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リオンは気づくと、白い吹雪の中にいた。毛皮でできた軍服に身を包み、分厚い手袋もしていた。歩く動作は遅く、湿ったブーツがひどく重い。
しばらく当てもなく歩くと、遠くに一筋の青い光が現れる。その光は瞬きをする間に見えなくなり、気づくとリオンは魔物の子どもに押し倒されていた。宝石みたいな青い目をした人型の魔物だ。リオンは咄嗟に懐の短剣に手を伸ばし——腕を噛まれ、痛みに呻いた。
「いっ……」
ぐっと歯を食いしばる。が、思っていたほどの痛みはなく、リオンは、はっと短く息を吐く。白い靄が上がり、魔物の顔に当たった。敵意をむき出しにした、子どもの顔だ。リオンはふと、俺は何をしているんだろうと、我に返る。
——こんな子どもに、何ができるっていうんだ……
子どもの長い白い髪が、頬にかかってちくちく刺さる。魔物なのに白い髪なんだなと、ぼんやりと思った。白はエディノン聖王国では純潔な色だ。醜く穢らわしい魔物からは、ほど遠い。
子どもの髪が暴風で大きくなびく。吹雪の中、白い髪の輪郭がぼやける。
リオンは無意識のうちに、空いた片腕を魔物の子の背中に伸ばしていた。ふんわりと、繊細な花を扱うかのごとく、優しく抱きしめる。
なぜそうしたかと問われれば……吹雪の中布切れ一枚で寒そうだったからとか、噛む唇が荒れていて哀れに見えたとか、様々な要因が思いつくが、どれも違う気がした。ただリオンには、そうするしか選択肢が残されていないように思えたのだ。
腕を噛む力が一瞬緩む。子どもの目が動揺で震え、きらきらと反射した。
「俺は……俺は、殺すのが嫌いなんだ」
どこから出してるのかと思うほど、芯のない弱った声に、ああ、本当の自分だ、本当の自分が話している、とリオンは悟る。
父の期待を背負ったバルツァー家の息子でもなく、立派な近衛騎士の一人でもなく、子どもの姿をした魔物に剣を向けるのが怖い、弱い自分。
自分は弱い。ゆえに想像してしまう。きっとこの魔物は吹雪で親とはぐれ、たまたまリオンに出会ったのだろうと。もし出会っていなければ、この子どもが自分を襲うことはなかったのだろうと。悪意を持って襲撃してきたわけではないのだと。
そう、考えてしまうと、リオンには目の前の子どもが、殺すべき悪には思えなかった。ただの不運な巡り合わせ。お互い見て見ぬふりをすれば、誰も傷つかず、誰も死なず、平和に終わる話。
「……お願いだ。お願いだから、逃げてくれ。逃げて、逃げ切って……俺にお前を殺させないでくれ」
それはもう、懇願に近かった。鼻の奥がつんとし、目の奥が熱い。
リオンは怖かった。たまたま出会った悪意のない魔物の子どもを殺すのが。怪我をしたら痛い。死ぬのは怖い。自分が強くそう思うからこそ、そんな恐ろしい行為を子ども相手にしたくない。
吹雪が太陽を覆い隠す。昼の明るさはなく、夜の暗さもない。灰色の曖昧な世界が二人を包み込んだ。
「……わかった」
子どもはゆっくりと口を離し、見た目よりもずっと大人びた声で頷く。
リオンは思いが通じた安堵で、泣きそうになった。ぐっと喉を動かし、なんとか涙を堪える。
「貴方の、名は?」
子どもはリオンの上に乗ったまま、宝石の目で見つめて問うてくる。リオンは名を告げようとして、寒さで上手く口がまわらず、
「イ、オ……」
と母音だけが声になって出た。訂正しようかとしたが、さすがに本名を伝えるのはまずいと気づき、リオンはそのまま、
「……イオだ」
と名乗る。
「イオ、イオ…………イオ」
子どもが乾燥した唇で何度も呟く。頭の中に刻み込むように、リオンをまっすぐ見つめて、繰り返す。
「…………絶対に、絶対に、貴方のことは忘れない」
しばらくして、突然ぎゅっと抱きしめられた。瞬間、落ち着く草原の香りに包まれて、自分が吹雪の中寝ているのを忘れそうになる。深く息を吸うと、春の暖かな陽気が想起させられた。
「俺の名は……」
