出来損ないの次男は冷酷公爵様に溺愛される

栄円ろく

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2巻

2-2

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「ライア様、ジルです。入っても大丈夫ですか?」
「ああ」

 片手で執務室の扉を開けると、デスクで仕事をしていたライア様が顔を上げた。
 ちょうどお盆に載っているものが見えたのだろう、赤い瞳がきらりと輝く。

「もしかして、キャパティか?」
「はい。ナティさんに教えてもらいながら、つくってみました」

 キャパティが嫌いな人がいないというのは事実らしい。
 ご褒美を前にした子供のような目をするライア様に、ふふっと笑う。
 俺はデスクの横に行って、お盆に載せたキャパティとティーセットを机上に置いた。

「ありがとう。ジルはお菓子作りが好きなのか?」
「いえ、特には……ライア様はお仕事がお忙しいみたいなので、甘いものでも差し入れできたらなと」

 たまたまナティさんとお菓子作りをしていただけで、好きかと尋ねられると微妙なところ。やっぱり、ライア様の役に立ちたいという思いのほうが強い。

「ありがとう。でもジルはお菓子作りの才能があると思うぞ。手先も器用だし、いつぞやつくってくれたチョコレート菓子も職人のような出来だった。キャパティも綺麗に膨らんでるしな」

 ライア様が「すごい」と言って嬉しそうに微笑む。
 さっきまで将来の不安に頭を悩ませていたのに、好きな人の笑顔が見られただけでほわっと胸の内が温かくなった。

「いえいえ、そんなでも……あ、今度港の視察に行くんですか?」

 照れ隠しで目線を下げると、デスクの上に置かれた書類が目に入る。
 題目のところには大きく【元シャルマン子爵領地沿岸工事計画】と書かれていて、視察に行く日程表が記されていた。

「ああ。三日後に出発して、向こうで一泊して戻ってくる」
「へぇ……」

 元シャルマン家領地で行われている港建設工事は、最新の埋め立て技術が使われており、サルタニア王国全土が注目している。もちろん、ライア様も総責任者として月一回ほど視察に行っていた。
 けれど俺が興味を持っているのは、大きな事業だからという理由だけじゃない。

「ウェスに会いたいか……?」

 ライア様の問いかけに、つかの間の静寂ができる。
 会いたいと言えばライア様は嫌な気持ちになるかと思ったけれど、わずかな沈黙が俺の肯定を示していた。
 俺の兄であるウェスは、今年の春に大規模密輸入を企てた犯人として捕まった。幸いにも恩赦を求める声と劣悪な家庭環境を加味して、無賃で港建設に携わる『過酷な労役』を課されて死刑は免れた。
 だが犯罪者であることには変わりない。ライア様が俺を傷つけた兄さんを完全には許しているかもわからないし、会いたいとも言いづらかった。

「そう、ですね……」

 一応、俺はあの事件から反省して、なるべく兄さんと交流を持つようにしている。
 密輸入だって前から二人で話し合っていたら起こらなかっただろうし。
 おかげで今では月二回ほど手紙のやり取りをしているが、文面で見る兄さんは過酷な労役を課されているわりにとっても元気そうで、実際に会って話したい思いはあった。
 でもライア様がどう感じるか……そっちが気になって、はっきり『会いたいです』と口に出せない。
 しかしライア様は俺の内心を察してか「……もしジルがよければ、視察に来るか?」と提案をしてくれた。

「えっ! いいんですか!?」

 港の建設工事は一般の人間は簡単には立ち入れないが、工事の最高責任者はライア様だ。ライア様がいいと言えば入れるだろう。

「ああ。最近一緒にいる時間が少なかったからな。視察についてきてくれれば、ずっとそばにいられるだろう? しかしジルが嫌なら……」
「ぜ、全然嫌じゃないです! むしろ嬉しいです!」

