湖の民

影燈

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3 先生


紗和が隔離されてから、一月。

鬼憑病が伝染すると分かってから、罹患した者らは山寺に皆閉じ込められた。

夫婦(めおと)であろうと、鬼憑病の者に直接面会することはおろか、その寺に近づくことも許されなかった。

だがどうしてもその日は紗和の声が聞きたくて、夜陰に紛れて山寺に忍び込んだ。

半井と名乗る前は、こんなことを良くしていた。
警備の手薄な寺に忍び込むことなど、訳のないことだった。

半井は紗和のいる部屋の壁に手を当て、耳を当てた。
半井は耳がいい。
というより、鍛えてある。
寝息が聞こえてきた。

トントン、トトン。
トントトトン。

と、軽快に壁を叩く。

昔、紗和の屋敷に忍び込んで、こうして呼び出した。

八つの時に独り立ちして里を出て働くようになってから、里に戻ることがあるたび幼馴染みの紗和の元を訪れた。

半井のような下の者にとって、紗和は気軽に会える身分の者ではないのだと、気づいたときには、遅かった。

もう好きになっていた。
会いたくても会えない。

ずっとそんな日々が続いて、ようやく、一緒に暮らせる日が来たというのに。

まさか、紗和が不治の病にかかってしまうなど、思いもしなかった。

半井はもう一度壁を叩いた。

トントン、トトン。
トントトトン。

すると、
トントトトン。
トントン、トトン。

と返ってきた。
「紗和」
半井は思わず声に出して呼んだ。

「半助」
紗和はかつての名で半井を呼んだ。

「ここへ来てはいけません。あなたにも病が移ったら大変です」
「私は大丈夫だ。移るならもうとっくに移っている。――会いたい」
「だめ。急に発症している人もいるの」
「でも、」
これ以上言っても、紗和を困らせるだけだ。

本当に辛いのは、病にかかってしまって苦しんでいる紗和の方なのだから。

「ごめん。調子はどうだ?」
「大丈夫。あまり変わらない。咳が出ると辛いけど、発作が出なければ普通に生活できる。食事も、当番があって、みんなで協力してやっているわ。結構、楽しいの」

「そうか」
 気丈な紗和は、決して弱みを見せない。
 でも、紗和の明るいことが、半井にとっても救いだった。

「なにか足りないものはないか?」
 半井が尋ねると、紗和は笑って言った。

「心配性ね。大丈夫。沼無国のお役人さんが必要なものはなんでも運んできてくれているから。国王はこんな辺境の地の民にまで気をつかってくれている。いい国よ、この国は」

「だが、」
その国も、今、危うい。
そう口にしようとして、やめた。

敵の出羽図国が虎視眈々と天下統一の政権を狙っている。
それは、今の紗和に聞かせるべきことではない。

「それより、私は貴方が病にかかるのが心配なの。だから、もうここへは来ないで」

「そんなにハッキリと言うなよ」
情けなくも、泣きそうになる。二十三にもなって。

「大丈夫。また会える時が必ずある。だから今はお互い自分のできることを精一杯やりましょう。貴方には守らなければならないものがあるでしょう?」

半井ははっとした。
「知っているのか?」

「集会禁止令が出たのだもの。寺子屋が続けられるわけがない。辛かったね、半助」

紗和には敵わない。なんでもお見通しだ。

「辛いのは、子どもたちだよ。訳もわからず、友だちと引き裂かれて。当たり前にあるはずの日常が突然崩れてしまったんだ。私は、何もしてやれなかった」

半井は心底悔いてそう言ったのだが、何故か紗和はその言葉にふふっと笑う。

「大丈夫よ。半助は半助だから」

まったく答えにはなっていないのに、不思議と紗和の言葉にスッと気持ちが楽になる。

「私のことは、心配しないで。子どもたちの助けになってやって」

「分かった。でも、辛かったら俺を呼べ。合図をくれれば、いつでも行くから」

絶対に。必ず。
そう胸に誓う。

「分かった。ありがとう、半助。大好きよ」
紗和の不意打ちに、半井は狼狽気味に、
「俺の方がおまえを好きだ」
と、つい子どもの張り合いみたいなことを言ってしまった。

案の定紗和に笑われてしまう。

紗和の思いも同じだ。
自分だけが、辛いわけじゃない。

「お達者で」
「達者でな」

また、必ず会える。

自分に言い聞かせて、半井はその場を離れた。

苦もなく寺を抜け出し、やはり己にできることはこれしかないのだと、半助は改めて思うのだった。



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