獻瑪には、璃石が手の届かぬ遠いところにいってしまっているような気がしてならなかった。そこから、どうやって連れ戻すことができるのか、見当もつかない。
でも、きっとやってみせる。
逃げ続けてきた、その自分の中に璃石を助けたいという思いがあったのは嘘ではないのだから。
「だけど?」
「いや、なんでもない」
璃石に、お前は璃石だろうと問い詰めてどうなるものでもないような気がした。それで思い出せることなのなら、きっととっくに思い出している。
「お前がどう思おうと、俺がお前に助けられたのは事実だ」
かげが言った。
「だから、卑下するでない。そういうのは、みっともない」
獻瑪。
と、かげが初めて獻瑪の名を呼んだ気がした。
「俺はお前を知っているような気がする。いや、何も言うな。或いは、知っているのだろう。だが、俺はそれを思い出してはいけないことになっている。俺は、闇天狗であり、闇天狗には今しかない。そして、従者として生きるのが宿命。俺は俺自身としての、人格をもってはならぬのだ。故に、俺がどこの誰だったかなど、必要のないことなのだ」
ふざけんな。と、獻瑪は拳を握った。
てめえがよくても、おれがよくない。
よっぽどそう叫ぼうかと思った。だが、璃石の抱えている物の正体が垣間見えた気がして、その大きさに獻瑪は怯んだのだ。
「だから、そういうことは抜きにして、姫様を――頼むぞ」
カエル。
と、それが癒簾の寝言であると獻瑪にはすぐにわかったが、かげは飛び上がるほどに驚いていた。
くしくもその物音に癒簾が目覚め、目をこすりながら身を起こした。
「おはよう」もごもごしながら言って、癒簾はかげを認めると手招きをした。
はっ。と、クソマジメに近づくかげの額に手を当て、それから自らの額を当てた。
ジュッという音が聞こえてきそうなほどにかげの顔が真っ赤になるのがわかった。それは昨日のかげの表情をみていたからだ。覆面で隠してはいるが、かげは実に表情豊かなのだ。璃石は、影にはなりきれない。
「よかった。もう大丈夫だね」
にこり、と笑う癒簾には面白くない獻瑪も顔をほころばせてしまう。不思議な魔力のある笑顔だ。
これも天狗の技なのか? と、ばかなことを考えた。そんなわけない。そういえば、癒簾はあまり天狗の術を使わない。天狗は風を自在に操り、飛んだり跳ねたり、実に運動能力の優れた種族だときいていたが、癒簾を見ているととても天狗には見えない。どちらかというと、鈍臭い部類に入る。
まあ、天狗もそれぞれなのであろう。
「それじゃあ、かげも元気になったところで、おれはちょっと出かけてきます」
手を上げる獻瑪へ、癒簾が不思議そうな顔を向けてくる。かげは、癒簾の影へと戻った。
「おひとりで、どこへゆくの?」
「うん。ちょっとね」
獻瑪にしてはうまくない躱し方で、宿の外へ出ると雀がぴちくり鳴いていた。朝だ。だが、その陽光は日増しに暗さを増している。日と月の光を食べてしまう、大熄俎の日がもう六日後に迫っている。鬼を倒す猶予もあとそれだけということだ。
獻瑪は、宿の近くの祠を見てまわった。いくつもあった。そのいくつもが、全て壊されている。
小指が今になって疼く。
鬼は隠れるのが上手なのだ。
鬼門から離れつつ、壊された祠を辿って行くうちに、湖へ出た。朝日に照らされ、瑠璃色に水面が光っている。璃石の瞳だ。と思った。それは、闇天狗のもつ瞳。
湖畔に立つと、風が水の匂いを運んできた。こんなときでも、清々しく思う。
闇天狗の瞳? ふと、獻瑪は瑠璃の湖面に目を留めた。いや、自分の考えに留めたのだ。
璃石は、獻瑪と出会ったころから瑠璃色の瞳をしていた。
これは、どういうことだ?
璃石が闇天狗にさらわれて闇天狗になったのだとしたら、村にいたときの璃石が瑠璃の瞳を持っているのは変だ。或いは、瑠璃の瞳を持つ者だけを、闇天狗に迎えるのか? いや、そんなはずはない。人間でそうそう瑠璃色の目玉をもつものはいないのだ。
であるとすれば、璃石は元々――。
妙に生暖かい風が吹いた。それは、先程と同じ風であるかもしれないのに、生ぬるく感じた。
小指がズキズキと痛い。
さっきから痛みが増している。鬼が近づいているのか? それとも、この場所がなんなのかと告げているのか。
使鬼は増えている。だが、いないときには跡形もなく消え失せて、気配も見せない。
普通、闇の種族は夜に力を増す。だが、使鬼は昼間も動く。
鬼がどこかに隠れて動かしているのだ。
鬼はどこだ。
そう思ったとき、ちりん、と聞こえた。
ちりん。ちりん。と、聞き間違いではない。振り向くと、鬼姫がいた。やはり、美しい。だが、その薄ら笑いに背筋は凍る。
獻瑪は咄嗟に数珠を構えた。
「出たな、鬼」
「そう、急くな」鬼は、腹に響くような、だが決して大きくはない不思議な声で話した。
「うぬを喰らうはもう少し先の話でありんす。ただ、待つあいだちと退屈でありましてなあ。ゎらゎの僕と遊んでおくれなし」
「なに」
鬼姫は、高い笑い声を残すとその場から消えてしまった。
代わりの置き土産は、獻瑪には迷惑な代物であった。