 ライア様と一緒にいられるのも嬉しいし、兄さんに会えるのも嬉しい。
 いいことばかりの視察同行提案に、俺は食い気味で返事をした。

「ふっ、そうか。よかった。これでしばらくは一緒にいられるな」

 ライア様が俺の腰に手を伸ばす。さわさわと撫でる触れ方に昨日の情事が想起され、頬が熱くなった。

「ラ、ライア様、さ、触り方が……」
「……三日後の出立の日までは会えないかもしれないからな」

 拒める強さで抱き寄せられたけれど、ライア様の甘い声に誘われ、されるがままに抱きしめられる。
 二週間会えない日もざらだ。三日なんて可愛いもん。
 でも寂しいものは寂しい。俺は惹き寄せられるがままに、ライア様の唇に軽くキスを落とした。


 三日後の視察の日はすぐに訪れた。
 公爵邸を出立する日は快晴で、「幸先がいいな」とライア様が玄関ホールで笑っていた。
 俺も久しぶりに連日ライア様と一緒にいられるのもあってわくわくした気持ちのまま、公爵邸から馬車に乗った。
 公爵邸から元シャルマン領までは馬車で丸一日かかる。けれどライア様が言うには、もっと短時間で移動できる街道を整備中らしい。

「今は途中の街で一泊する必要があるが、もう三か月ほどすれば一日で行けるようになるだろう」

 馬車に揺られながら、前に座るライア様が外を見ながら言う。

「じゃあ朝出て夜には着く感じですかね?」
「ああ。なんならもう少し早いかもな」

 そしたら今よりもっと便利になるだろう。王都からの距離を考えれば、フェル様の実家であるメネシア家の港より近い。
 ほかにもライア様とあれこれ話し、途中の街で一泊する。
 翌日も馬車に乗ること数時間。

「……わぁ! すごい! こんなに変わって……!」
「まだ基礎工事中だがな」

 爽やかな潮風の匂いと夏の強い日差し。
 馬車を降りて防風林を抜けた先には、俺が最後に見たときとはまったく違う元シャルマン子爵家領地が存在していた。

「あんな遠くにまで防波堤が……」

 砂州の海側には防波堤が築かれており、かつてのまっさらな水平線はどこにもない。反対の陸側は、埋め立ての基礎となる杭を打っているところのようだ。
 俺は感嘆の声を上げながら、ライア様とともに仮設テントへ向かう。
 工事の設計図や進捗表はそこにまとめているらしく、ライア様は基本テントの中でお仕事をするらしい。
 現場の担当者らしき人に連れられてライア様とともに歩いていると、途中で見知った茶髪が目に入った。

「あ、兄さん!」

 俺の声に気がついたのか、白衣を着た兄さんがこちらを振り返る。話していた従業員とおぼしき人たちに声をかけると、兄さんはこちらに向かってきた。

「ライア様、お久しぶりでございます。ジルも、久しぶりだね」

 約四か月ぶりに会う兄さんは少し肌が焼けて、生気に溢れているように見える。顔もやつれておらず、従来の、人を惹きつける瞳が輝いていた。
 手紙でどういう生活を送っているかは知っていたけれど、前の兄さんとは別人みたいだ。過酷な労働環境なはずなのに、前より元気そうでほっと安堵する。

「工事も順調に進んでいるようだな。チャールズ教授はどこにいる?」

 ライア様の物言いは俺に向けるものよりやや硬い。やっぱり兄さんを許したわけじゃないのかな……と思いつつ、俺以外と話すときはいつもこんな感じかも、とも考え直す。
 外では外のライア様の顔がある。きっと公の場では冷酷公爵様のほうがなにかと都合がいいのだろう。
 兄さんもライア様の冷めた態度をまったく気にしていないようだった。

「たぶん第七開発現場にいらっしゃると思います。案内しますね」
「わかった。私一人で行けるから案内はいらない。代わりにジルを案内してやってくれ」
「えっ」

 俺はびっくりして隣に立つライア様を見つめる。
 表情は変わらず冷めていたが、瞳の奥には少しだけ温かな光が灯っていた。
 たしかに会いたいとは言ったけれど、まさか二人だけの時間をくれるなんて……

「ラ、ライア様、でも……」

 兄さんが断る前に、ライア様は「頼んだ。これは命令だ」と応えて歩き出してしまう。
 俺と兄さんはぽつんと残された。

「あ、ジル、あの……」
「……兄さん、久しぶり。元気にしてた?」

 今さらだけど、手紙のやり取りはしていても直接話すのは四か月ぶりだ。実家にいたころも会話という会話をした記憶がないし、急に二人きりになってもなんて話しかけていいかわからない。
 それは向こうも同じなのか、社交的な兄さんには似合わず、そわそわ落ち着かない様子だった。

