湖の民

影燈

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ああ、この子は本当に自分が人間であることを恨んでいるんだ。

令にはそう感じた。

けれど、
「君が人間に生まれたことも、神様が決めたことなんだろ? だったら、人間としてもがくだけもがいてみないとだめなんじゃないかな」

正解なんて、分からないのだ。
なにが本当に正しいかなんて。

ただ、紗和が言ったように、本当に大事なものというのは、もしかしたら、令が思ってたものではないのかもしれなかった。

「ここまで送ってくれて、ありがとう。あとは、一人で行くよ」
令は、リンに手を振って歩き出した。

その背に、
「私は、」 
と、リンの声が追ってきた。

振り返ると、リンの姿はない。

けれど声だけは、さっきリンの立っていたところから聞こえて来るのだった。

「私は、逃げただけだったのかもしれない。逃げる前に、出来ることをするべきだった」

令の側を、風が吹き抜けていった。
それきり、リンの声は聞こえなくなった。

気配も、なくなった。
また、風が吹いた。

木々を揺らし、サワサワという音が、なぜだろう、「ありがとう」と言っているような気がした。













 令はひたすら走り続けた。


 どこに行けば麻呂に会えるのか分からない。
半井に託されたものをちゃんと渡せるのか。
それも不安だった。

 息つく間もなく入っているせいで肺は痛いし、酸欠で頭はクラクラとする。
足は豆が潰れて、足袋は血に染まっていた。

 それでも、前に進み続けるしかない。
 早く、努のもとに戻ってやりたかった。安心させてやりたかった。

 それに、なにより、走り続けてないと余計なことを考えてしまうのだった。

 きっと、半井は無事だ。

 また、元気になって、ひょっこり令のもとに現れてくれるに違いない。

 でも、血を、吐いていた。
 息が苦しそうだった。

 もし、あのまんま意識が戻らなかったら……
令はそこまで考えて首を振った。

 そんなこと、考えるんじゃない!

「あっ」
 雑念が入ったせいか、令は木の根につまずき転げてしまった。

 その勢いで、懐に入れていた半井から預かった瓶が飛んで出た。

「待て!」
瓶がコロコロと転がっていく。

令は慌てて立ち上がり、後を追った。
だが、瓶は石にぶつかって跳ね上がり、崖下へ落ちてしまった。

「だめだ!」 
令は無我夢中で飛び込み、瓶をなんとか掴み取った。

しかし気づいたときにはその身体は宙に浮いている。

「落ちる――」
その瞬間令は死を覚悟して、だが瓶だけは決してその手から離そうとしなかった。











令の身体が崖を滑り落ちるというその時、

ガシッ。

と、令の襟が何者かにつかまれた。

「先生!?」
 半井が助けてくれたのだ。

 令はそう思って、急いで振り仰いだ。
 しかし、そこにいたのは半井ではなかった。

「麻呂――さん」
「なんだい、助けてあげたのに不服そうだね」

 麻呂は、令を崖の上に引き上げてくれた。

「いや、そんなことは……」
 令が返答に困っていると、麻呂が辺りを見回して言った。

「半井の姿が見えないようだが。どうした?」
「先生は――」
「死んだか」
 麻呂の言葉に、令は急いで首を振った。

「ちょっと怪我をしただけです」
「怪我ねえ」
 麻呂はいつもニヤニヤと笑っている。

まったく何を考えているのかわからないこの男が、令は苦手だった。
「湖賊の討伐隊は全滅か」
「……たぶん」

 令が水神の巣から出て湖に戻った時にはもう、何事もなかったように静かな湖畔が残っているだけだった。

しかし、あの場には多くの兵が倒れていた。

西脇のように死んだふりをしていた者もいたかもしれないが、脚を持った人喰魚に襲われてはひとたまりもないだろう。

「やるねえ。湖賊。ぜひ仲間に入ってほしいもんだよ」
「仲間?」

「ああ、俺と半助の――ああ、おまえにとっては半井か。それより、何か預かっているものはないか」

「あります」
 令は、持っていた瓶を麻呂に渡そうとして、止めた。

「どうした。その瓶が預かったものなんだろう?」

 半井は、これを麻呂に渡せと言った。
けれど、令は、どうしてかそれを麻呂に渡したくなかった。

「これを――何に使うんですか。これは、毒ですよ」
 麻呂は何がおかしいのか、令をバカにしたように笑って言った。

「いっちょまえにそんなことを心配してるのかい」
 子どものくせに。

 という麻呂の考えがその言葉に見え隠れしていた。

「大丈夫さ。出羽図みたいに、それを湖に投げ込んだりはしない」

「知って、たんですか? 麻呂さんは、出羽図国が儺楼湖に毒を入れたこと」

「それしか考えられないだろう。出羽図はずっと昔から沼無国の儺楼湖を奪おうとしてたんだ。それで儺楼湖の民を病気にさせ、国を弱らせてから自分たちが占領するために里ごと焼いた。それで沼無国はもう儺楼湖は死んだのだと思わされたからな」

「そんな――全部、国と国の戦だったなんて」

「そうさ。でも、証拠がない。沼無が再び兵をあげるには、民を説得する理由がいる」

「待ってください。沼無がまた兵をあげるって……また戦を起こす気ですか!?」

「ああ。もう、準備は整っている」
「それじゃあ、これは渡せません」

 令は、瓶を懐に隠そうとしたが、それより速く麻呂に奪われてしまった。

「だめです! 返してください。戦なんて、絶対だめです!」

 令は、必死で瓶を奪い返そうとしたが、素早い麻呂の体さばきに触れることさえできなかった。

「半助は、これを俺に渡せとおまえに言ったんだろう?」

「そうです。だけど、先生だって、戦を起こしたいなんて思ってないはずです」

「それはどうかな」
 麻呂は、冷たい笑みを浮かべて言った。

「あいつも、俺と同じ沼無に仕える忍びだ」

「忍び!? 半井先生が……?」
そんなこと、にわかには信じられなかった。

だが、思い返してみれば、やけに耳は良いし、夜目も効いていた。

やたら剣術以外の武術にも長けていた。

「そうだ。このまま出羽図に国を任せていたら、民の苦しみは増す一方。鬼憑病にしたって、あいつは自分ばかり薬草を集めて、民を救おうともしない。だが、沼無では今おまえが採ってきた薬草をもとに薬を作っているところだ。この薬を、世に広めるためにも、出羽図を倒さねばならないのだ」

 出羽図は、敵の沼無が作った薬を認めない。


 完成しても、民に使わせようとしないだろうと言っている。

「じゃあ、その薬の作り方を出羽図に教えてしまえばいいじゃないですか。戦を起こすことなんてない」

「だから言ってるだろう。出羽図の国王は己さえよければいい人物なんだ。薬の作り方を教えたところで、出羽図はその薬を高額で売りさばくだけだ。庶民は救われない」

「そんな……」

「とにかく、子どもはすっこんでろ。ああ、おまえも出羽図城にはもう入らないほうがいいぞ。今回の給金はあきらめろ」

「入らないほうがいいって……そんなにすぐに戦が始まるってことですか!?」

「ああ。もう城を攻める準備はできている」

 じゃあね。
 そう言って去ろうとする麻呂を、令は追いかけられなかった。

「先生……」
 ぼくは、どうしたらいいですか――。


 令は、力なくその場に座り込んだ。




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