鬼姫が消えると同時に現れた使鬼どもが獻瑪を取り囲んでいる。赤い毬みたいな胴に足と手が生え、今はそれらが二本足で立っていた。人間の感覚で見れば、顔に手足が生えているようなもので、何とも気味が悪いが笑ってはいられない。二本足で立っている、これは紛れもなく鬼の力が増したことを示している。それを見せつける為なのか、脅すためなのか。
獻瑪は結界を張って、己の身を守っていた。
だが、使鬼は低級とはいえ、数が数十体はいる。
今や、自分の周りに張った結界を維持するのだけで精一杯で、使鬼を退散させる余裕がない。
「やべえな」
こめかみに汗が伝った。気を抜けばこの結界も破れ、一気に使鬼に喰い殺されてしまいそうだった。だが、この危機から脱するには一度結界を外し、使鬼を退散させて退路を確保するしかない。
少し動作が遅れれば、たちまち使鬼の餌食だ。
緊張を強いられる。
また、こめかみを汗が落ちている。
意識もなく、膝が折れた。
「くっ」圧がかかっている。押しつぶされそうだった。
「くっそ」
なんとか押し返すが、もう立つことができない。機会を失った。もう、結界を外して逃れる術はない。
「助けてほしいか」
「ほしいに決まってるだろ!」
声にこたえてから気が付いた。
「璃石」
いまわの際だったかもしれないのだ。つい、その名を呼んでしまった。
使鬼の向こう側に立っていたかげは眉を潜めたが、扇子を腰から抜き、使鬼どもに囲まれて潰されそうになっている獻瑪へ向けた。
「借りは返したぞ」
さっと、それを開いただけだった。いや、見えないだけだろう。一瞬で、使鬼は斬られた。璃石は、さっきと同じところに立っていた、パンと扇子を閉じると腰に戻した。
これほど素早い動きは、恐らく天狗にもないだろう。影に生きることを強いられなければ、闇天狗は王将となれる能力は十分にあったかもしれない。それを、闇天狗が心得ているとしたら、或いは天狗の存在も疎ましく思うことがあったのかもしれない。
獻瑪は使鬼が消えて身体がふわりと浮かび上がる感覚におそわれた。圧が去ったのだ。
安堵の息を洩らしてから、かげを見た。
「返済、どうも。でもお前、なんでここがわかった」
鬼姫から聞こえる鈴の音。あの音を、獻瑪も知っている。璃石を奪った闇天狗が鳴らしていた鈴だ。
獻瑪の小指は鬼に反応する。鬼を追うことができる。だが璃石は鬼の爪を持っていない。だが璃石は、鬼のいるところ現れる。
どうして、鬼の居場所がわかるのか。
鈴の音に、誘われるからだ。
そして、その音に璃石は恐らく――逆らえない。
「おぬしの後を追っただけだ。姫の命でな」
璃石はくるりと背を向けた。歩きはじめたと思ったら、消えた。そこに入れ違うように癒簾が駆けてきた。伸びた影は既に獻瑪の目の前にある。かげは影に戻ったのだ。
「だいじょうぶ、獻瑪」
「大丈夫だよ。なに、心配してきてくれたの」
獻瑪は笑顔で言った。
「ほんとに大丈夫? 顔色悪いよ」
「ああ、大丈夫。ちょっと危ないけど、璃石に助けてもらった」
「りし?」
「あ、いや」璃石だとわかってしまったから、ついかげのことを璃石と呼んでしまう。
「璃石って、かげのこと? やっぱり、そうなの?」
「いや……」癒簾の潤んだ円らな瞳が獻瑪を見つめてくる。
「獻瑪まで、教えてくれないの?」
いつになく潤んだかと思うと、癒簾の眼は涙ぐんでいた。
「獻瑪まで、って、どういうこと」
「だって」癒簾はひっくひっくと、子どもみたいに泣き始めた。
「昨日だって、かげは姫に寝姿を見られるなんて、家臣としてあるまじろとか言って」
そこはあるまじき、だと思うが敢えて聞き流した。
「かげは、わたしのこと、嫌いなのかな。何にも教えてくれない。わたし、かげがどこでどういうふうに育ってきたのか、全然知らないの。きいても、答えてくれないし」
「そっか」獻瑪は手持無沙汰だった手を、癒簾の肩に優しくかけた。
「でもさ、かげが癒簾のこと嫌いなはずはないだろう。かげはいつだって身を挺して癒簾のこと守ってきてくれた、違う?」
「違くない」癒簾は首を振って言った。「でも、それは忠義だって。ただの仕事だから、かげはわたしのこと守ってくれるだけだもん。かげは大人だから、嫌いな人ともうまく付き合えるんだ」
あの変態のどこが大人なんだ、と思いつつもそれも口にはしなかった。
かいかぶってるよ、姫。あいつは、真面目なふりしてむっつりなんだ。欲望には忠実な男なんだよ。
「かげは、そんなやつじゃないよ。情に厚い男だ。おれは、奴を信じてるよ。きっと、昔のことは全て忘れてしまっているだけなんだ」
この会話だって、かげは聞いているのだろう。
そうだ。俺は、璃石を信じている。
お前ならきっと――戻ってきてくれる。
「そうだよな、かげ?」獻瑪は大声で、璃石に呼びかけた。湖畔には、朝の散歩の人通りが増えている。
「お前が覚えてないなら、俺が思い出させてやる。お前は、女の褌が大好きなんだ!」
そう叫んだところで、「ごっ」と、かげが血相変えて跳び出してきた。
「誤解を招くようなことを大声で叫ぶでない!」
獻瑪は口を塞ごうとするかげの手から逃れて、続けた。
「誤解じゃないだろ! 俺たちいつも一緒に女の子の家に忍び込んで下着を盗んでいたじゃないか」