子どもが首筋のあたりでリオンの香りを嗅いだあと、耳元で名を告げる。リオンは聞こえてきたその名を、口に出して繰り返した——
「……ゼ、ア……」
すると、突然、隣でがばりと布が擦れる音がした。
——ん? なんで衣擦れの音が……
認識したとたんに体が大きく揺さぶられ、子どもの顔がぼやける。揺れに引っ張られて目を覚ますと——
「イオ! 覚えててくれたのか!?」
……びっくりするほど美しく成長した魔物の子が、こちらを見つめていた。
「えっ……あ、ええっ?!」
リオンは起き上がろうとして、腰の痛みで動きが止まる。しかも、出てきた声ががさがさだ……と困惑するうちに、ここがどこで、昨日何をして……と記憶が蘇る。
「え、は……えぇ、はぁ?」
頭は痛くないのに額に手を当てる。記憶もあるのに、時系列を遡る。酷い二日酔いのときと同じ行為だ。
ゆっくりと腰を労わりながら起き上がる間に、隣で寝ていたであろう魔物の子どもが、「ちょっと待っていろ、今すぐ水を持ってくる」と告げて出て行った。
その後ろ姿は……昨日一夜を共にした魔王だ。思いっきり裸だったが、彼が指を鳴らすと、瞬きの間に服が装着された。昨日部屋に来たときに着ていた服と形が似ている。
——え、魔王が魔物の子どもで……魔物の子どもが、魔王?
いや、そこと、そこは重ならないだろう、と強く否定したいが、リオンのことをイオと呼ぶ理由は、そうとしか説明のつけようがない。
どうにか魔王——正確にはゼアかもしれないが——が戻ってくる前にリオンは頭を整理させたかったが、ゼアは「持ってきたぞ!」と言って、本当にすぐに戻ってきた。
リオンはベッドの上で裸のまま、水の入ったゴブレットを受け取る。促されるまま水を一口飲んだあと、
「お前はあのときの……ディスティア山脈で会った魔物の子か?」
と尋ねた。隣でリオンの様子を伺っていたゼアは、ぱぁっと顔を明るくし、
「ああ!」
と思いっきり肯定したあと、「あっ、いや」と瞬時に表情が暗くなる。そして「……えっと……そのだな……」と歯切れが悪くなったが、今更否定するのは難しいのでは? とリオンは思った。
しばらく当てもなく歩くと、遠くに一筋の青い光が現れる。その光は瞬きをする間に見えなくなり、気づくとリオンは魔物の子どもに押し倒されていた。宝石みたいな青い目をした人型の魔物だ。リオンは咄嗟に懐の短剣に手を伸ばし——腕を噛まれ、痛みに呻いた。
「いっ……」
ぐっと歯を食いしばる。が、思っていたほどの痛みはなく、リオンは、はっと短く息を吐く。白い靄が上がり、魔物の顔に当たった。敵意をむき出しにした、子どもの顔だ。リオンはふと、俺は何をしているんだろうと、我に返る。
——こんな子どもに、何ができるっていうんだ……
子どもの長い白い髪が、頬にかかってちくちく刺さる。魔物なのに白い髪なんだなと、ぼんやりと思った。白はエディノン聖王国では純潔な色だ。醜く穢らわしい魔物からは、ほど遠い。
子どもの髪が暴風で大きくなびく。吹雪の中、白い髪の輪郭がぼやける。
リオンは無意識のうちに、空いた片腕を魔物の子の背中に伸ばしていた。ふんわりと、繊細な花を扱うかのごとく、優しく抱きしめる。
なぜそうしたかと問われれば……吹雪の中布切れ一枚で寒そうだったからとか、噛む唇が荒れていて哀れに見えたとか、様々な要因が思いつくが、どれも違う気がした。ただリオンには、そうするしか選択肢が残されていないように思えたのだ。
腕を噛む力が一瞬緩む。子どもの目が動揺で震え、きらきらと反射した。
「俺は……俺は、殺すのが嫌いなんだ」
どこから出してるのかと思うほど、芯のない弱った声に、ああ、本当の自分だ、本当の自分が話している、とリオンは悟る。
父の期待を背負ったバルツァー家の息子でもなく、立派な近衛騎士の一人でもなく、子どもの姿をした魔物に剣を向けるのが怖い、弱い自分。
自分は弱い。ゆえに想像してしまう。きっとこの魔物は吹雪で親とはぐれ、たまたまリオンに出会ったのだろうと。もし出会っていなければ、この子どもが自分を襲うことはなかったのだろうと。悪意を持って襲撃してきたわけではないのだと。
