湖の民

影燈

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先ほど、西脇から奪ったあの瓶だ。

「これを、麻呂に渡してくれ」
半井は、息も絶え絶えに言い、血を吐いて気絶した。

「先生!」

令は半井にすがりたかったが、紗和が一切半井に触れさせようとしなかった。

「この毒はしつこいの。抜けたと思っても体内に少しでも残ってればそこからまた全身を犯す。身体を動かせばすぐに毒がまわるわ」

それを聞けば、令も半井に触れることはできなかった。

「正義とか悪とか、そんな次元の問題じゃないの」

紗和は静かに言った。

「あなたが今いるのは、水神様の巣よ」
「ここが?」

令は驚いてあたりをみまわした。

儺楼湖のように、そこは穏やかで美しい場所だった。

「我々は、神様に生かされている」
紗和は続けた。

「人間は、自分たちの都合で湖を荒らし、水神様を怒らせた。でも、病は水神様のせいじゃない。出羽国が、湖に毒を入れたのよ」

うそだ。
令は、言葉を失った。
にわかには信じられない、そんなこと。

あの美しい儺楼湖に毒を入れるなんて。
水神様を侮辱するようなことをできるなんて。
そんな、人間がいるなんて……。

「水神様にとっては、誰がこの国をおさめようがそんなことは関係ない。水神様は自然のためにある。その自然の恩恵で我々人間は生きていられるの」

だから、

「水神様は、もう門を閉じるわ。私たちは、出羽国の兵に里を焼かれて、湖に飛び込んで生き残った、いいえ、生かされた者たち」

令は、耳を疑った。

「里を、出羽国に焼かれた? そんな、里は山火事で燃えたんじゃ」
「いいえ。出羽国が火をつけたのよ。それで、他のみんなは亡くなった」



そんなばかな。



自分の故郷を焼いた者に、自分は支えようとしていたというのか。
まさか。そんなこと、とても信じられない。

「私たちは、ここを、住処にして、湖を荒らそうとする者たちと戦ってきた。けれど、水神様がもういいと言っている」

紗和は、遠くに立っている少女に目を向けた。

「あの子が巫女。水神様の声を代弁してくれる。水神様は、もうあなたたちに恩恵を与えない。ここはただの湖になるわ」

「それじゃあ、薬草も……」

「人間の作った毒よ。人間がなんとかするしかない。すべて、責任主体よ」

「それじゃあ、」
それじゃあ、

「ぼくの母も、何か悪いことをしたんですか。父は!? 二人とも、水神様のことを敬って、一生懸命生きていた。それが、悪いことだったんですか!?」

「死はーー」
紗和は、令の肩に手を置いて、まっすぐに令を見据えて言った。

「不幸なことではありません」
不幸なことじゃない?

令には、全然紗和の言うことが理解できなかった。
死が、不幸なことじゃないなんて。

「行きなさい、坊や。あなたにはあなたのやるべきことがあるでしょう」

「でも、」
坊やと呼ばれてしまった。

自分はまだそんなに子どもに見えるんだろうか。

「半助のことは私が引き受けます。どうやらこの人は、私にとっても大事な人のようだから」

「記憶が、ないんですか?」
どこかで見た顔だと思った。
紗和は、半井の嫁じゃないか。

大好きな人に忘れられて、半井はどんな気持ちだったのか。
想像するだけで、胸が締め付けられる。

「覚えていることもある。でも、半助のことはあまり……」
「じゃあ、約束してください」
「約束?」
「はい。あなたは、半井先生のことを助けて、半井先生のことを思い出す」

