後天性オメガの近衛騎士は辞職したい

栄円ろく

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第一章

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 「そうだ。運命の番探しをやめる気にはなったか? 運命の番なんかいなくても、美しい景色を見て過ごすのは楽しいだろう?」

 「え、あ-……」

 イアンは頭の中の疑問を隅によせ、もう一度湿原を見渡す。たしかにロイの言う通り、運命の番がいなくても、幻想のような世界は心を震わせた。

 それでも思ってしまう。

 「楽しいけど……それって運命の番と見ても楽しいんじゃないかな」

 ここ一ヶ月、感じ続けていたことだ。今日の素晴らしい風景だって、見るのは楽しいだろうけど、一人では熱中できそうにはない。
 残念ながら今回も、いるとわかっている相手を探すのは、やめられそうにはなかった。

 「そうかもしれないな」

 珍しく、運命の番を軽蔑しているロイが、イアンの意見に同意する。

 「運命の番と一緒ならより楽しいかもしれない。でも、そいつが魔花に興味が無かったら? お前の意志なんて無視して、体だけを求める最低なアルファだったら? ……きっと一生ここには来れないだろう」

 「そ、そんなこと」

 あるわけない……とは言い切れなかった。

 運命の番は発情期になった自分を離宮まで運んでくれた優しい人。それ以外イアンは何も知らない。すぐに番にしなかった理由も、イアンに会いに来ない事情も、いまだ謎に包まれたまま。

 悔しいことに、ロイの指摘は的を得ている。

 「……イアンにはそんな素性もわからないやつと、番になって欲しくない」

 ロイから聞こえてきたつぶやきに、イアンはえっと声が出そうになる。どうしてロイが自分の番相手に口を挟むのだろうと。それこそロイには関係ないことなのにと。

 「な、なんで……そんな。だったら、どんな相手なら……」

 狼狽えるイアンに、なぜかロイは目を伏せる。

 「それは……イアンが……心から好きになったやつ」

 ——心から好きになったやつ? 

 「そ、そんなの……」

 なんて可愛い考え。
 ロイの幼すぎる思考に、初めてアルファを憎いと思った。

 「そんなの、選ぶ側の意見だ」

 イアンはうっと苦しくなるほど首をつかむ。指がチョーカーに食い込み、気道を狭めた。
 こんなのは八つ当たり。ロイは悪くない。そう頭では理解していても、話すことをやめられなかった。

 「ロイはアルファだから、そんなことが言えるんだ。でも俺は、子供も産めない、中途半端な体なんだよ? 誰も番になんて——」

 そのとき、視界が揺れる。ボートが大きく波打つ。

 「いま、子供を産めない……中途半端な体って言ったか?」

 首を締めていた手が、無理やりロイに引き剥がされた。跡になりそうなほど強い力に、イアンは目を見開く。

 「ロ、ロイ、?」
 「おい、それは誰かに言われたのか!?」

 声にははっきりと怒気が孕んでいて、ビクッと体が震える。

 「そ、そういうわけじゃ……」

 嘘だった。
 実家に帰ったら、部屋で話している両親の声が聞こえた。
 大学の構内を歩いていたら、学生がすれ違いざまに囁いた。

 騎士団本部に行ったとき、団員たちが馬鹿にするように吐き捨てた。
 イアンは何度も、何度も、刺されたことがある。憐れみの声に混じった、毒の針に。

 「言われたんだな……お前はすぐ顔に出る」

 怒りは消え、悲しみに満ちたロイの顔に、イアンは動揺する。

 「あ、その」

 ロイは無言でイアンの頬に指を這わせた。何かを拭われる感覚に、イアンは初めて涙が出ていたことに気づく。

 「ご、ごめん、泣くつもりは」
 「違う。謝るな」

 不完全なイアンの体が、ロイに包み込まれた。とくとくと温かな鼓動がシャツ越しに伝わる。

 「俺はお前に怒ってるんじゃない。お前のことを、子供を産めるか産めないかで判断した、クズどもに腹が立ってるんだ。イアンのことを、何も知らないくせに!」

 背中に回された腕がぎゅうとしまる。

 「お前の瞳は……紺瑠璃花に似ていて吸い込まれそうなほど綺麗だ」
 「……え?」

 突然の告白に、イアンは戸惑った。

 「……触るとふわふわの癖毛は、いつも手を伸ばしたくなる。ぱっと華やぐような笑顔。剣を握る凛々しい姿。凍てついた心を溶かす、暖かな声。どんな人間にでも手を伸ばす優しさは、誰にも真似できない」

 恥ずかしくなるほどの褒め言葉が、雨のごとく降ってくる。

 「たとえ子供が産めなくても、お前の番になりたいやつはたくさんいる。それぐらいお前は魅力的だ。だから……だから、誰も番にならないなんて、そんな悲しいことは言うな」

 毒に侵され萎びた心に、ロイの降らせる雨が染み渡る。
 イアンの中で、何かがうねった。それはまるで、枯れかけの花が、新鮮な水を得て蘇るように。

 「……お前を傷つけるやつらより、俺の方がお前を知ってる。だから俺の言葉だけを信じろ。イアン、お前だって番う相手は選べる。フェロモンなんかじゃなく、お前が一生添い遂げたいと思う相手と番になれ。お前を一番に考えて、何よりも大事にしてくれる……そんなやつなら、俺は文句は言わない」

 ロイはイアンの背中を優しく撫でる。大切な物を扱うような手つきに、とうとう、イアンの口から嗚咽が溢れた。

 イアンは弱い部分を晒したくなくて、必死に抑える。けれど抑えようと思えば思うほど、しゃっくりはひどくなっていって。途中でやめた。

 (どうしてロイは……俺のことを……大事にできるの?)

 わからないことだらけだった。たくさんの褒め言葉も、いつから感じていたことなのか。それは本心ではなく、慰めるための優しさなのか。

 知りたいことも、考えたいことも沢山あった。けれどロイの手のひらが温かすぎて、イアンの思考はまとまらずに、流されていった。
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