そう、考えてしまうと、リオンには目の前の子どもが、殺すべき悪には思えなかった。ただの不運な巡り合わせ。お互い見て見ぬふりをすれば、誰も傷つかず、誰も死なず、平和に終わる話。
「……お願いだ。お願いだから、逃げてくれ。逃げて、逃げ切って……俺にお前を殺させないでくれ」
それはもう、懇願に近かった。鼻の奥がつんとし、目の奥が熱い。
リオンは怖かった。たまたま出会った悪意のない魔物の子どもを殺すのが。怪我をしたら痛い。死ぬのは怖い。自分が強くそう思うからこそ、そんな恐ろしい行為を子ども相手にしたくない。
吹雪が太陽を覆い隠す。昼の明るさはなく、夜の暗さもない。灰色の曖昧な世界が二人を包み込んだ。
「……わかった」
子どもはゆっくりと口を離し、見た目よりもずっと大人びた声で頷く。
リオンは思いが通じた安堵で、泣きそうになった。ぐっと喉を動かし、なんとか涙を堪える。
「貴方の、名は?」
子どもはリオンの上に乗ったまま、宝石の目で見つめて問うてくる。リオンは名を告げようとして、寒さで上手く口がまわらず、
「イ、オ……」
と母音だけが声になって出た。訂正しようかとしたが、さすがに本名を伝えるのはまずいと気づき、リオンはそのまま、
「……イオだ」
と名乗る。
「イオ、イオ…………イオ」
子どもが乾燥した唇で何度も呟く。頭の中に刻み込むように、リオンをまっすぐ見つめて、繰り返す。
「…………絶対に、絶対に、貴方のことは忘れない」
しばらくして、突然ぎゅっと抱きしめられた。瞬間、落ち着く草原の香りに包まれて、自分が吹雪の中寝ているのを忘れそうになる。深く息を吸うと、春の暖かな陽気が想起させられた。
「俺の名は……」
子どもが首筋のあたりでリオンの香りを嗅いだあと、耳元で名を告げる。リオンは聞こえてきたその名を、口に出して繰り返した——
「……ゼ、ア……」
すると、突然、隣でがばりと布が擦れる音がした。
——ん? なんで衣擦れの音が……
認識したとたんに体が大きく揺さぶられ、子どもの顔がぼやける。揺れに引っ張られて目を覚ますと——
「イオ! 覚えててくれたのか!?」
……びっくりするほど美しく成長した魔物の子が、こちらを見つめていた。
「えっ……あ、ええっ?!」
リオンは起き上がろうとして、腰の痛みで動きが止まる。しかも、出てきた声ががさがさだ……と困惑するうちに、ここがどこで、昨日何をして……と記憶が蘇る。
「え、は……えぇ、はぁ?」
頭は痛くないのに額に手を当てる。記憶もあるのに、時系列を遡る。酷い二日酔いのときと同じ行為だ。
ゆっくりと腰を労わりながら起き上がる間に、隣で寝ていたであろう魔物の子どもが、「ちょっと待っていろ、今すぐ水を持ってくる」と告げて出て行った。
その後ろ姿は……昨日一夜を共にした魔王だ。思いっきり裸だったが、彼が指を鳴らすと、瞬きの間に服が装着された。昨日部屋に来たときに着ていた服と形が似ている。
——え、魔王が魔物の子どもで……魔物の子どもが、魔王?
いや、そこと、そこは重ならないだろう、と強く否定したいが、リオンのことをイオと呼ぶ理由は、そうとしか説明のつけようがない。
どうにか魔王——正確にはゼアかもしれないが——が戻ってくる前にリオンは頭を整理させたかったが、ゼアは「持ってきたぞ!」と言って、本当にすぐに戻ってきた。
リオンはベッドの上で裸のまま、水の入ったゴブレットを受け取る。促されるまま水を一口飲んだあと、
「お前はあのときの……ディスティア山脈で会った魔物の子か?」
と尋ねた。隣でリオンの様子を伺っていたゼアは、ぱぁっと顔を明るくし、
「ああ!」
と思いっきり肯定したあと、「あっ、いや」と瞬時に表情が暗くなる。そして「……えっと……そのだな……」と歯切れが悪くなったが、今更否定するのは難しいのでは? とリオンは思った。
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