「うん……僕は元気だよ。ジルはどう?」
「うん。俺も元気にしている」

 場を和まそうと俺が笑うと、ちょっとだけ兄さんの表情も柔らかくなる。

「そっか。よかった……にしても今日はどうして視察に? いつもはライア様だけなのに……」
「あ、俺が兄さんに会いたくて」
「えっ、僕に?」
「うん。元気にしてるかなって。手紙で事情は知ってたけど」

 たまに届く兄さんの手紙には、チャールズ教授の人使いが荒いとか、建設現場の仕事が大変だとか、辛い内容もたくさん書いてあったけれど、言葉の隅々で楽しんでいるのが伝わってくる内容だった。
 だから余計、会ってみたくなったのだ。俺が知ってる兄さんはどこか近寄りがたくて、自分とは住む世界の違う人だと思っていたから……

「……僕に、会いたかったんだ……」
「ん? どうしたの? あ、もしかして急に来て迷惑だった?」

 兄さんは口元に手を当て、なにかつぶやいている。
 変な返事をしたつもりはないけれど……ひょっとしたら急に来たのを怒っているのかも?
 俺がしゅんと落ち込むと、兄さんが慌てたように「いやいや、全然違うよ!」と否定した。

「その、いつでもおいでよ……僕も、ジルに会いたいし」
「えっ! ほんと?」

 こっちが一方的に会いたいだけかと思っていたから、兄さんも同じ気持ちだなんて嬉しい。
「やったっ」と目を細めると、兄さんが「ふっ」と吹き出した。

「ジルってほんと……お人好しというか、天然というか……」
「えっ、あ、ご、ごめん」
「違う、違う。謝らせたかったんじゃなくて……」

 短い沈黙の間があったあと、「本当にごめん」と突然兄さんが頭を下げた。

「ジルは優しくていい子なのに……僕が不甲斐ないばかりに傷つけて……」
「えっ! ちょ、ちょっとやめてよ! もうその話は終わったんだから!」

 俺は慌てて兄さんの肩を掴み、頭を上げさせる。

「元はと言えば父上が悪いんだから、兄さんがいつまでも俺に謝る必要はないよ」

 領主としても、父としての仕事も放棄し、兄さんと俺の考えを歪ませた張本人。
 でも俺はライア様のおかげで歪みに気づけた。
 だからきっと兄さんも、正しいものの見方を身につけられるはず。この開発現場を通してか、これからの新しい出会いを通してかはわからないけど……

「……ありがとう。ジル、こんな僕を許してくれて」
「当たり前じゃん。悪いのは全部父上なんだから」

 兄さんはふっと笑みを作り、もう一度小さく「ありがとう」と返すと「じゃあ港の建設現場を案内するよ。僕に今できるのはそれだけだから」と歩き出す。
 俺はその背中に「あ、もし今仕事中ならあとででも……」と声をかけたが、

「いいのいいの。ほかの仕事はあとに回せるし、さっきライア様が『ジルを案内してくれ』って言ってたでしょ? なら最高責任者のご命令を優先しなきゃ」

 兄さんは朗らかに返事をして新港建設現場の奥へ足を進める。
 ……迷惑かと思ったけど、本人がいいって言ってるならいっか?
 俺は浮き立つ歩みをなるべく抑えて、兄さんのあとを追いかけた。


「ここは土砂を入れているところだよ」
「へぇ……じゃあ、あの人たちはなんの仕事中?」
「ああ、あれは……」

 兄さんに連れられながら、港工事の説明を受けること数時間。
 第一開発現場から案内が始まり、今は第六開発現場の手前まで来ていた。
 従業員はほとんどが元シャルマン領に住んでいる領民らしく、兄さんを見かけると「ウェス様~!」と声をかけてくれる。
 てっきり俺ら兄弟は領民には嫌われていると思っていたから、最初声をかけられたときはびっくりした。シャルマン領が公爵領に変わってしまったわけだし、恨まれてもおかしくない。
 けれど兄さんが「ライア様がしっかり説明してくださったんだ」と教えてくれた。
 ライア様は港をつくるにあたり、領民へ向けて書面を出したらしい。シャルマン家元党首である父の悪行や兄さんの罪の償い方など。新港ができる利点も踏まえて、領民が不安に感じている部分を的確に補った書面だった。
 また領民への待遇も父が治めていたときよりもよくなっているようで、小麦や乳製品など公爵領で育てている作物は以前よりだいぶ安く買えるのだとか。