「ちょっ、」
「今の、本当なのかげ?」
癒簾が冷静に言って、かげを見た。円らで純粋な瞳がかげを苦しめているだろう。ざまあみろ。
「ひ、姫。今のは誤解です。断じてそのようなあさましきこと、私は」
「下着が好きなの?」
「滅相もござりませぬ! 私は、下着よりも中身のほうが好き、って、何言ってんだ俺。いや、だから、違うんです、誤解です、姫。なにとぞ、わかってくだされ」
わかるか、ぼけ。ど、毒づく獻瑪の横で、意外にも「こここここ」と癒簾が笑った。
「あはははは」と、涙を流して癒簾はわらっている。
獻瑪とかげは思わず顔を見合わせた。
「ごめんなさい。大口を開けて笑うのははしたないと言われていたのですが」
あ。なるほど。それであの妙な笑い方になったのか、と獻瑪は肯いた。
「かげ、変わったね」
癒簾はかげに向かって微笑みかけた。
「え」と、かげは固まっている。
「獻瑪に会ってから、なんか楽しそう」
「そんなことは――」
「かげは、璃石なの?」
獻瑪が問い詰めたかったことを、癒簾がかわりに訊いてくれた。
「いえ、」
「でも、かげが下着泥棒だったなんて、ちょっと幻滅ぅ」
「いや! だからそれは、ほんのガキの頃の話で、」
言いかけてかげははっとした。己で己の言葉に驚いているようである。
「ガキの頃……」呟き、璃石は突然顔を歪めその場に膝をついた。こめかみのあたりを抑えている。
「おい、」
「かげ!?」
近づこうとする二人に、かげは手を押し出し触れるなと合図した。
「言ったはずだ。俺には過去など必要ないと」
「必要ないんじゃない。てめえはてめえに向き合うことから逃げているだけだろうが」
「どうとでも言え」かげはゆっくりと立ち上がった。そのまままた影に逃げるつもりだ。
冗談じゃない。
「じゃあ、言わせてもらうよ」
獻瑪はかげの胸ぐらに掴みかかった。
「お前は、璃石なんだ。俺が死にかけたところを、何度も助けてくれた。俺の、親友なんだ。家族なんだ」
瑠璃の瞳が光った気がした。その光を隠すかのように、璃石は獻瑪から目をそらした。
「お前の言う璃石はもうこの世にはいない」
「いるだろ、ここに! てめえが、璃石だ」
「うるさい!」璃石は、獻瑪の手を振り払った。
湖畔には、いつのまにか霧が立ち込めている。今いる距離から少しでも離れれば、互いに姿を見失ってしまうであろう。それほどに霧は濃い。
「俺は、もう俺ではないんだ」璃石が、苦悩をにじませる声で言った。
「俺は、実を捨てて虚となった。闇天狗とは、そういうものだ。皆、人を捨てて生きる。主君のために――死人同然の命を捧げるのだ」
「ばか言うな。てめえは、今、ここに、生きているだろうが」
腹がたって、腹が立って、しょうがない。
「てめえは、今ここにいるんだよ! てめが、璃石でなくて、誰が璃石なんだ。ぬるいことばっか抜かしてんじゃねえよ」
情けなくも、涙が溢れた。璃石に向かって叫びながら、それでどうすることもできない不甲斐なさが身に沁みる。
俺は、璃石を助けることができないのか?
「なんのために、褌しょって歩いていたと思ってんだよ。くそが」
「それはおぬしの趣味であろう」
「断じて違うわボケ! これは、お前が俺を見て気が付けるようにと思ってやってきたんだ。変人扱いされんのにも、耐えてきた。お前に、会いたかったから。俺だけじゃねえ、お前の帰りを待っているやつは今だっているんだよ」
「――それは、おぬしのことだろう」
璃石は静かに言って、獻瑪を見た。瑠璃の瞳は、湖面のように透き通るようで美しく、それでいて見る者を安心させる。
「、なんだよ、それ」
「獻瑪を待っている者はいる。早く、帰って安心させてやれ」
璃石は言って微笑み、影に消えた。
止める間もなかった。逃げやがった。
ふざけんな。ふざけんな、璃石。
もう、思い出しかけてんじゃねえか。俺が、どこの誰だか、わかってんじゃねえか。
それでも、俺の前から去ろうとする理由はなんなんだよ。
「獻瑪、」
気の毒に、癒簾は不安そうな顔を浮かべて獻瑪を見ていた。
この娘は、何も知らないのだ。知らなければ、人は不安に陥る。苦しめてんじゃねえよ、てめえの惚れた女を。
獻瑪は歯ぎしりする思いを終えて、笑んだ。
「大丈夫。きっと、そのうち癒簾にはいろいろ教えてくれるよ」
「そう、かな」
「そうだよ。ひとは、知りたいと思ったことは自らが知ろうとすれば知れるもんなんだと思う」
その言葉を、獻瑪は自分自身にも言い聞かせていた。
諦めはしない。絶対に。璃石を、取り戻すのだ。
「そうだね――かげは、かげだものね」
癒簾も笑う。獻瑪はほっとした。
「さあ、それより頼みたいことがあるんだ」
「なんですか?」
癒簾は大きな眼をぱちくりさせた。
「城に連絡はとれる?」
王に逃げろと言われている癒簾が、まだ町に留まっていると知れれば問題だ。だが、癒簾は肯いてくれた。
「なにをお伝えすればよいの」
「城の兵を使って祠の警備を、固めて欲しいんだ」
「祠の?」
町には今警備兵が増え、物々しい雰囲気になっている。だが、守るべきところを抑えてはおらず、まったく的外れな警備となってしまっているのだ。
