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第一章

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 「……ねぇ、覚えてる? ロイが十四歳ぐらいのころかな。メイドのマディおばさんがさ、ベータなのにロイのフェロモンに当てられちゃったときのこと」

 体の隅々に甘い紺瑠璃花の香りが巡ったあたりで、イアンは口を開いた。

 決してボートは小さくなかったが、ロイの長い足が窮屈そうに収まっているのを見て、初めて乗ったときはそうでもなかったのに……と思ったのがきっかけだった。

 「ああ覚えてるさ、お前と一緒にボートに乗って池まで逃げたな」
 「そうそう。あのときは大変だったよね」

 マティおばさんだけじゃない。十代の美少年を狙う使用人は多かった。十四歳のときは家庭教師に服を脱がされ、十五歳のときは庭師の青年に雑木林へ連れ込まれそうになっていた。

 そういう下劣な考えを持つ悪人は、頭だけは回るため、ジャックのいない隙を狙ってやってくるのだ。

 イアンも王室専属の使用人に剣を振るうわけにもいかず、ロイを連れて毎日逃げ回っていた。いまはもうロイが全員追い出したおかげで、そんなことは無くなったのだけれど。

 「なんで……俺を守ってくれたんだ」
 「え?」
 「俺なんか守っても、お前に得は無かったはずだ。実際お前が来るまで、ジャック以外誰も守ってくれなかった」

 オールを漕ぐロイの顔には疑心の色が浮かんでいて、イアンが初めて会ったときに絡っていた、刺々しさを彷彿とさせる。
 ロイの言う通り、冷遇されている第三王子を真面目に守ったところで誰も評価はしてくれない。それよりも他の上級貴族へ媚を売って、御用を聞いた方が将来的にはいいだろう。

 「うーん、そうだなぁ」

 イアンは十五歳で騎士になった。その後すぐに第三王子の近衛騎士に配属にされ、当時は大変驚いた。普通、王室の近衛騎士には神聖位騎士か、アルファの優秀な騎士がつくものだから。

 異例の大出世にイアンは喜んだが、周りの目は冷めたものだった。

 『ベータの癖に、技能試験でアルファの騎士に勝ったからだ——』

 まことしやかに囁かれた噂は、随分後になってから知った。出る杭は打たれるのが騎士団本部。成績は良く、爵位も申し分ないイアンの扱いに困った結果、第三王子の近衛騎士に落ち着いたのだろう。

 しかし周囲の思惑など、イアンにはどうだって良かった。

 どこへ行っても凛と美しく前を向く。騎士として恥じぬ生き方をしたい。

 ただそれだけを信念に、ロイに付き従った。

 「俺は近衛騎士としての職務をまっとうしたかっただけだよ。それに……君に必要とされていることが、嬉しかったんだと思う」
 「嬉しかった?」

 改めてロイに問われ、イアンは気恥ずかしくなる。

 「ほら、ロイの護衛って俺一人しかいないし……いなくなったら大変かなと思って……」

 助けて欲しいと直接言われたことはない。最初のうちは『やめろっ!』という叫び声を聞いて駆けつけていた。それがだんだんとイアンの名前を呼ぶようになり、側にいろと言われ、徐々に必要とされることが増えた。

 主人との距離が近づく度に、近衛騎士としてもっと役に立ちたいと思うのは、当然の宿命だろう。

 「ま、俺の勘違いだとは……」
 「いや、お前は必要だ」

 ロイの装飾のない言葉に、心臓がどきりとする。

 「今も昔もこれからも……俺にはイアンが必要だ」

 いつの間にかボートは動きを止め、ロイがイアンを見つめている。嘘偽りない真っ直ぐな物言いは、愛の告白のようにも聞こえて——

 そういう意味で言ってるわけでない。イアンはわかっていたけれど、頬は否応なしに熱くなった。

 「そ、そうはいっても、君を助けていたのは昔の話だ。今は役には立たない……俺を近衛騎士として側に置いてくれるのは嬉しいけれど、あのときの恩はもう十分返してもらったよ……」

 勘違いしないように述べた戒めの言葉に、大きなため息が聞こえた。

 「恩ってお前……俺がお前を近衛騎士に置いてるのをそんな風に思ってたのか?」
 「え? 違うの?」
 「んなわけあるかっ!」

 まさかの事実に、イアンは驚く。ロイはその様子に、呆れているようだった。

 「じゃ、じゃあ……なんで俺を側に置いてるの?」
 「それは……」

 イアンの返しが意外だったのか、ロイは満月が映り込む水面を見ながらしばらく考えこむ。ぽつりと返ってきたのは、

 「……研究したいと思ったからだよ」

 というなんともロイらしい答えだった。

 「あ、そっか……」

 イアンはすっかり忘れてた。ロイが研究にしか興味がないことを。その事実にどこか落胆していて、自分はなにを期待していたんだろう? という疑問が頭の中をよぎった。
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