「でも、まだ新港建設に反対する人はいるんだけどね……」
「そうなの?」

 ちょうど第六開発現場に入り、現場を見渡せる安全柵に寄りかかりながら、左に立つ兄さんが悔しそうにつぶやく。
 へぇーと俺は生返事をしつつも、「あ、兄さんあの木材はなにに使うの?」と目に入った気になる木材を指差した。

「あれは地盤が緩いところで使う……」

 俺は隣で説明を聞きながら、うんうんと頷く。
 兄さんの話はわかりやすい。難しい単語は使わずに、うまい例えで話してくれる。
 わけのわからないカタカナや専門用語で『ハッ、そんなのもわからないの?』みたいな態度だったらどうしようかと思っていたけど、兄さんの案内は完璧で、俺はずっと知識欲が刺激されっぱなしだった。

「兄さん、あっちの高い建物はなに?」
「あれは見張り台だよ。現場全体を見渡すときに必要で……」
「ねぇ、この柱はなんであるの?」
「この柱は埋め立てるときに……」
「ねぇ、兄さん、これはなんのために……」
「うーん、どれどれ? ああ、あれは……」

 兄さんは打てば響くようにすぐ答えてくれる。
 しかもすごいことに、全部ちゃんと答えが用意されているのだ。『あれなんだろうね~?』『うーん、わかんないなぁ~』なんて会話がひとつもなく、つい気になったものをぽんぽんと尋ねてしまう。

「ねぇ、兄さん、あれは……」
「ふふっ……ジルは好奇心旺盛だね」

 兄さんの笑い声に、俺はハッと我に返った。

「あ、ご、ごめん! いっぱい聞いて……」
「いや、僕も研究について話すのは好きだし、ジルも楽しそうで嬉しいよ」
「え、あ……うん……」

 ……楽しそう、か。
 なぜか兄さんのふとした一言が耳に残る。
 思えば最近、楽しいことってあっただろうか……?
 ライア様との生活は幸せそのもので不満はない。俺のやりたいことはなんでも叶えてくれるし、満たされた毎日のはずだ。
 けれどわくわくした感情は、ライア様と恋仲になる前――学園にいたころのほうがあった気がする。
 未知の世界を知り、新しい発見に胸を躍らせる。
 公爵邸でのんびり過ごしているだけでは得られない高揚感。

「もしかして、なにか足りないと思ってたのって……」

 満ち足りた生活をしながらも、ずっとなにかが欠けていた。うまく言葉にできないくせに、空いた感覚だけがあった。
 それってきっと――

「ジル、どうしたの?」

 大きめの独り言に兄さんがきょとんとする。
 俺は飛んでいた思考を現実に戻して「な、なんでもないよっ!」と答えた。

「にしても、兄さんは博識だね。案内がわかりやすくてずっと聞いちゃう」

 これまでの案内を振り返り、しみじみと頷く。本当に頭のいい人の案内の仕方だった。

「僕は大学で学んだ内容を喋ってるだけだよ……あっ、そうだ。ジルは大学に行こうとは思わないの?」
「え、大学?」

 考えてもいなかった案に、ぽかんと兄さんを見つめる。

「うん。ジルは頭もいいし、ただ公爵邸にいるのはもったいないんじゃないのかなって」
「でも、俺、大学行ける頭じゃ……」
最優秀モナーク奨学生スカラーになっておいてなに言ってるの。ジルなら余裕だよ」

 あ、それはそっか……
 俺は昨年の新年度祭ノイエス・ヤールの光景を振り返り、歓喜に沸いていた会場の様子に納得する。
 いまだに自分の頭脳には自信を持てないけど、世間一般的に見たら最優秀モナーク奨学生スカラーは頭がいい部類だろう。
 一方兄さんは本気で俺を大学に入れたいようで、興奮気味に語り続ける。