「鬼は、祠に現れる。そこを、捕えるんだ」
人間に、使鬼が捕えられるのか。そこは不安が残ったが、やってもらうしかない。祠をこれ以上壊されれば、本当に鬼に太刀打ちできなくなってしまう。
この世が、地獄になるところなど、獻瑪は見たくなかった。
「なるほど。では、早速父上に書状を――」
癒簾の言いかけたときだった。
「その必要はありませんぬぇ」
あまりに声が近かったので、獻瑪は思わず飛び退いた。濃霧の中から、ぬっと黒い影が浮かび出た。だが、それは黒い衣類を着ているだけの男であった。
「侍寸どの」
癒簾が言わなければ、獻瑪はその場から逃げ出していたかもしれない。不気味な男だった。全身に闇を飼っている。そのような雰囲気がする。
「侍寸って、」
「かげの叔父さんだよ」
「じゃあ、宰相どの。人間に見えるけど……」獻瑪がじろじろ眺めて無遠慮に言うと、侍寸は頬の片方をあげて言った。
「町にいるときは人間の姿を借りているのだぬ。おれはまぎれもなく闇天狗だぬぇ」
どこか、矜持のようなものを感じる。闇天狗は、人間と言われるのを嫌うようだ。
「うん。でも、どうしてここへ?」
癒簾が侍寸を見つめて言った。
「今そこの坊やが言ったように、町の祠を警備するためにきたんですぬぇ」
しかしなんなんだろうかこのまとわりつくようなしゃべり方は。獻瑪は顔をしかめた。あまり、好きになれる部類の者ではなかった。
目が深く落ち窪んでいてより陰鬱な印象を受ける。遠目で見れば、影そのものが立ち上がっているようにしか見えない。人の形はしているものの、とても血が通っているとは、思えなかった。
「我々も鬼の狙いに気づいたものですから。祠にはすでに手をまわしてありますぬぇ」
「さすが、侍寸どのですね」
癒簾は無邪気に喜んでいる。しばし、獻瑪は蚊帳の外に出された。
「ところで、かげは元気ですかぬぇ」
「かげ、でてきていいよ」
癒簾が呼ぼうとするのを、侍寸が制した。
「あ、いや。かげとは常に影の中にありしもの。そう簡単に表の世界へ出してはいけませんぬぇ」
「そうでしたね、ごめんなさい」
癒簾は悲しげにうつむいた。
「いえ、こちらこそごめんなさいぬぇ。それよりも、姫様。そろそろ城へお戻りになりませぬかぬぇ」
侍寸は大げさに困った顔をして見せた。
「どうしても御遊興にいかれたいと申されるゆえ、お手引きいたしましたが、少々お帰りが遅すぎますぬぇ。それに、これはわたくしの落ち度でございまするが、王将様にも姫の御遊興がばれてしまって、かんかんに怒っておいででございます。ちかごろは、姫様の探索をうちきり、家臣にも姫など探さなくともいいとまでおっしゃられましてぬぇ」
侍寸はそこで溜息を一つついてから、先を続けた。
「ですが、わたくしは己で手引きしました以上心配で心配で夜も眠れませぬで、こうして口実をみつけ姫様を探しに出たのでございますぬぇ」
癒簾は黙って侍寸の長い話を聞いていたが、やがてぷくっと、頬を膨らませて言った。
「だって、お父様ったらひどいの。わたしが楽しみにしていたカエルの干物をすべて一人でたべてしまったのよ。だからわたしが怒ったら、誰のお陰で飯が食えていると思ってるんだ。なんて言うの。じゃあ老後の面倒はだれがみるっていうのよね。ひどいと思うでしょ、侍寸?」
「それは、まあぬぇ。だから、城を出られようと思ったのですかぬ」
「そう。侍寸には、勉強のための遊興だといって嘘をついてしまってごめんなさい。でも、そうでも言わないと、手をかしてもらえないとおもったから」
「そうでしたかぬぇ。ですが、そろそろおもどりになられてはいかがかぬぇ。姫様が一言謝れば、きっと上様も許してくださると思うぬ」
「いや。わたしはかえらない。お父様に、わたしが一人でも生きていけるってところ、みせてやるんだから」
「困りましたぬぇ。かげはなんと言ってるんですぬ」
「かげ?」癒簾は大げさに顔をしかめたようだった。
「かげがわたしのすることに何も口だせないことは知っているでしょ」
「そうでしたぬ。しかし、この四日。姫様を放浪させておいて、わたくしは叔父として、上司として、かげに自分の仕事をしていないとしかりつけたい気分でしてぬぇ」
「かげは、ちゃんとわたしの身を守ってくれてるよ」
「そうですか。御身を……」一瞬、侍寸の口元が歪んだ気がした。
「まあ、かげには闇天狗としての仕事をしっかりと果たしてもらいたいものですぬぇ」
侍寸の視線は癒簾のかげに向かっていた。癒簾と話しながら、その言葉はかげにかけられているもののようだった。
「出来損ないと、言われないようにぬぇ。城に戻らないと言うなら、仕方ありませんぬ」
侍寸は癒簾に向き直って言った。
「あと、数日だけ待ちましょう。姫様が自由になされるのは、あと数日だけですぬ。町は、危ないですからぬ」
気をつかったわけじゃない。
少なくとも獻瑪はそのつもりだ。その夜は部屋には戻らなかった。
翌朝、日の出前に戻ってみると、布団には姫が一人で寝ていた。結局璃石は影に戻ったらしい。