そのかわり、
「ぼくは、大人になって、二度とこんなことが起きないような国を作ります」

令がそういうと、紗和がふっと笑った。
初めて見るその笑顔は、半井によく、似ていた。
「よろしく、お願いします」

怖い人だと思っていた。




でも、その笑顔を見て、半井がどうしてこの人を好きになったのか、分かった気がした。










第六章





 令は、刻限を待って水神様の住処から脱出した。

 下界へ出るまでは、名も知らぬ巫女の少女が送ってくれた。

 岸へ上がると、白骨が転がっていた。

 西脇のものかもしれないと思うと、吐き気がした。

けれど少女は平然とその前を通りすぎ、ぐんぐんと森の中に入っていく。

 令も、仕方なく後に続いた。
 会話をする気はないらしい。

 でも令は、少女の名前ぐらいは聞いてみたい。
だが前にも尋ねたことがあるような。
でも、思い出せない。

 令は、何度か少女に話しかけようと試みたが、少女はまるで話しかける隙を与えてくれたなかった。

 年頃は令と同じくらいに見えるが、考えれば考えるほど、どうやって話しかけたらいいかがわからないのだ。

 と、突然、少女が立ち止まった。

「あなた、戦えるの?」

 唐突に、少女は訊いてきた。

「戦えるって、どういう意味?」

「そのままの意味よ。私はここで死ぬ運命にないの。あなたが守って」

 何を言ってるんだこの娘(こ)は。
 と思った次の瞬間、藪の中から武装をした男たちが現れた。

 それも五人。
 少女は、山賊が来るとわかっていたのだ。

「これを、ぼくになんとかしろと?」
「そうよ」
 と、少女は平然という。

「それから、私は十五。あなたは十四。私のほうが年上だから」
 こんなときに何を言ってるんだ、この娘は。

「助けてくれたら、名前ぐらい教えてあげる」
「いや、そうは言っても」

 令は、杖を構えるが、実際にそれで人と戦ったことなどない。

「なんだあ、その武器は。ガキが二人で森の中仲良くデートか。金は持ってんのか?」

「お金なんてありません。だから、逃がしてください」

 令は、震える声で言った。今まで、半井が守ってくれていたこと。その存在の大きさを、改めて思い知った。
「じゃあ、着ぐるみ置いていけ。そこの女もだ」

「ぼくはいいですけど、この子は許してもらえませんか。女の子なんです」

「そんなことは見ればわかる。女っこの服のほうが、高く売れるんだよ。さっさと脱げ」

 山賊たちが歩み寄ってくる。
 令は、少女を後ろに隠し、杖で山賊たちを警戒した。

 けれど、あっさり杖は払われ、令は山賊の一人に殴り倒されてしまった。

 山賊が、嫌がる少女の腕をつかむ。

 ぼくは、本当に、一人じゃ何もできないんだろうか。
それでいいのか。

 ぼくは、半井先生みたいになりたい。

 半井が何者でもいい。
優しくて、強くて、人の気持ちがわかる人になれれば、それでいい。

そして、半井みたいに強くなって、大切なものを守りたい。

 それには――。
 勇気を出さなくちゃならないんだ。
 令は、杖を手に、山賊に掛かっていった。

 大振りの一発目は、簡単によけられた。

しかし、二打目からは、父に、そして真名のお父さんから教わったことを思い出し、無我夢中で杖をふるった。

「いて、いてて」
 杖は刀のように殺傷能力はない。

まして、まだ力のない令には、相手を倒すこともできない。

 だが、山賊たちは、決して杖を放さず、自分たちに触らせようとしない令にしびれを切らして、あきらめて去っていった。

 令は、危険が去ったのだとわかると、急に力が抜けてその場にへたりこんでしまった。

 それを、少女は鼻で笑った。
 もしかして、この娘、性格が悪いのだろうか。

「笑うことないんじゃないでですか? ぼくだって必死に――」
「わかってる。わたしの名前、あなたはもう知ってるでしょ?」
「え?」

 令は、言われてはじめて、前にこの少女に名前を問うたことを思い出した。

 だが、あのときはなにか夢うつつで、あまりよく覚えていない。

この娘と話しているときはいつもそうだ。
なぜか頭の芯がぼうっとするような気がする。

「あのとき、人喰魚が襲ってこなかったのは、君のおかげ? —―燐」

 リン。
 その名が、自然と口をついて出てきた。
 こんな美しい少女のこと、絶対に忘れられないと思ったのに。

「わたし、そんなに美しくないわ」
「え!?」
 令は慌てた。

「もしかして、ぼくの心を読んでる!?」

「読んでるわけじゃないわ。あなたの後ろの人が教えてくれるの。やさしいけど、おせっかいな人ね。あなた、小うるさいところない?」

「な――」
 小うるさいとは、失礼な。

だが確かに、務にも、半井にも、おまえは細かいと言われたことがある。

「私は、動物は操れない。ただ、この世ならぬ者の声が聞こえるだけ。
人喰魚は、水神様の僕よ。喰われた人は寿命。ただそれだけのこと」

「寿命――」
 そんな考え方、したこともなかった。

「それから、私のことは覚えていなくていい」
「覚えなくていいって、そんな、どうして?」
「私は巫女でありたいの。神様の側に立っていたいの。人間はみんな、身勝手だから」
「でも君は、人間だろ?」

何気ない令ののその言葉に、リンは腹を立てたのか、キッと令のことを睨んだ。



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