「大学に行ったら専門的な知識も学べるし、大卒の資格はなにかと便利だよ? きっとライア様も喜ぶ」
「え、本当?」
「ほんと、ほんと。だって公爵家は常に人手不足なんだろう? なら学識を持った優秀な人が一人でも多いほうが嬉しいに決まってる」

 俺は自信満々に言う兄さんから目を逸らし、「そっか……」と考える素振りをする。
 ライア様が喜んでくれるなら、大学進学もいいかもしれない。
 兄さんの言う通り、公爵家には十分な人員がいるわけではないし、俺が専門知識を身につけたら喜んでくれる気はする。
 でも……

「ライア様は俺に公爵家にいてほしいみたいなんだ」
「え?」
「だから今は進学はいいかな……」
「………そっか」

 兄さんがなにか言いたげに口を開き、また閉じる。
 せっかく進めてもらったのに断ってしまって申し訳ないけれど、俺はライア様の『私のそばにいるだけでいい』という言葉を優先したかった。
 今だってライア様が忙しくて会えないのに、これで俺が大学へ行ってしまったら、もっと一緒にいられる時間が少なくなるわけで……
 それって、ライア様が望んでいる生活だろうか?
 ライア様の希望を最大限叶えるのが俺の望み。
 なら今は、なるべく公爵邸にいるべきだろう。当主の仕事が忙しいライア様のつかの間の休息にいつでも寄り添えるように。
 愛しい人の事情に自分の予定を合わせるのは、好きな者同士なら当然だ。

「そっか……ジルはライア様が大好きなんだね」
「えっ! あ、いや、まぁ……」

 急な指摘に頬をかく。
 が、「よかったね、ジル。ライア様に守ってもらえて」と続いた兄さんの発言に手が止まった。

「守って、もらえて?」
「え? うん。だってそれって『ジルの生活は俺が守るから、ずっと家にいてくれ』ってことでしょ? さすがだなぁ~ライア様は」

 心底羨ましそうに口に出す兄さんの横で、俺は突然胸に立ちこめたもやもやに一人動揺していた。
 なんでなんだろう。兄さんは俺を傷つけるような悪口を言ったわけでも、ライア様をけなすような発言をしたわけでもないのに。
 でも『守ってもらえて』が頭の中で反芻するたび、未知の違和感が心を焦らせる。

「ま、乗り気じゃないのに無理に進学を進めるのも違うよね。聞かなかったことにして」

 俺が瞳を震わせたのを察してか、兄さんが明るく応えて話題を変えた。

「うん……あ、でもやっぱり、進学ちょっと興味あるかも」

 湧き出た暗いもやを隅にやり、俺は大学進学に意識を向ける。
 たしかにライア様のそばにいたい気持ちもあるけれど、兄さんと話をしていて新しい世界を知る楽しさも思い出してしまった。
 だから進学を聞かなかったことにするのも難しくて……

「本当!? 半期だけ通える短期制度とかもあるんだよ」
「あ、へぇー……短期かぁ。お試しにいいかも………」
「うんうん、きっと今以上に公爵家の役に立つよ」

 早くも兄さんは、俺の行動基準が『公爵家の役に立つか立たないか』なのを察したようだ。的確に俺の心を揺さぶる。
 ……もし俺が大学で新しい知識を身につけて、公爵家になくてはならない存在になったら、ライア様は正妻を迎えても、俺をそばに置いてくれるだろうか?
 ふと想像した未来が明確な像を結ぶ前に、俺は脳内で手を振って打ち消す。
 勝手な期待は、実らなかったときが辛い。
 なら最初から夢想なんてせず、考えないようにするのが一番だ。
 今は不たしかな未来など考えずに、ライア様にとってどちらが利点が多いかで決めよう。
 俺は埋め立てられる領地を見渡しながら、今後の策を考えた。



   ライアの苦悩


「教授、久しぶりだな」
「あっ! お久しぶりでございます、ライア様」

 第七開発現場まで辿り着き、従業員に指示を出していたチャールズ教授に声をかける。
 チャールズ教授は口髭を触りながら、黒縁眼鏡の奥の瞳を輝かせていた。

「ライア様、すごいですぞ! 従来の方法だともっと時間がかかっていたのが……」

 チャールズ教授から渡された紙束を見ながら、設営された仮設テントへ向かう。
 興奮気味に早口で話す教授の様子から、いかにこの建設が知的好奇心をそそるのかがわかった。
 私は領地運営の観点から建設を見守っているが、教授は教授で、探究心を元に新港と向き合っている。利害が一致しているのは大変ありがたかった。