「へたれめ」獻瑪は舌打ちをした。じれったいのだ、あいつを見ていると。昔からそういうところがあった。人のことを第一に考えるばかりに、自分が損をする部類の人間だ。だが、獻瑪はそういうところが気に入っていたし、そういう璃石だったからこそ今の獻瑪がある。でなければ、ずっと前にもう獻瑪の命は終わっていたかもしれないのだ。
窓に日差しを遮るものはなかった。日が昇ってきたらしく、部屋が明るく照らされ始めていた。
癒簾の影から、黒い頭がぬっと出た。そのまま風呂からあがるようにかげが出てきて、獻瑪と対面した。
「なにか、用かよかげ。自分から出てくるなんて珍しいんじゃねえのか」
「礼を言わねばと思ってな。昨夜は世話になった」
「ああ、」不意に昨日の璃石の変な顔を見て思いだし笑いしてしまった。今はまたいつもの覆面で顔を覆っている。
「気にすんな。あれぐらいどうってことない術だ」
「鬼導術といったな」
獻瑪は璃石を見た。いや、かげを。かげは、璃石であることを覚えてはいないのだろう。そうでなければ、獻瑪に気づかぬはずはないし、鬼導術に対してこんな言い方もしない。
鬼導術で誰よりも秀でていたのは、璃石本人なのだ。
「低級の鬼を追っ払うだけしか能のない術だよ」
「人を助ける術だ。素晴らしい術ではないか」
「人なんか助けらんねえよ。だけど、」
できない言い訳ばかりしてきた。それでも、璃石には会えたのだ。だが、璃石は何か隠している。獻瑪のことも、もしかしたら己の名さえも失ってしまっている。
獻瑪には、璃石が手の届かぬ遠いところにいってしまっているような気がしてならなかった。そこから、どうやって連れ戻すことができるのか、見当もつかない。
でも、きっとやってみせる。
逃げ続けてきた、その自分の中に璃石を助けたいという思いがあったのは嘘ではないのだから。
「だけど?」
「いや、なんでもない」
璃石に、お前は璃石だろうと問い詰めてどうなるものでもないような気がした。それで思い出せることなのなら、きっととっくに思い出している。
「お前がどう思おうと、俺がお前に助けられたのは事実だ」
かげが言った。
「だから、卑下するでない。そういうのは、みっともない」
獻瑪。
と、かげが初めて獻瑪の名を呼んだ気がした。
「俺はお前を知っているような気がする。いや、何も言うな。或いは、知っているのだろう。だが、俺はそれを思い出してはいけないことになっている。俺は、闇天狗であり、闇天狗には今しかない。そして、従者として生きるのが宿命。俺は俺自身としての、人格をもってはならぬのだ。故に、俺がどこの誰だったかなど、必要のないことなのだ」
ふざけんな。と、獻瑪は拳を握った。
てめえがよくても、おれがよくない。
よっぽどそう叫ぼうかと思った。だが、璃石の抱えている物の正体が垣間見えた気がして、その大きさに獻瑪は怯んだのだ。
「だから、そういうことは抜きにして、姫様を――頼むぞ」
カエル。
と、それが癒簾の寝言であると獻瑪にはすぐにわかったが、かげは飛び上がるほどに驚いていた。
くしくもその物音に癒簾が目覚め、目をこすりながら身を起こした。
「おはよう」もごもごしながら言って、癒簾はかげを認めると手招きをした。
はっ。と、クソマジメに近づくかげの額に手を当て、それから自らの額を当てた。
ジュッという音が聞こえてきそうなほどにかげの顔が真っ赤になるのがわかった。それは昨日のかげの表情をみていたからだ。覆面で隠してはいるが、かげは実に表情豊かなのだ。璃石は、影にはなりきれない。
「よかった。もう大丈夫だね」
にこり、と笑う癒簾には面白くない獻瑪も顔をほころばせてしまう。不思議な魔力のある笑顔だ。
これも天狗の技なのか? と、ばかなことを考えた。そんなわけない。そういえば、癒簾はあまり天狗の術を使わない。天狗は風を自在に操り、飛んだり跳ねたり、実に運動能力の優れた種族だときいていたが、癒簾を見ているととても天狗には見えない。どちらかというと、鈍臭い部類に入る。
まあ、天狗もそれぞれなのであろう。
「それじゃあ、かげも元気になったところで、おれはちょっと出かけてきます」
手を上げる獻瑪へ、癒簾が不思議そうな顔を向けてくる。かげは、癒簾の影へと戻った。
「おひとりで、どこへゆくの?」
「うん。ちょっとね」
獻瑪にしてはうまくない躱し方で、宿の外へ出ると雀がぴちくり鳴いていた。朝だ。だが、その陽光は日増しに暗さを増している。日と月の光を食べてしまう、大熄俎の日がもう六日後に迫っている。鬼を倒す猶予もあとそれだけということだ。
獻瑪は、宿の近くの祠を見てまわった。いくつもあった。そのいくつもが、全て壊されている。
小指が今になって疼く。
鬼は隠れるのが上手なのだ。
鬼門から離れつつ、壊された祠を辿って行くうちに、湖へ出た。朝日に照らされ、瑠璃色に水面が光っている。璃石の瞳だ。と思った。それは、闇天狗のもつ瞳。
湖畔に立つと、風が水の匂いを運んできた。こんなときでも、清々しく思う。
闇天狗の瞳? ふと、獻瑪は瑠璃の湖面に目を留めた。いや、自分の考えに留めたのだ。
璃石は、獻瑪と出会ったころから瑠璃色の瞳をしていた。
これは、どういうことだ?
璃石が闇天狗にさらわれて闇天狗になったのだとしたら、村にいたときの璃石が瑠璃の瞳を持っているのは変だ。或いは、瑠璃の瞳を持つ者だけを、闇天狗に迎えるのか? いや、そんなはずはない。人間でそうそう瑠璃色の目玉をもつものはいないのだ。
であるとすれば、璃石は元々――。
妙に生暖かい風が吹いた。それは、先程と同じ風であるかもしれないのに、生ぬるく感じた。
小指がズキズキと痛い。
さっきから痛みが増している。鬼が近づいているのか? それとも、この場所がなんなのかと告げているのか。
使鬼は増えている。だが、いないときには跡形もなく消え失せて、気配も見せない。
普通、闇の種族は夜に力を増す。だが、使鬼は昼間も動く。
鬼がどこかに隠れて動かしているのだ。
鬼はどこだ。
そう思ったとき、ちりん、と聞こえた。
ちりん。ちりん。と、聞き間違いではない。振り向くと、鬼姫がいた。やはり、美しい。だが、その薄ら笑いに背筋は凍る。
獻瑪は咄嗟に数珠を構えた。
「出たな、鬼」
「そう、急くな」鬼は、腹に響くような、だが決して大きくはない不思議な声で話した。
「うぬを喰らうはもう少し先の話でありんす。ただ、待つあいだちと退屈でありましてなあ。ゎらゎの僕と遊んでおくれなし」
「なに」
鬼姫は、高い笑い声を残すとその場から消えてしまった。
代わりの置き土産は、獻瑪には迷惑な代物であった。
鬼姫が消えると同時に現れた使鬼どもが獻瑪を取り囲んでいる。赤い毬みたいな胴に足と手が生え、今はそれらが二本足で立っていた。人間の感覚で見れば、顔に手足が生えているようなもので、何とも気味が悪いが笑ってはいられない。二本足で立っている、これは紛れもなく鬼の力が増したことを示している。それを見せつける為なのか、脅すためなのか。
獻瑪は結界を張って、己の身を守っていた。
だが、使鬼は低級とはいえ、数が数十体はいる。
今や、自分の周りに張った結界を維持するのだけで精一杯で、使鬼を退散させる余裕がない。
「やべえな」
こめかみに汗が伝った。気を抜けばこの結界も破れ、一気に使鬼に喰い殺されてしまいそうだった。だが、この危機から脱するには一度結界を外し、使鬼を退散させて退路を確保するしかない。
少し動作が遅れれば、たちまち使鬼の餌食だ。
緊張を強いられる。
また、こめかみを汗が落ちている。
意識もなく、膝が折れた。
「くっ」圧がかかっている。押しつぶされそうだった。
「くっそ」
なんとか押し返すが、もう立つことができない。機会を失った。もう、結界を外して逃れる術はない。
「助けてほしいか」
「ほしいに決まってるだろ!」
声にこたえてから気が付いた。
「璃石」
いまわの際だったかもしれないのだ。つい、その名を呼んでしまった。
使鬼の向こう側に立っていたかげは眉を潜めたが、扇子を腰から抜き、使鬼どもに囲まれて潰されそうになっている獻瑪へ向けた。
「借りは返したぞ」
さっと、それを開いただけだった。いや、見えないだけだろう。一瞬で、使鬼は斬られた。璃石は、さっきと同じところに立っていた、パンと扇子を閉じると腰に戻した。
これほど素早い動きは、恐らく天狗にもないだろう。影に生きることを強いられなければ、闇天狗は王将となれる能力は十分にあったかもしれない。それを、闇天狗が心得ているとしたら、或いは天狗の存在も疎ましく思うことがあったのかもしれない。
獻瑪は使鬼が消えて身体がふわりと浮かび上がる感覚におそわれた。圧が去ったのだ。
安堵の息を洩らしてから、かげを見た。
「返済、どうも。でもお前、なんでここがわかった」
鬼姫から聞こえる鈴の音。あの音を、獻瑪も知っている。璃石を奪った闇天狗が鳴らしていた鈴だ。
獻瑪の小指は鬼に反応する。鬼を追うことができる。だが璃石は鬼の爪を持っていない。だが璃石は、鬼のいるところ現れる。
どうして、鬼の居場所がわかるのか。
鈴の音に、誘われるからだ。
そして、その音に璃石は恐らく――逆らえない。
「おぬしの後を追っただけだ。姫の命でな」
璃石はくるりと背を向けた。歩きはじめたと思ったら、消えた。そこに入れ違うように癒簾が駆けてきた。伸びた影は既に獻瑪の目の前にある。かげは影に戻ったのだ。
「だいじょうぶ、獻瑪」
「大丈夫だよ。なに、心配してきてくれたの」
獻瑪は笑顔で言った。
「ほんとに大丈夫? 顔色悪いよ」
「ああ、大丈夫。ちょっと危ないけど、璃石に助けてもらった」
「りし?」
「あ、いや」璃石だとわかってしまったから、ついかげのことを璃石と呼んでしまう。
「璃石って、かげのこと? やっぱり、そうなの?」
「いや……」癒簾の潤んだ円らな瞳が獻瑪を見つめてくる。
「獻瑪まで、教えてくれないの?」
いつになく潤んだかと思うと、癒簾の眼は涙ぐんでいた。
「獻瑪まで、って、どういうこと」
「だって」癒簾はひっくひっくと、子どもみたいに泣き始めた。
「昨日だって、かげは姫に寝姿を見られるなんて、家臣としてあるまじろとか言って」
そこはあるまじき、だと思うが敢えて聞き流した。
「かげは、わたしのこと、嫌いなのかな。何にも教えてくれない。わたし、かげがどこでどういうふうに育ってきたのか、全然知らないの。きいても、答えてくれないし」
「そっか」獻瑪は手持無沙汰だった手を、癒簾の肩に優しくかけた。
「でもさ、かげが癒簾のこと嫌いなはずはないだろう。かげはいつだって身を挺して癒簾のこと守ってきてくれた、違う?」
「違くない」癒簾は首を振って言った。「でも、それは忠義だって。ただの仕事だから、かげはわたしのこと守ってくれるだけだもん。かげは大人だから、嫌いな人ともうまく付き合えるんだ」