「ほう、もうここまで進んでいるのか」

 渡された書類に目を通すと、たしかに指摘された項目は予定日より早く進んでいる。
 けれど紙をめくると出勤名簿が出てきて思わず顔が歪む。

「やはり、欠勤が増えたな……」
「……ええ」

 仮設テントの垂れ幕を開け、中に足を踏み入れる。中には大きなテーブルと私が仕事で使うデスクと椅子、ほかには書類をまとめて置いておく書棚がふたつあるだけで、かなり質素なつくりだ。
 私は建築資料が置かれた大きなテーブルに書類を載せる。
 教授も反対側から書類を覗き込み、「はい……今はまだ早く進んでいますが、来週には遅れが出てくるでしょう」と沈鬱な表情で答えた。
 教授がひどく面目なさそうにしているが、悪いのは彼ではない。

「……やはり、ダン・ドリトアか」
「ええ、さようです」

 はぁ……という二人分のため息が、テントの中に漂った。
 ダン・ドリトアは元シャルマン家領地で漁港組合の組合長をしている中年の男だ。大きな体躯とよく通る声は地元では有名で、毛深い腕をしているのもあり、最初は熊のような男だと思った。
 初めて見たのは一か月ほど前。「ここを掘り返すとは何事だ!!」と建設現場入り口で喚き散らしているのを遠目で確認した。

「まだ反対してるのか……」
「はい。領民に働きかけ、欠勤を促しているようです」

 新港で働いている従業員は、教授やウェスのように専門知識を持った学者もいれば、元シャルマン領で集めた地元民もいる。
 公爵領から連れてきてもいいが、宿泊費など費用がかさむし、新港をつくっている間は漁が制限されるため、元シャルマン領で溢れた漁師たちを雇用するのも目的だった。
 しかし、まさか反対運動が起こるとはな……
 今回の視察で最初に感じたのが働いている人員の少なさだ。一か月前はもっと人がいたのに、欠員が目立つ。

「くそ。ダンさえどうにかなればな……」

 ダンは新港建設によって漁獲量が減ると信じ込んでいるらしい。
 なにを根拠にそんな主張を繰り返しているのかわからないが、こちらが何度説明しても聞く耳を持たない。
 まるで狂信者のように一方的に言ってくるので、手のつけようがなかった。

「本当に、なんでこんなに反対するんでしょうか」
「さあな。自分が蚊帳の外なのが嫌なんじゃないか?」

 貴族界でも幅を利かせている迷惑なご老人たちを、ダンに重ねる。
 ああいう上に立つ人間は、どんなに小さな案件でも一々お伺いを立てないと機嫌が悪くなる。
 冷静に考えれば最良の選択肢なんてひとつしかないのに、自分の権限をないがしろにされると誰も得しない最悪の決断を推し進めようとする。
 ああ、忌々しい。分別のついていない大人は大嫌いだ。

「まぁ、今は様子を見るしかないだろう。最悪領主命令として無理やり進めるさ」

 無駄なお茶会でもよくやっている手法だ。公爵としての権力を使い、強制的によき方向へと促す。
 しかし……できればしたくない。
 独裁的な方法は効率がよくとも、周りがついてこない。
 冷酷な公爵としての悪名はときには便利だが、いつかは自分の首を絞めるだろう。
 それに、変に恨みを買うとジルにも危害が及びかねない。
 私だけならどうとでもなるが、今は守るべきものがある身だ。
 慎重に物事を進めなければ。

「たしかに、最後は強制ですかね……」

 チャールズ教授が曖昧な同意をしたとき、テーブルに陽の光が入り込む。
 誰かが垂れ幕を開けたのだ。
 声もかけずに勝手に開けるとは何事だ、と入り口を睨みつけると、背の高い白衣を着た男が立っていた。

「あ、カインくん」

 教授のつぶやきに、どうも知り合いらしいと察する。


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