あの変態のどこが大人なんだ、と思いつつもそれも口にはしなかった。
かいかぶってるよ、姫。あいつは、真面目なふりしてむっつりなんだ。欲望には忠実な男なんだよ。
「かげは、そんなやつじゃないよ。情に厚い男だ。おれは、奴を信じてるよ。きっと、昔のことは全て忘れてしまっているだけなんだ」
この会話だって、かげは聞いているのだろう。
そうだ。俺は、璃石を信じている。
お前ならきっと――戻ってきてくれる。
「そうだよな、かげ?」獻瑪は大声で、璃石に呼びかけた。湖畔には、朝の散歩の人通りが増えている。
「お前が覚えてないなら、俺が思い出させてやる。お前は、女の褌が大好きなんだ!」
そう叫んだところで、「ごっ」と、かげが血相変えて跳び出してきた。
「誤解を招くようなことを大声で叫ぶでない!」
獻瑪は口を塞ごうとするかげの手から逃れて、続けた。
「誤解じゃないだろ! 俺たちいつも一緒に女の子の家に忍び込んで下着を盗んでいたじゃないか」
「ちょっ、」
「今の、本当なのかげ?」
癒簾が冷静に言って、かげを見た。円らで純粋な瞳がかげを苦しめているだろう。ざまあみろ。
「ひ、姫。今のは誤解です。断じてそのようなあさましきこと、私は」
「下着が好きなの?」
「滅相もござりませぬ! 私は、下着よりも中身のほうが好き、って、何言ってんだ俺。いや、だから、違うんです、誤解です、姫。なにとぞ、わかってくだされ」
わかるか、ぼけ。ど、毒づく獻瑪の横で、意外にも「こここここ」と癒簾が笑った。
「あはははは」と、涙を流して癒簾はわらっている。
獻瑪とかげは思わず顔を見合わせた。
「ごめんなさい。大口を開けて笑うのははしたないと言われていたのですが」
あ。なるほど。それであの妙な笑い方になったのか、と獻瑪は肯いた。
「かげ、変わったね」
癒簾はかげに向かって微笑みかけた。
「え」と、かげは固まっている。
「獻瑪に会ってから、なんか楽しそう」
「そんなことは――」
「かげは、璃石なの?」
獻瑪が問い詰めたかったことを、癒簾がかわりに訊いてくれた。
「いえ、」
「でも、かげが下着泥棒だったなんて、ちょっと幻滅ぅ」
「いや! だからそれは、ほんのガキの頃の話で、」
言いかけてかげははっとした。己で己の言葉に驚いているようである。
「ガキの頃……」呟き、璃石は突然顔を歪めその場に膝をついた。こめかみのあたりを抑えている。
「おい、」
「かげ!?」
近づこうとする二人に、かげは手を押し出し触れるなと合図した。
「言ったはずだ。俺には過去など必要ないと」
「必要ないんじゃない。てめえはてめえに向き合うことから逃げているだけだろうが」
「どうとでも言え」かげはゆっくりと立ち上がった。そのまままた影に逃げるつもりだ。
冗談じゃない。
「じゃあ、言わせてもらうよ」
獻瑪はかげの胸ぐらに掴みかかった。
「お前は、璃石なんだ。俺が死にかけたところを、何度も助けてくれた。俺の、親友なんだ。家族なんだ」
瑠璃の瞳が光った気がした。その光を隠すかのように、璃石は獻瑪から目をそらした。
「お前の言う璃石はもうこの世にはいない」
「いるだろ、ここに! てめえが、璃石だ」
「うるさい!」璃石は、獻瑪の手を振り払った。
湖畔には、いつのまにか霧が立ち込めている。今いる距離から少しでも離れれば、互いに姿を見失ってしまうであろう。それほどに霧は濃い。
「俺は、もう俺ではないんだ」璃石が、苦悩をにじませる声で言った。
「俺は、実を捨てて虚となった。闇天狗とは、そういうものだ。皆、人を捨てて生きる。主君のために――死人同然の命を捧げるのだ」
「ばか言うな。てめえは、今、ここに、生きているだろうが」
腹がたって、腹が立って、しょうがない。
「てめえは、今ここにいるんだよ! てめが、璃石でなくて、誰が璃石なんだ。ぬるいことばっか抜かしてんじゃねえよ」
情けなくも、涙が溢れた。璃石に向かって叫びながら、それでどうすることもできない不甲斐なさが身に沁みる。
俺は、璃石を助けることができないのか?
「なんのために、褌しょって歩いていたと思ってんだよ。くそが」
「それはおぬしの趣味であろう」
「断じて違うわボケ! これは、お前が俺を見て気が付けるようにと思ってやってきたんだ。変人扱いされんのにも、耐えてきた。お前に、会いたかったから。俺だけじゃねえ、お前の帰りを待っているやつは今だっているんだよ」
「――それは、おぬしのことだろう」
璃石は静かに言って、獻瑪を見た。瑠璃の瞳は、湖面のように透き通るようで美しく、それでいて見る者を安心させる。
「、なんだよ、それ」
「獻瑪を待っている者はいる。早く、帰って安心させてやれ」
璃石は言って微笑み、影に消えた。
止める間もなかった。逃げやがった。
ふざけんな。ふざけんな、璃石。
もう、思い出しかけてんじゃねえか。俺が、どこの誰だか、わかってんじゃねえか。
それでも、俺の前から去ろうとする理由はなんなんだよ。
「獻瑪、」
気の毒に、癒簾は不安そうな顔を浮かべて獻瑪を見ていた。
この娘は、何も知らないのだ。知らなければ、人は不安に陥る。苦しめてんじゃねえよ、てめえの惚れた女を。
獻瑪は歯ぎしりする思いを終えて、笑んだ。
「大丈夫。きっと、そのうち癒簾にはいろいろ教えてくれるよ」
「そう、かな」
「そうだよ。ひとは、知りたいと思ったことは自らが知ろうとすれば知れるもんなんだと思う」
その言葉を、獻瑪は自分自身にも言い聞かせていた。
諦めはしない。絶対に。璃石を、取り戻すのだ。
「そうだね――かげは、かげだものね」
癒簾も笑う。獻瑪はほっとした。
「さあ、それより頼みたいことがあるんだ」
「なんですか?」
癒簾は大きな眼をぱちくりさせた。
「城に連絡はとれる?」
王に逃げろと言われている癒簾が、まだ町に留まっていると知れれば問題だ。だが、癒簾は肯いてくれた。
「なにをお伝えすればよいの」
「城の兵を使って祠の警備を、固めて欲しいんだ」
「祠の?」
町には今警備兵が増え、物々しい雰囲気になっている。だが、守るべきところを抑えてはおらず、まったく的外れな警備となってしまっているのだ。
「鬼は、祠に現れる。そこを、捕えるんだ」
人間に、使鬼が捕えられるのか。そこは不安が残ったが、やってもらうしかない。祠をこれ以上壊されれば、本当に鬼に太刀打ちできなくなってしまう。
この世が、地獄になるところなど、獻瑪は見たくなかった。
「なるほど。では、早速父上に書状を――」
癒簾の言いかけたときだった。
「その必要はありませんぬぇ」
あまりに声が近かったので、獻瑪は思わず飛び退いた。濃霧の中から、ぬっと黒い影が浮かび出た。だが、それは黒い衣類を着ているだけの男であった。
「侍寸どの」
癒簾が言わなければ、獻瑪はその場から逃げ出していたかもしれない。不気味な男だった。全身に闇を飼っている。そのような雰囲気がする。
「侍寸って、」
「かげの叔父さんだよ」
「じゃあ、宰相どの。人間に見えるけど……」獻瑪がじろじろ眺めて無遠慮に言うと、侍寸は頬の片方をあげて言った。
「町にいるときは人間の姿を借りているのだぬ。おれはまぎれもなく闇天狗だぬぇ」
どこか、矜持のようなものを感じる。闇天狗は、人間と言われるのを嫌うようだ。
「うん。でも、どうしてここへ?」
癒簾が侍寸を見つめて言った。
「今そこの坊やが言ったように、町の祠を警備するためにきたんですぬぇ」
しかしなんなんだろうかこのまとわりつくようなしゃべり方は。獻瑪は顔をしかめた。あまり、好きになれる部類の者ではなかった。
目が深く落ち窪んでいてより陰鬱な印象を受ける。遠目で見れば、影そのものが立ち上がっているようにしか見えない。人の形はしているものの、とても血が通っているとは、思えなかった。
「我々も鬼の狙いに気づいたものですから。祠にはすでに手をまわしてありますぬぇ」
「さすが、侍寸どのですね」
癒簾は無邪気に喜んでいる。しばし、獻瑪は蚊帳の外に出された。
「ところで、かげは元気ですかぬぇ」
「かげ、でてきていいよ」
癒簾が呼ぼうとするのを、侍寸が制した。
「あ、いや。かげとは常に影の中にありしもの。そう簡単に表の世界へ出してはいけませんぬぇ」
「そうでしたね、ごめんなさい」
癒簾は悲しげにうつむいた。
「いえ、こちらこそごめんなさいぬぇ。それよりも、姫様。そろそろ城へお戻りになりませぬかぬぇ」
侍寸は大げさに困った顔をして見せた。
「どうしても御遊興にいかれたいと申されるゆえ、お手引きいたしましたが、少々お帰りが遅すぎますぬぇ。それに、これはわたくしの落ち度でございまするが、王将様にも姫の御遊興がばれてしまって、かんかんに怒っておいででございます。ちかごろは、姫様の探索をうちきり、家臣にも姫など探さなくともいいとまでおっしゃられましてぬぇ」
侍寸はそこで溜息を一つついてから、先を続けた。
「ですが、わたくしは己で手引きしました以上心配で心配で夜も眠れませぬで、こうして口実をみつけ姫様を探しに出たのでございますぬぇ」
癒簾は黙って侍寸の長い話を聞いていたが、やがてぷくっと、頬を膨らませて言った。
「だって、お父様ったらひどいの。わたしが楽しみにしていたカエルの干物をすべて一人でたべてしまったのよ。だからわたしが怒ったら、誰のお陰で飯が食えていると思ってるんだ。なんて言うの。じゃあ老後の面倒はだれがみるっていうのよね。ひどいと思うでしょ、侍寸?」
「それは、まあぬぇ。だから、城を出られようと思ったのですかぬ」
「そう。侍寸には、勉強のための遊興だといって嘘をついてしまってごめんなさい。でも、そうでも言わないと、手をかしてもらえないとおもったから」
「そうでしたかぬぇ。ですが、そろそろおもどりになられてはいかがかぬぇ。姫様が一言謝れば、きっと上様も許してくださると思うぬ」
「いや。わたしはかえらない。お父様に、わたしが一人でも生きていけるってところ、みせてやるんだから」
「困りましたぬぇ。かげはなんと言ってるんですぬ」
「かげ?」癒簾は大げさに顔をしかめたようだった。
「かげがわたしのすることに何も口だせないことは知っているでしょ」
「そうでしたぬ。しかし、この四日。姫様を放浪させておいて、わたくしは叔父として、上司として、かげに自分の仕事をしていないとしかりつけたい気分でしてぬぇ」
「かげは、ちゃんとわたしの身を守ってくれてるよ」
「そうですか。御身を……」一瞬、侍寸の口元が歪んだ気がした。
「まあ、かげには闇天狗としての仕事をしっかりと果たしてもらいたいものですぬぇ」
侍寸の視線は癒簾のかげに向かっていた。癒簾と話しながら、その言葉はかげにかけられているもののようだった。
「出来損ないと、言われないようにぬぇ。城に戻らないと言うなら、仕方ありませんぬ」
侍寸は癒簾に向き直って言った。
「あと、数日だけ待ちましょう。姫様が自由になされるのは、あと数日だけですぬ。町は、危ないですからぬ」
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